第十一話 嵐 その1
その間、彼の方に目配せをすることはなく、彼も、途中でそのことに気がついて、ポケットから煙草を取り出し、火をつけて一息ついた。体内に吸い込んだ煙が、何らかの工程を経て、彼の空腹感を吸収し始める。それは、腹痛を正露丸で無理やり解消しようとする試みと、同じような過ちなのかもしれないが、彼にとっては、このやり方こそ、二十歳の頃から慣れ親しんだ方法であり、これ以外の方法を彼は知らなかった。
口の中から、吐いた煙がもくもくと空へ旅立っていく姿を彼がぼんやり眺めていると、木の上で、寝そべりながらこちらを見つめている黒猫と目が合った。その黒猫は遠目から見ても、はっきりわかるくらい太っており、くたびれた顔の印象から、相当年老いた猫であるということが、彼の観察から導き出された。数秒のあいだ、ひとりと一匹は視線を交えていたが、一匹の方は、すぐに彼に対しての興味を失ったようで、大きなあくびをして、ふたたび顔を突っ伏して昼寝を再開してしまった。一瞬、彼はその猫に侮辱されたような気持になりかけたが、相手はただの猫であるということで、少し大目に見てやることにした。ただ、たかが猫といえども、年老いた猫となると、その瞳には、人間を含んだ全ての高齢の動物がそうであるように、悟りの境地が垣間見え、彼らの前では、どんなに巧みに隠し立てをしようとしても、瞬く間に、見破られてしまう気持になるのだった。
彼は、ほんのわずかな時間でも、猫相手に見透かされたような気分に陥れられたことが悔しくなり、仕返しに、猫の寝ている気をゆらゆらとゆらし、少しでも安眠の邪魔をしようとした。
そうして猫が、愚かな男を見下ろしている間に、青みがかっていた空は、どこからともなく現れた分厚い雲の大群に覆い隠されてしまった。
先ほどまで明るかった湖周辺は、瞬く間に明度のつまみが絞られて暗くなり、彼女がちょうど絵を描き終えた頃に、空から、天下の雨雲軍の無数の歩兵隊が、容赦なく彼らに降り注いだ。軍の攻勢はすさまじく、あっという間に雨脚は強くなり、風が吹き荒れてだんだんと嵐のようになっていった。
「洗濯物をしまわないと。あなたもいったん家で雨宿りした方がいいわね。わたしについてきて」そう言った彼女は、イーゼル板で雨を防ぎながら寺のある階段の方へ向かっていった。彼もそのあとに続いた。
5
二人が、本堂まで駆け足で戻ると、妹が一生懸命に背伸びをしながら、大慌てで洗濯物を取り込んでいる最中だった。
---次へつづく---