銀河英雄伝説 ファニー・ウォー   作:ブッカーP

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外伝第二話 彼岸花の少女(下)

 午前十時ごろ──

 

 ヤンはいらいらしながら右手の拳で机をこつこつ叩いていた。治安警察にある依頼をしていて、もうそろそろ結果が出るはずなのである。可及的速やかにと、何度も念押ししていたが、ただの憲兵中尉では、それはお願いする以上の意味を持たない。もし、先方が忘れていて書類棚の下に放置するなどということがあれば、これまでのことは全部おじゃんである。

 

 コミュニケータが着信を告げた。発信元を確認し、すぐさま受信モードに変更した。

 

「ヤン・ウェンリーです」

 

「あ、どうも。例の件、科捜研から結果が来ましたよ。間違いありません。DNAが一致しました。一体あの髪の毛、どこから入手したんですか?今回の件、被害者の特定ができないから捜査の連中が困り果てていてですね。というか、この髪の毛、誰のものなんです?一致していたら教えてくれるんですよね。どうみても女性の毛……」

 

「すいません。その話については一日だけ待ってください。明日には事情が明らかになると思います。こちらは急いでまして。それでは」

 ヤンは相手の抗議を無視して通信を切った。これで、残っているハードルは一つになったはずだ。こればっかりは出たとこ勝負となるしかない。ヤンはコミュニケータを操作し、あるIDに発信した。

 

「もしもし?ヤン中尉です。どうです?よかった。搭乗開始までまだ時間は……そうか。とにかくそこを動きそうなら連絡してください。絶対に見失わないように。これが終わったら、夜間当直を向こう一か月全部引き受ける、わかりました。大丈夫です。では、よろしくお願いします!」

 ヤンはコミュニケータの通信を切ると、どたどたとオフィスを駆け出して行った。事務員が行き先を聞くと、ヤンは「早退!早退!」と叫んでそのまま部屋の外に飛び出していった。ちなみに本筋ではないが、事務員の手には、ヤンが探していたペンが握られていた。ヤンが打ち合わせで使っていた会議室に置きっぱなしになっていたのである。

 

 

 

 しばらくしてマスジット宇宙港──

 

「ご案内いたします。ギャラクシー・カナロア株式会社、コスタノヴァ号、惑星ハイネセン行にご搭乗予定のお客様、搭乗締め切り30分前でございます。ご搭乗の方、お早めに搭乗ゲートにお越しくださるか、最寄りのスタッフにお申し出ください。コスタノヴァ号に搭乗予定のお客様──」

 

 宇宙港のベンチには、イノウエ伍長が座っていた。彼女はこのコスタノヴァ号に搭乗し、ハイネセンへ帰ることになっていたが、彼女が搭乗ゲートに向かう気配は見られなかった。服装は以前ヤンから駄目出しされた学生服と背嚢の出で立ちである。ここ一時間、ずっとうつむいたまま下を見つめたままであるが、何か声をかけようとする人はいなかった。

 

 あと三十分すれば、自分の命運は決する。後は、なるようになるだけ。終わりがどれほど理不尽であろうとも、もう運命は変えられないのだ。

 

 それは分かっていた。いや、分かろうとしていた。だが腕の震えはどうやっても止まらない。何故運命を受け入れるのが怖いのか。何度も考えて、考えた挙句に受け入れた運命ではなかったのか。それから逃げたとて、何かが良くなるという保証はない。いや、状況は悪くなる一方のはずだ。DAはそのようなことを許さない。

 

「……ちょう」

 何か、声が聞こえたような気がした。無視する。

 

「伍長!伍長!!」

 五月蠅いと思って、声の方を見上げると、なんとそこにはヤン・ウェンリーが居た。肩で息をして、顔には汗が浮かんでいる。

 

「中尉?一体何故ここに」

 

「伍長。搭乗はもう締め切りに近いはずだ。あの宇宙船に乗るはずだったのではないか?」

 

「……別に今からでも搭乗は可能です」

 イノウエ伍長は目をそらした。

 

「では何故銃を隠し持っている。セキュリティゲートを通る前に、銃は預けて封印してもらうはずだ」

 

「別にどうでもいいでしょう」

 

「……そこに座らせてもらう」

 ヤンはイノウエ伍長の隣のベンチに座った。

 

「科捜研から連絡が来た。あそこにあった血だまりは、君の血だね」

 そう言われてイノウエ伍長は驚愕して振り向いた。

 

「どうして……何故分かったんですか?」

 

「わかりたくはなかった」

 ヤンは下を向いたまま言った。

 

「あれから、あの部屋にもう一度行った。そしたら、電気、ガスはもちろん、水道まで止まっていた。人が潜伏するのに、電気やガスがなくても何とかなる。だが、水道はそうはいかない。特に下水道が使えなければ、生活に不自由する。だから、あの部屋にフォン・クラームという人物は存在しなかったと仮定した。あの血だまりは、あそこで殺人が行われたということを偽装するために、わざとばらまいたものだと」

 

「どうやってでしょうか。あの量の血を流したら、人は生きていけません。ですが、自分はまだ生きています。辻褄が合いません」

 

「そう。君は生きている。そこは問題だが、今そこを議論する場合じゃないと思う。その仮定が正しいかどうか、偽装だとしたらその目的は。それを知るために、科捜研に君の髪の毛を渡した。会議室の掃除をさぼっていたのは怪我の功名だね」

 

「警察に渡したんですか」

 ヤンはうなずいた。

 

「だが、逮捕はされない。髪の毛は渡したが、誰のものかは明かしていない。それは待ってもらっている。でも、あの血液が君のものだと判明した今、もう時間はないはずだ。君を待っている運命は、死か……あるいは表向きは死んだことにして一生を過ごすか、どちらかではないのか」

 

「……中尉、駄目です」

 

「それは承服しかねる」

 ヤンにはイノウエ伍長が涙声になっているのが分かった。

 

「これ以上巻き込むと、中尉も危険です。中尉が伍長を危険に晒すことはあっても、その逆はあってはならないのです」

 

「そうか……なら……というか伍長。まずはここを出よう」

 ヤンはイノウエ伍長を引っ張り上げると、半ば引きずるように宇宙港から外に出た。男女が視線も交わさずに会話して、女性の方が泣き出しているということで、痴話喧嘩か何かと間違えられていたようだ。周囲からの視線を集めていることを今さっきヤンは知ったのだった。

 

 

 

 平日なのに、日が高いのに軍服姿の男が女連れで歩いているとしたら、それは間違いなく目立つものだ。それ故に、話し合いの場所は慎重に選ばざるを得なかった。身内に見つかるのもいろいろ問題だが、民間人に見つかって噂されるのはもっとまずい。結局、密談の場所は、マスジット自治大学のキャンパス内にあるベンチということで落ち着いた。社会人聴講生も大量に居る関係で、場違いなカップルが居ても気にする人は少ないし、軍服姿で歩いていてもあれこれ言われることは少ない。それに、ヤンは聴講生として大学に訪れる間に、人通りの少ない場所をある程度把握していた。

 

「中尉。一体どこまで知っているんですか」

 先に話し出したのは、イノウエ伍長だった。

 

「それほど多くは。分からないことだらけだ」

 

「なら、何故知ろうとするのでしょうか。知っても意味はないはずです。むしろ自分の身が危険になるでしょう」

 イノウエ伍長は、大学の売店で買ってきたフィッシュアンドチップスをつまんだ。

 

「人は」

 ヤンも同じく、フリッターをかじりながら話し出した。

 

「自分の関知する範囲で、自分に関係のないことが起きても、それに関してアクションを起こそうとはしない。現代社会というのはそういうものだ。目につくものに反応してては体がいくらあっても足りないからね。しかし、後でいろいろ考えてみると、その、目の前でスルーした事実が大きな意味を持つことだってある。だから、人はこう思うようになる。あの葡萄は酸っぱかったのだった、と」

 

「そういう意味で、今回の事件はまさにそういう案件だった。情報部じきじきの命令で、やってきたのは伍長。我々は指揮こそ受けないものの、任務で主導権を握るのは伍長の方なんだ。これでは誰もやる気が出ない。自分が担当になったのも当然のことだよ。下っ端に押し付けたいだろうから」

 イノウエ伍長は、もくもくとチップスを食べながら聞いていた。気分もいくらか落ち着いたようだ。

 

「そして任務の内容も変だった。フォン・クラームという人物の安全を確保しろ、ということだったけど、この人物が何者なのか、一体どこにいるのか、どういう特徴があるのか、全く明かされなかった。これでは調査のやりようがない。真面目に任務を遂行したいなら、もう少し情報を出すものだ。しかしここで、我々のやる気の無さが前面に出てくる。調査の主導権を握る情報部がそこまで非協力的なら、ならば情報部に任せてしまえ、そう思ってしまうわけだ」

 

「今から考えてみると、君が持ち込んで来た手がかりも、手がかりと言えるかどうか怪しいものだった。調査の進展にはほとんど寄与しなかった。そう、考え方を変えるべきだったんだよ。これは調査じゃないんだ。後で、調査をやってましたと主張するためのアリバイ作りだよ。善意の第三者にそう言わせるために、あらゆる材料がセッティングされている」

 

「そういう前提に立つと、何故あの場所に血があって、死体が発見されなかったのかが分かる。治安警察は死体を探すだろう。あの血を手がかりにして。ということは、あの血が付着した死体が発見されたら、それが目的のフォン・クラームということになる」

 

「警察はそこまで馬鹿じゃないと思いますが。そんなトリックは、慎重に捜査すればすぐ分かるものでしょう」

 

「そうだろうか伍長。このフォン・クラームなる人物は、任務途中に行方不明になった。もし、それをたてに捜査の優先権を軍が主張したら、警察はそれ以上追うことはない。マスジットの警察は人手不足だから尚更だ。となると、結論は一つだ。この血の持ち主は、次の殺人に確実に巻き込まれることになる。それを避けるためには、君の知っていることを話してもらうしかない」

 

「……一つ聞いていいですか」

 ヤンはうなずいた。

 

「中尉は何故、そこまでお節介を焼くんですか。そこまで分かっているなら、介入しても得るものはないことを知っているはずです。どうせ何もしなくても、情報部に全部押し付けてしまえばいいのでしょう?伍長が一人どうなろうと、貴方にはなんの関係もないはずです」

 

「でも伍長、それは本心ではないだろう?」

 

「どうして」

 

「本心でそう思っているなら、宇宙港で時間なんか潰しているはずがないからだ。あんなに動揺したりしないはずだ。君は迷っている。口で言っていることと行動が一致していないんだよ。そして、さっきの君の言葉からすると、私も知りすぎている、ということになりはしないか。それにだ」

 

「それに?」

 

「軍隊というところは、上官に恵まれるかどうかで生きやすさが全く変わってくる。だが、友人という横の繋がりも大事だ。いや、軍隊側もある意味それに依存しているんだよ。古来、戦友愛を戦略に織り込む軍事指導者は何人も居た。そういう概念を踏みにじる存在は、私の好みではない……これでいいか」

 

「……分かりました」

 イノウエ伍長は、ヤンのことを横目で流し見しながら、一言言った。ヤンの言葉をそのまま信じてはいないようだった。

 

「そうか」

 ヤンはうれしそうにうなずいた。

 

「後悔すると思いますけど」

 

 

 

「……なんとまぁ」

 イノウエ伍長から事のあらましを聞かされた、ヤン・ウェンリーの第一声はそれだった。確かにとんでもないことだ。想像はしていたが、現実はさらに酷いものだった。

 

「後悔しましたか」

 

「いや、それは」

 イノウエ伍長の質問に、ヤンはかぶりを振って否定した。

 

「何か名案があるんですか」

 

「それは難問だな」

 ヤンは正直に言った。イノウエ伍長の話を要約すれば(動機の箇所は別として)、DAの幹部で今回の作戦を指揮した人物が既にマスジットに到着している。そして、今夜、イノウエ伍長はその男に呼び出されているというのだ。予定にはなかったとのこと。恐らく、そこに赴けば彼女の破滅は避けがたいものとなるだろう。ヤンの予想が正しければ。

 

 これがアクション映画なら──何も考えずに楽しむタイプのアクション映画なら、むくつけき大男が武器をしこたま持ち込んで敵の本拠地に殴り込みをかけるところだろうが、今のヤンには自分の身以外何もない。銃一挺、弾一発すらないのだ。そもそも軍というのはそういう所で、命令がない限り武器を使用することは許されない。下手をすると武器庫から取り出すこともできないのだ。そして、情報部の伍長の助けに応じて兵や武器を提供する上官などいるわけがない。義憤にかられる人々はいるかもしれないが、それが関の山というものだ。

 

「いざとなったら、自分が乗り込むしかないか」

 

「思っても無いことを言わないでください」

 ヤンの言葉をイノウエ伍長は却下した。

 

「大佐は護衛を連れているはずです。格闘能力も射撃能力も高いエキスパート相手に何をするつもりですか」

 

「いや、それも難しいけどそれは本質じゃない。問題はその先だ。敵を一撃で叩きのめさないと意味がない」

 そう、こちらの命を狙っている敵を、組織ごと再起不能にしないと、あるいはその入り口を作ってやらないといけない。そのためには一時の勝利など意味がない。相手に逃げられれば、今度はこちらが死ぬまで追われる番なのだ。権力も実力もある相手にチャンスは恐らく一回限り。一体どうする?敵を叩く方法、叩きのめす方法、両方無いと意味がない。両方ともカードはないわけではないが、カードをかき集めても押し切れる確証がない。多分うまくいかないだろう。

 

 だからといって簡単に諦めるわけにもいかない。彼女が自分の身の危険を感じているのは、単なる予感ではない。同僚達からそのような警告を受けているそうだ。そして、彼女もそれに同意している。そこは動機に大きく関わっていることである故に。ならば、その思いを無駄にしていいはずがない。

 

 ヤンがうんうんうなっている間に、何か外で騒ぎが起きていた。シュプレヒコールのようなものが聞こえて、それがこちらに近づいている。なんとか反対、行政府はなにやらを撤回せよ、そう言っていた。

 

「中尉、あれは?」

 

「ああ。新工場建設でもめてるやつだ」

 現在、惑星マスジットでは地下資源を目当てに複数の会社が進出を計画しているが、環境破壊の懸念があるということで反対運動がいくつか行われている。もちろん、それで工場誘致がおじゃんになるわけではなく(反対派もそこまでは考えていない)、行政はそういうのをなだめすかして工場を誘致しているわけであるが、反対運動がそう簡単におとなしくなるわけではない。おとなしくなるわけでは……待てよ?

 

「伍長、君が呼び出されている場所、間違いないね」

 ヤンの質問にイノウエ伍長はこくりとうなずいた。

 

「……繋がった。限りなく細い糸かもしれないが、可能性はゼロではない。伍長、行こう。事を謀るは人に在りだ。事を成すことは後で考えよう」

 ヤンはイノウエ伍長の手を引っ張り、早歩きで歩き出した。引っ張られる方のイノウエ伍長は、一体ヤンが何を考えついたのか考えながら、流されるままここまで来てしまったが、やっぱり話すべきではなかったのではないか、そういうことを考えていた。

 

 

 

その日の夜──

 

 イノウエ伍長は、マスジット軍基地近くにある、閉鎖された演習場を歩いていた。もちろん、演習場入り口は施錠されていたが、すでに錠は破られていた。そもそも誰もそんなことを気にしていなかった。監視カメラも設置されていたが、動作していないことは確認済である。

 

 伍長は演習場内を十分ほど歩くと、コンクリート造りの建物にたどり着いた。平屋の、ちょっとした売店のような建物だった(著者注:大きさをイメージするには標準的なコンビニエンスストアを想像するのが適切)入り口には数名の兵士が立っている。伍長は入り口で簡単な身体検査を受けると、持参した荷物を指示通りに入り口に置き、ドアから中に入った。

 

 中は非常灯がいくつか点灯している以外は、まったくの暗闇だった。おそらくそれしか電気が通っていないのであろう。入り口から奥はさらに薄暗いが、目を凝らせば何人か人がいるのがわかった。こっちだ、という声がしたのでイノウエ伍長はそちらに歩いて行った。途中で止まり、直立不動の姿勢で敬礼した。

 

「イノウエ伍長、任務完了いたしました」

 

「よろしい。休め」

 中央に居た男が答礼して、そう言った。

 

「ご苦労だった……と言いたいところだが、あの中尉と何を話したのだ」

 

「業務上必要なこと以外は何も」

 伍長はそれだけ答えた。

 

「貴様がマスジットの宇宙港から、あの中尉に連れられてどこかへ行ったのは分かっている。その後、尾行に邪魔まで入る念の入れようだ。もう一度言う。あの中尉は何者だ。一体何を話した」

 

「業務に……必要なこと以外は……何も」

 イノウエ伍長は繰り返した。声がやや震えている。

 

「そうか。ならば貴様には任務を完遂してもらわねばならん」

 男は無駄のない手つきで銃を取り出すと、イノウエ伍長に一発撃った。伍長は何か言い出そうとしていたようだが、結局崩れ折れるように倒れて動かなくなった。

 

「あの中尉も一緒に送ってやらないといかんな」

 男が左右にいる男に、顎をしゃくって指示をしたその瞬間、外からぽん、と物体が飛来する音が聞こえた。直後、建物のガラス窓が複数ぱりんと音をたてて割れ、入ってきた物体により、室内は轟音と閃光に包まれた。さらにその一瞬後、さらに飛び込んできた物体が噴き出した気体を全員が吸い込み、昏倒してしまった。

 

 

 

 外に居た兵は、幸運にも閃光、衝撃、ガスの洗礼を浴びずに済んだ。だが、その直後にいきなり駐屯地の電灯──電気が通っていなかったはずの電灯が一斉に灯り、ところどころにあるスピーカーから警報音が鳴り出したのを聞くことになった。一体何があったのかと兵達は周りを見回したが、遠方からがちゃがちゃと音を立てて高速接近する複数の物体を見つけるまでにそう時間はかからなかった。

 

「おい、あれ──」

 それが何であったかを確認した兵達は、ブラスターを取り出すとそれに向かって射撃した。だが、それは止まることなくどんどんこちらに近づいてくる。そうであろう。接近してくるのは白兵戦防護服に身を包み、戦斧(トマホーク)を抱えて走ってくる装甲歩兵だったのだから。ライフルの射撃すら跳ね返してしまう装甲服に、ブラスターでは歯が立つわけもなかった。

 

 兵士達が武装解除されるのに三分もかからなかった。

 

 

 

 室内で昏倒した人々のうち、最初に目を覚ましたのは伍長を撃った男であった。男が最初に見たのは、左右に居た護衛が倒れたまま手錠をかけられている姿だった。男はよろよろと立ち上がると、室内に乱入した装甲歩兵を呼び止めた。吸い込んでしまった無力化ガスの影響がまだ残っていて、うまく声が出せなかった。何故か室内は電灯がついていて明るくなっている。

 

 装甲歩兵のうち一人が男の姿を認めると、腕を掴んで強引に立ち上がらせようとしたが、

軍服の階級章を認めると、腕を離して敬礼した。男の方はわずかによろめいた。

 

「……一体何の真似だ。指揮官はどこだ。どこにいる」

 言われた方はしばらく固まっていたが、すぐに別の兵が駆け寄ってきて、ヘルメットのバイザーをはねあげた。中の顔が少し見える。

 

「マスジット装甲歩兵第一連隊、教導E中隊第一小隊長補佐、エルナンデス曹長であります!大佐殿」

 曹長はそこまで言い切って敬礼した。

 

「一体これはどういうことだ。状況を説明しろ。あと、あの手錠を外せ」

 

「大佐殿。失礼ですが貴官をイノウエ・タキナ伍長殺害未遂容疑で拘束します」

 曹長は大佐を無視すると、後ろ手に手錠をかけようとした。

 

「待て!待て!貴様、何の権限あってこんなことを。第一……おい……未遂だと?」

 直後、大佐は信じられないものを見た。射殺したはずのイノウエ伍長がむくりと起き上がり、軍服のボタンを一つむしり取ったところを。

 

「お分かりになられましたか」

 曹長はそれだけ言うと、大佐に手錠をかけた。

 

「おい、貴様!そもそも何の証拠があってこんなことをする。軍法会議にかけられるのは貴様の方だ。このままなら銃殺刑──」

 

「証拠なら」

 曹長はイノウエ伍長からむしりとったボタンを受け取った。

 

「これが一部始終を記録してくれています。いや、もう既に配信されております。既に憲兵隊も治安警察も見ているでしょうな。自分も、見てから突入しております。情報部の間抜けさを目の当たりにするのは、痛快でもあるし、悲しくもありますな」

 事ここに至り、自分が嵌められていることを完全に認識した大佐は、それまでの威勢はどこへやら、急に馴れ馴れしくなった。

 

「曹長。今からでも遅くない。考え直してもよいのではないか。これは帝国に対する欺瞞作戦だ。帝国が潜入させたスパイを処分した、という偽の情報を掴ませるためのな。憲兵隊のトップを呼んできてくれ。そうすれば、君達の誤解を解いてくれるはずだ。君達もこんな装備を持ち出して、その時にいろいろと無茶をしたのではないのか。私なら、何もなかったように口をきくこともできる。それだけじゃない。情報部より勲章を出すこともできるぞ。だから今すぐ、この手錠を外して、憲兵隊の上官を呼んできてくれ。おい、聞こえないのか──」

 

「憲兵隊本部は夜間当直を除いて全員帰宅しております。今日は留置場にご滞在頂き、明日面会してください──アダムズ大佐。この名札が正しいのであれば」

 曹長はアダムズ大佐の御託を無視して、一瞬名札を見てそう言った。部下に連行するよう命じる。大佐はそれからも後悔するぞだのなんだの叫んでいたが、誰も気にかけていなかった。むしろ、床にへたりこんだイノウエ伍長の方を心配していた。彼女が軍服の下に着用していたエネルギー中和ジェルパッドは、ブラスター程度のエネルギーを吸収することはできるが、着弾の衝撃が全くないわけではない。当たった胸部の骨にひびが入るぐらいのダメージは想定しなければならなかった。

 

 

 

そして一週間後── 

 

「どうも。忙しい中済まないな」

 

「絶対、私が忙しいと思ってないでしょう。キャゼルヌ少佐」

 ヤンはFTL通信機の相手、キャゼルヌ少佐にぶうたれた。仕事の最中に、いきなりFTL会談がセッティングされて、相手は旧知のキャゼルヌ少佐なのである。もちろんヤンがたまった仕事を一生懸命片づけている最中に、である。まぁ、ヤンの方はヤンの方でキャゼルヌにお願いしていたことがあったから、断るわけにはいかなかった。

 

「お前さんが巻き込まれた件、統合作戦本部を結構揺るがしていてな。こちらもいろいろ仕事が回ってきているんだ。なにせ、財政委員会、地域社会開発委員会、天然資源委員会、法秩序委員会まで巻き込んでいる。これがマスコミに明らかになれば仕事の量は倍になっていただろうな」

 

「情報部のやらかしなので、緘口令が敷かれましたね」

 

「そんな必要があるかとも思うが、今回に関しては感謝だな。事件の概要は目を通したし、記録や資料は山ほどあるが、これを一から解釈検討している暇がないんだよ。それならば、当事者のお前さんに解説してもらうのが手っ取り早い。質問するのにも便利だ」

 

「私を要約機械のように使わないでください」

 

「お前さんの顔には正反対のことが書いてあるように見えるが」

 

「何が書いてあるんです」

 

「人に話したくてたまらない、そんな感じだ。ともかく、イノウエ伍長殺害未遂と共謀容疑で、お前さんの捕まえたアダムズとかいう大佐およびDA幹部複数人が軍法会議にかけられる。それに加えDA含め情報部には大規模な監査が入る。その時に、監査する方としては、今回の事情に精通していないのは都合が悪いんだ。だから協力を要請している。これでいいか」

 ヤンはうなずいた。元々、キャゼルヌの頼みを却下することなど考えていなかったのである。手元の紅茶を一口飲んで、話し出した。

 

「今回のことですけど、結局自分では何も分からなかった。後でイノウエ伍長がいろいろ話してくれたおかげで、やっと全体像らしきものを掴むことができましたけど、改めて見て、とんでもない話でした。今でも半信半疑というものです」

 

「最初、私は『フォン・クラームなる人物の安全を確保せよ』と指示された。情報部との共同作戦で、相手は伍長。こちらとしては馬鹿にされたと考えてしまう。共同作戦なのにお互いが釣り合わないわけです。当然ながら、これは当て馬であり、何か別のアクションが動いているか、本命の作戦が控えていると思いました。これは自分だけではなく、マスジット憲兵隊の総意でもありました。しかしそうではなかった。この人物の安全こそが、今回のクリティカル・ポイントだったわけです」

 

「そして調査もおかしいところがあった。フォン・クラームというのはコードネームであり人物の名前ではないのです。本当の名前、階級、住所、年齢に外見、何もかも分からない。情報部に問い合わせても分からないのです。これでは、この人を探せと言っても無理な話なのです。それでも調査は始まった。まぁ、この作戦の主導権は情報部だから、情報部がやると言ったらやるんだ、と言えばそれまでなのですが、ここでおかしいと気づかなければならないのです。本来なら。この調査の目的とは何なのか」

 キャゼルヌは二度うなずいた。

 

「そして更におかしいのは、そんな情報のほとんどない調査でも、何故か手がかりがあらわれ、ある程度調査は進みました。まぁ世の中というのはそういうものかもしれませんが。ですが、普通の調査とは違う、おかしい所があったのです」

 

「どこなんだ」

 

「手がかりはあるのですが、肝心の人物像が掴めない。フォン・クラームは慎重に自分の姿形を隠していた。確かに優秀な情報部員は、自ら表舞台には出ないのかもしれません。ですが、誰も顔を認識していないというのは、おかしいと考えるのが普通です。そして、我々は途中からフォン・クラームという人物のプロファイリングすら諦めてしまった。それはイノウエ伍長の提案でもありましたが、考えてみれば、方針に合った情報を掴んでくるのは常にイノウエ伍長でした」

 

「それはお前さんが素人だからだ」

 

「ええ、ですが伍長も素人でした。少なくともそう結論せざるを得ないのです。人物の調査を行う際、手がかりを前にして、人はどうしても多くの情報を得ようと奮闘します。あるいは、正しい情報を得るために、手を変え品を変え、いろいろなパターンで同じ質問を行います。ですが、彼女の捜査に関する態度には、それが見られなかった。彼女が一人でどう行動していたかは分かりませんが、私と居る限り、調査を主導しようとしたことはほとんどありませんでした」

 

「そしてイノウエ伍長がフォン・クラームの潜伏場所を特定し、我々は突入したが、当人は姿を見せず、おびただしい血の海だけが存在した。さらに、フォン・クラームに対して詐欺の投資話を持ち掛けられ、大損害を出したと称する人間が居た。さて、ここで疑問です。我々がさんざん苦労して掴んだフォン・クラームの潜伏場所、何故、この亡命者は知っていたのでしょうか?」

 

「何者かが居場所をリークしたと考えるべきだな」

 

「そうですね。でも、これもおかしいのです。もし、フォン・クラームがここに潜伏していて殺されたのであれば、他に居場所を知っていて、殺そうと考えている人が居たことになる。あれだけの血が流れているのだから、返り血を浴びた人間か、脱ぎ捨てた衣服か、血のついた凶器が発見されないとおかしい。しかし、治安警察の初動捜査は空振りに終わりました。監視カメラの画像一つ見つからなかったのです。そして調査の結果、あれはイノウエ伍長の血であることが判明した。キャゼルヌ先輩、ここから何が導き出せますか?」

 

「……まさか、フォン・クラームの正体は、イノウエ伍長だったのか?」

 キャゼルヌの顔は明らかに困惑していた。

 

「そうです。我々はフォン・クラームという人物を探していると思っていた。だがそうではなかった。なぜならフォン・クラームの正体、それはイノウエ・タキナ伍長だったのですから。そう考えるしかないのです。この帝国亡命者が少ない惑星マスジットで、情報部員が潜伏している、という話が作り話だったのです。イノウエ伍長は捜査なんかしていなかった。恐らく情報部の支援も受けてでしょうけど、我々に捜査しているお芝居を見せていただけだったのです」

 

「分からん。分からんぞ。俺も回ってきた写真を見たが、あれだけの血が流れたら人間、確実に死ぬぞ。自分の血をあれだけ流して、何故イノウエ伍長は生きているんだ」

 

「簡単です。自分で採血して、取っておけばいいのです。気密性の確保された容器に入れておけば、血液はそのままの状態を何日か維持できるのだそうです。今でも事故等で大量に血液を失ったとき、人工血液を輸血して生命を維持します。大昔、千年以上も昔のことですが、人工血液ではなく、本物の血液を使っていたのですよ。フォン・クラームの潜伏先が判明した時、自分とイノウエ伍長は夜間に集合し、自分と一緒に突入した。実はその前から彼女は部屋に入り、持ち込んでいた自分の血液を振りまいただけだったのです。血液があっても死体がなかったことは、当然のことなのです。そして、そこから逃げる人間が居れば、その人間が最重要参考人ということになるのは自明で、少なくない警察のリソースがそれに割かれる。あれだけの血液が流れていれば、フォン・クラームは死んだに違いない。そして死体は外に運び出されたに違いない、誰しもがそう思い込む。捜査のリソースが限定されていればそうなる」

 

「……何故、そんなことをする必要があったんだ」

 

「そう、そこなんです先輩。この事件の動機、それは全く分からなかった。それが大体掴めたのは、イノウエ伍長の証言と、この本のおかげです」

 ヤンは、『亡命 〜 今横たわる深い闇』の本を取り上げると、キャゼルヌに向かって表紙を見せた。

 

「DAというのはですね、先輩が教えてくれた通り、同盟にとって価値ある亡命者を保護するための組織だった。そして、任務の中には亡命者が要求してくる物資やサービスを提供するというものもあった。だが、その中には必要を通り越して贅沢の範疇にあるものもあった。当然ながら必要な資金は増えていくわけです。ですが、平和な時代、たとえ情報部といえども予算は限られている。その時DAはどうしたか」

 

「そうか。独自に資金確保をするのは、情報部のようなグレーゾーン部門の『知恵』という奴だ。我々は認めるわけにはいかないが」

 

「その通り。彼らは、主に帝国亡命者向けに商売を始めたのです。任務の都合上、そういうツテは山ほどあったし、亡命者側も信用できる相手と取引をしたい。同盟市民と心理的な溝ができかけている昨今なら分からないでもない。しかし、そんな中、DAは元亡命者が組織したギャングとトラブルを起こしてしまった。そのトラブルの原因が、この血液です」

 

「人間から血液を採取して、必要な人間に輸血する。人工血液の登場によって血液を採取するという行為は過去のものになりました。ですが、今でも本物の血液を輸血するという行為は残っているのだそうです。主に老人に対して、若返りのために若者から採取した血液を輸血するという医療行為が細々と行われています。効果はあるともいえるし無いともいえる、医療行為という名前に値するかどうか、大いに疑問ですが、帝国門閥貴族の間で根強い人気があったそうです。帝国の門閥、帝室と大貴族の間で流行した文化と技術は、亡命者によって同盟にも持ち込まれた。だが、人工血液のように調整していない血液は、輸血した時の副反応を無視できない。ギャングとのトラブルもそれが発端でした。ギャングのトップ、あるいはそれに近い人間を、輸血事故で死なせてしまったのです」

 

「そうか。そのために、DAはギャングと手打ちをする必要があった」

 

「はい。ですが、ギャング側は事故の当事者を処罰することを主張した。不幸な事故ではなく、あくまで誰かが自分達を陥れようとしている、そういう考え方から、水に流すことはできなかった。ギャング特有の思考方法です。責任者を処罰できないのなら、事故を起こした当人を処罰しろと言い出した。処罰の内容は、死、ですよ」

 

「だが、DA側はそんなことはできない」

 

「ええ。任務でもない勝手な商売のために、部下を処罰することなどできない。そうでなくとも、軍人に処罰を下すには、軍法会議での判決が必要だ。処刑などもってのほか。そんなものが明るみに出たら、DA自体の存続に関わる。片方は殺せ、という。しかしもう片方は殺すなと言う。八方ふさがりです。先輩なら、どうします?」

 

「……そうだな。死を偽装して、片方には死んだと説明して、もう片方には死んでいないと説明する。できるかどうかは分からんが」

 

「その通り。致死量の血液を残して死体が消えたとしたら、警察でも憲兵でも死体は持ち去られたと考える。そして、同じ血液が付着した死体が発見されたとしたら、それは持ち去られた死体と同一だと考える。死体が本当に持ち去られたものか、誰も気にしない」

 

「ちょっと待てよヤン。それじゃ死体をあらためればすぐ分かるじゃないか」

 

「残念ながらここはハイネセンではありません。惑星マスジットです。治安警察も人手が足りているとはいえない。失踪事件があっても、いつまでも人員を割いているわけにはいかない。おまけに情報部が捜査は憲兵にやらせる、と言ってきたらどうします?」

 

「だが、ギャングの方はどうする。警察はやる気がなくても、そっちはどうか分からんぞ」

 

「そうです。死体を偽装する、というのは軍や公的機関に対する説明のため。そしてギャングに説明するため、秘密裡にイノウエ伍長を殺害しようとしたのですよ。だから、伍長にはマスジットを離れるという偽装を行いつつ、マスジットの会合地点へ向かえという指示が出ていたのです。我々マスジットの憲兵隊を欺瞞するために」

 

「おいおいおい。それができるなら最初からそうすればよかったじゃないか。こんな大それたトリックを用意する必要などなにもないぞ」

 

「先輩。先輩。ギャングに弱みを握られた個人や組織が、それで以後は何も無いと考えるのはナイーヴというものです。いきなり部下に詰め腹を切らせたら、それも弱みの一つになる。ギャングに弱みを見せたら、ギャングを殺すしかないんですよ。DAはこれをあくまで時間稼ぎ、そうイノウエ伍長に説明していたそうです。ギャングを壊滅させるまで、地下に潜っていることになっていたと。実際そうなのでしょう。だが実際のところ、イノウエ伍長は自分の墓穴を掘るという任務を遂行していたということになる。まったく、恥ずべきことです」

 キャゼルヌは背筋を震わせた。諜報の世界に寧日など存在しないことは、知識では分かっていたが、何とも寒い世界ではないか。

 

「伍長はもう軍には居られないな。情報部のせいでギャングの恨みを買ってしまっては」

 

「証人保護プログラムの適用になるのでしょう?」

 

「そうだな。法秩序委員会は帝国亡命者系のギャング狩りを始めるらしい。となると、貴重な証言者となる彼女は証人保護プログラムの対象となるだろう。本人と家族みんなで名前を捨てて別の世界で生きることになる。なんでも『姉』がいるそうだな。心臓に持病があるらしい」

 おや。ヤンは首をかしげた。彼女はそんなこと一言も言わなかった。とすると、彼女がこんなことをやらざるを得なかったのは、その姉を抑えられていたせいなのか。

 

「ともあれ、お前さんがもう一度会いたいと思っても、彼女と会うことはできない」

 

「それでいいのです」

 キャゼルヌは、ヤンの表情が妙に晴れ晴れしているのを見た。

 

「分かったよヤン。後は届いた資料で判断させてもらう。だが、分からない点が三つある」

 

「何でしょうか?」

 

「一つ目。お前さんは、何故、このトリックに気づいたんだ」

 

「トリックに気づいたわけではありませんが、イノウエ伍長がフォン・クラームなのではないか、というアイディアにひらめいたのは、ほんの偶然です。あの潜伏場所で血だまりを発見していろいろあった後、一人でもう一度、あの場所を訪ねたのです。そしたら、トイレが全く使用されていなかった。死の恐怖におびえて、電気も火も使わないというのはありますが、トイレはそうもいきません。それで、先輩と同じようにフォン・クラームという人物が架空の人物である、という想像もしましたが、それだと血だまりを残した意味が分からない。いろいろ考えた挙句、イノウエ伍長がフォン・クラームであるという仮定が一番しっくりきたのですよ」

 

「なるほどわかった。では二つ目だ。今回の事件、真相がそれだとして、何故、マスジットはあんな大捕り物ができたんだ?情報部が責任を取ってくれるなら、憲兵隊は知らぬ存ぜぬを決め込んだっていいはずだ。一介の中尉がどれだけ動いたって、軍の装甲歩兵を動かすことはできないだろう?」

 

「ええ。そこですよ」

 ヤンは大きな笑みをうかべた。

 

「通常なら、私がどれだけ努力しようと、この犯罪を止めることはできなかった。ですが、情報部は大きなミスを犯したのです。彼らがイノウエ伍長を殺害しようとした場所は、閉鎖された演習場の中の施設だった。ここなら治安警察の介入も止められるし憲兵隊はじめ軍はどうとでもなる。確かにそうです。ですが、この演習場は、マスジットの再開発に伴い、民間企業に払い下げられる予定なんです。そして反対運動もある。そこで人が死ぬようなスキャンダルが発生して、盛り上がったらどうなると思います?」

 

「そうか!土地を買い取る方は、それで揺さぶりをかけてくる。支払いも値切ってくる」

 

「そうです。そうなればマスジットの軍、地方政府全てを揺るがす問題になる。だから情報部の蛮行を見て見ぬふりはできなかったのです。私がやったのは、そこを指摘することだけでした。一番苦労したのは、証拠確保のために軍服にカメラ付きボタンを縫い付けることと、彼女にフィットする防弾パットを借り出してくることでした。装甲歩兵はそれほど難しくありません。丁度新兵教育期間なので、夜間非常呼集訓練の人員を一部借り出してくるだけでした。使用した閃光弾や無力化ガスも、全て訓練用の機材です。まぁ、確かにうちの課長に一筆書いてもらう必要がありましたが、訓練中に偶然違法行為を目撃したら、現行犯逮捕することに何も問題はありません。現場の映像が警察に漏れていたのは……誰がやったんでしょうね」

 ヤンはペロリと舌を出した。

 

「まったくお前さんときたら……難しそうなことを簡単に言うなよ。最後だ。……何故、見ず知らずの伍長にそこまでやったんだ」

 キャゼルヌの言葉に、一瞬ヤンの視線が厳しくなった。

 

「人助けをするのに、相手が大将である必要があるのですか?それでは時間なので失礼します」

 FTL通信は唐突に切断された。

 

 

 

 FTL通信を終えたキャゼルヌは、通信機の電源を切ると傍らにあったホットコーヒーだったものを一気にあおった。とんだドタバタ騒ぎだったようだが、みんな無事で、何事もなくめでたしめでたし。それはよかった。みんなハッピー。それもよし。情報部を除けば。

 

 本当にそうだろうか?

 

 やはりキャゼルヌには理解できなかった。そもそもヤンは何故イノウエ伍長にあそこまで付き合ったのだろうか?確かに分かる。軍というのは、上官の命令は絶対である。そして、それが巨大なストレスに対抗する手段であるという原則を忘れ、王が奴隷に対するように下級者を扱う不心得者というのは存在する。でも、あそこまでやらなくても事を丸く収める手段はあったはずだ。

 

 では何故こうなってしまったのだろう?キャゼルヌは考える。でも考えれば考えるほど、やはり同じ結論に行き着くのであった。

 

 ヤン・ウェンリーは、イノウエ伍長のことを気に入っていたのではないか?そうでなければあんな苦労をすすんで行おうとはしなかったはずだ。もしかしたら逆のパターンもあったかもしれない。ヤンの話や送られてきた資料の内容を普通に解釈すると、イノウエ伍長はヤンのことを内心頼っていた、頼りにしたいという気持ちが芽生えていた、ということになる。それはヤンのことを階級上位者として信頼していたから、と考えるべきだが、もしかしたら、ヤンのことを憎からず思っていたからかもしれないのだ。ヤンは一笑に付していたが、男女の仲というものはそれほど単純であるわけがない。それに、異性からの好意にどうにも鈍感なところがあるヤンなのに。もしかしたら──

 

 そこまで考えて、キャゼルヌは首を振った。いや、やめておこう。人の恋路など想像してもしょうがない。確かに、人は石垣、人は城、だ。士官が下士官や兵より偉いからといって、いつでも消耗品扱いしていいわけがないのだ。誰かを助けるのに、その相手が大将である必要はない。それはヤンの言う通りである。第一、ヤンの内面を忖度してどうなる。ヤンの方が迷惑なだけだろう。

 

 キャゼルヌにはやらなければならないことが沢山あった。今や彼は、キャゼルヌ家の女主人に仕える一人の騎士であった。オルタンスという名の女主人は、キャゼルヌ家の未来の当主を身籠っており、明日は医者の定期健診を受けるのである。彼の役目は送り迎えと付き添いであった。今やアレックス・キャゼルヌは人一倍奮闘しなければならない。明日の午前半休のために。

 

 

 

 数日後、タナトス星系公共放送チャンネル、ニュース番組にて──

 

「それでは次のニュースです。本日、自由惑星同盟軍、マスジット教育隊にて職業訓練体験会が実施されました。晴天に恵まれた本日は、今年満十五歳となる少年兵の卵達が、体力訓練、射撃訓練、地上車操縦訓練に汗を流しました。マスジット軍広報部のワーナー大尉は、体験を通じて軍の入隊に興味を持つ子供が一人でも多くなることを望む、とコメントしました。近年、自由惑星同盟軍は入隊志願者の不足に悩んでおり、いろいろな方面での広報活動や勧誘活動を繰り広げております。では、今回参加したストラウド君にお話を聞いてみましょう──」

 

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