「印象派ですよね。ぼくも印象派の絵は結構好きで、あなたの睡蓮の絵は、モネへの尊敬の念を込めて描いているんですか」
その画家の名前を聞いた途端、彼女の筆の動きは止まり、彼の方に、視線は向けていないものの、明らかに興味を示して耳を傾けている様子がうかがえた。彼は、彼女の気を引けたことを確認すると、慎重につぎのように会話を続けた。
「個人的にはルノワールの、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会、とかは好きな作品のひとつですね。人によってどんな作品が良いかというのは差があると思うんだけど、ぼくは自然的な絵画というよりも、人間がより多く描写されている、民衆的な絵画の方が好感が持てるんだよね」と、彼はしたたかに己の嗜好を開示した。
彼女は、ついに彼と視線を交わし、普段周りの人とは話すことのできない専門的な会話のできる者が現れたことに歓迎の意を表明した。
「わたしは、自然的な絵画の方が好きかな。あまり人が大勢いるところが得意ではないし」
この返答というのは、彼にはある程度想像がついていたもので、それは彼女が、今まさに描いている絵が自然画だったということが理由であった。それに、彼は民衆的な絵画が好きと言ったが、実際には、それと同じくらい自然的な絵画も好きだったので、彼女がどちらを選んでも、彼には反感の念が沸き上がる余地はなかったのである。
「美術館によく行ったりする?」と彼は尋ねた。
「どうだろう、年に二、三回くらいじゃないかな。といっても、ここからだと、行くだけでも相当な時間とお金がかかるんだけどね」そう言った彼女は少し微笑んだ。
「具体的には、どんな画家が好きなの」と彼は聞いた。
「一番はじめに好きになったのは、モネかなあ。初めて行った美術館の常設展で、観た睡蓮の連作のうちのひとつだったんだけど、わたしあまりにも衝撃を受けちゃって、売店に行って、睡蓮を買ってきて、自室の壁に掛けたっきり、そのまま一週間くらい、絵の前に立ち尽くす勢いで、その絵の虜になってしまったことがあるの」
「それは、興味深い話しだ」
「わたしは、趣味程度だけど、絵を描くのはすごい好きだったから、その出会いがあってから、いつもこの湖の前に陣取って、モネの真似事をするようになったの。そのうち、湖の底から、睡蓮が浮かび上がってくるんじゃないかと思って」
彼女がそう言うと、湖の底から空気泡が、数秒後には自らの命が力尽きるとも知らずに、ぶくぶくと水面へ浮き上がってきた。二人が驚いて、顔を見合わせていると、本物の睡蓮が、次々と水面に姿を現し、彼らは、口を開けたまま、その場でただ立ち尽くすしかなかった。
---次へつづく---