彼は絶望的な気分に浸り始めていたが、すぐさまそんな感情は新たな不可思議な出来事によって吹き飛ばされることとなった。彼が、彼女から借りていた傘を広げようとしたところ、無機物だったはずの傘に一本の足が生え、彼の手首を軽く蹴飛ばして地面にきれいに着地した。傘としての役目の放棄したその物体は、ゆらゆらと左右に揺れながら二人の様子をうかがっていた。ある一定時間が経過したところで、やがてそれにも飽きて、彼らが元来た道をけんけんで帰り始めた。
彼らは、急いで傘の後を追いかける必要があったのだが、ここで大きな問題が発生した。雨は刻一刻と激しさを増しているというのに、二人の人間に対して、傘が一本しかないのである。
彼は、傘を借りてここまで来たということもあって、非常に彼女に声を掛けづらかったのだが、彼女はすぐ手招きをして彼を傘の中へ迎え入れた。傘の直径は、二人の合計の肩幅に比べると断然短かったので、彼らは身を寄せ合って、なるべく服が濡れないようにしなければならなかった。その際、彼らの肩はたびたび触れたり離れたりを繰り返し、彼女はそれに対して目立ったリアクションをすることはなかったが、彼の方は、内心どきどきしてしまってすっかり調子がおかしくなってしまった。心なしか、顔全体の表面温度が上昇傾向にあり、傘のことを考えなければいけないはずなのに、全神経は、彼女と触れ合う肩にすべてを集中させるように仕向けていた。これではいけないと彼は自分に言い聞かせ、目の前で起こった超常現象について再び思考し始めた。たった今、傘がひとりでに動き出し、多数の死者が埋葬されている墓地に向かって自律的に帰還していく姿を彼は目撃している。これは日常的には起こりえない事象であり、傘がどういった使命を背負って存在しているのか興味があった。しかし、彼はそれ以上の論理的思考をすることは不可能であった。彼女の柔らかい肩の感触を感じて彼の脳のシナプスは急停止してしまった。今日の彼は一体どうしてしまったのだろう? 彼は手持ち無沙汰になって彼女の様子をうかがってみたが、彼女はしきりに髪の毛をいじってはいるものの、動揺している素振りは見られなかった。彼は不公平さを感じたが、こればっかりは仕方がないと思い諦めた。彼にとって致命的であったのは、彼女が日常的に、髪を触る仕草をほとんどしないということを知らないことであった。何とか態勢を整えた二人は、ようやく傘の追跡を開始した。
---次へつづく---