ちょうど二人の会話が一段落したところで、天そばが彼らの元に運ばれてきた。そばの上に君臨している天ぷらの堂々とした姿を見ると、彼の興味はすぐさまそれに釘付けになった。衣の量が少なめで、厚さがほとんどなく、外見だけでみると一流の天ぷらそのものであったが、彼はここが田舎の定食屋であるということを鑑みて、味にまで期待をするということをやめにしておいた。もし仮に、目の前にある天ぷらが、舌の肥えている彼を満足させるような出来であったとするならば、休日のお昼時にこんなに客が少ないということは考えにくい。なぜならば、偶然にもこの定食屋にたどり着くことができた幸運な美食家によって、日本中の同志に向けた、彼の主観にもとづく軽薄なグルメ情報が拡散されていないはずがないと思われたからである。
しかし、万が一という可能性もなくはないので、天ぷらが汁を吸収し始める前に、箸ですくいとりその真価を確かめることにした。「これは、すごい」と彼は小声でつぶやき、相手をあまりにも過小評価していたことを素直に認めざるをえなかった。彼女は、彼の反応を見て、口元を手で隠しながらクスクスと笑っていた。
「そろそろ帰ろうか。外は嵐のようになっているけれど」
「そうだね」
彼女の方が先に席を立ち、おばさんに声をかけて会計を済ませようとした。彼は財布を探り、千円を出そうとしたが、彼女はおばさんと世間話をしながらも彼の動きを制して、意地でも彼に金銭を払わせようとしなかった。彼は素直に彼女に感謝をして一足先に店を出た。
定食屋に滞在している間は、ずっと大雨と強風が吹き荒れていたが、彼が店の外に出たタイミングを見計らったように強風はぴたりと勢いを弱めた。相変わらず大雨は降っていたものの、嵐の中をびちゃびちゃになりながら帰ることになると思っていた彼にとって、風が弱まったことは嬉しいことであった。しかし、代わりに雷のごろごろという音が上空から響き渡り、今の天気が一過性のものではないということを彼に感じさせた。
彼女が定食屋から出てくると、雨はさらに強さを増していき、地面に打ちつけた雫が跳ね返って彼らのズボンの裾を少しずつ濡らしていった。だんだんズボンが濡れていくにつれて、彼は自らの精神が刻一刻と萎えていくのを感じ取り、今すぐにでも自宅に帰って、ふかふかの布団で横になりたい欲求に駆られた。このような気分の変化というものは、なんの予兆もなしに彼の精神の中に現れるもので、ひとつひとつ慎重に積み上げていた彼の論理的思考をすべてぐちゃぐちゃに破壊してしまうのであった。それは、ハリケーンが通過した後に、屋根が吹き飛ばされて、家の土台が無残にも剝き出しになった街の光景に似ている。
---次へつづく---