第七話 少女 その1
もうずいぶん長い間、祖父に思いをはせていたのだろう、彼が合わせていた手を崩し、再び住職の顔を見ると、住職の表情は、この状況に相応しい、一切の感情を表に出さない無の表情をしていた。おそらく、彼が頭の中で生前の祖父に再会していた間、ずっとその表情を維持していたことは想像に難くなかった。
住職に礼を言って別れた彼は、他の連れがいたならそのまま車に直行して、家路についていたであろうが、今日の彼は、単独行動なので、墓参りという責務から解放されると、寺の裏手に広がる山林の様子を見てみたい欲求に駆られた。
彼が、敷地の左奥から、山へと続く登り階段を上がっていくと、より一層自然が深くなり、普段の日常生活で耳にする物音は大地に吸収され、無数の葉で構成された森のカーテンが、人間の住む領域とは、また違うより原始的な空間が彼を出迎えた。
石段を最後まで登りきった彼が、後ろを振り向くと、草木の生い茂った森が背景を完全に遮り、寺の姿を視認することはできなくなっていた。
森の中は、人がひとりやっと通れるくらいの獣道があるきりで、そこを辿っていくと、不意に視界が開け、巨大な湖が目の前にあらわれた。彼の、左前方では、ひとりの少女がイーゼル板を湖の方に向けて、パレットを片手に何かを描いていた。彼女の足元には体の大きい、年老いた黒猫が寄り添っていて、いち早く彼の気配に気づくと、近くの木に登って彼から姿を隠した。
彼は、もう少し近くで彼女の絵が見たいと思い、徐々に彼女の背後に迫っていった。その間も、彼女は、彼の接近に気づく素振りすら見せず、一心不乱に作品と向かい合っていた。
彼が、彼女の絵を見てひとつ判明したことは、彼女が印象派の絵を描いているということだった。まるで、ルイ・ルロワに「印象を描いただけの未完成な絵」だと言われてしまいそうな雰囲気を持ったその作品は、絵の具を混ぜずにそのままカンヴァスに置いていく筆触分割の効果を最大限に発揮して、印象派ならではの発色を存分に強調していた。
「それは、何を描いているの」と彼は、あまりにもわかりきっていることをわざと訊ねた。
「見ればわかるでしょ」と、さすがに彼の存在に気づいた彼女は、一刻もこのやりとりを終わらせたいという感情を前面に押し出して、ぶっきらぼうに返事をした。
彼は興味を示してもらうために、はやくも核心をつく質問をすることにした。それは、彼が印象派について知っているということを彼女に知らしめることであった。
---次へつづく---