カチリ、カチリと規則正しい針の音が聞こえる。画面から時計に目を向ける。ちょうど6時を過ぎた辺り。
ああ、またやってしまった。ここ最近、眠れない日が続いてきている。原因も正直、わかっていない。
寝付けないなら、眠くなるまでウマ娘たちのこれまでのデータ資料を精査したり、トレーニングメニューの改善案を挙げたりしているのだが、結局眠くなることはなく。
今に至っている辺り然程効果はないらしい。
しかも寝れてないからこそ、効率も大変悪くなっている。悪循環だし、担当の子たちにも迷惑をかけてしまう。
トレーナーとして振る舞っている間は問題ないが、仕事を終えて部屋に戻るとその場にうずくまって一時間は動けなくなってしまっている。
そんな状態からノロノロと復活して、翌日の支度をして、資料を作って……なんやかんや12時を過ぎたくらいに、ベッドに入ると……パタリと眠れなくなってしまうのだ。
どうにかしないとなあ、なんて少し他人事のように思いながら背伸びをし『そういえば冷蔵庫にラー油入りコーヒーがまだ1ℓあったな』と椅子を立とうとする。
あれ、眠気覚ましには割とアリなんだよ。あまりに合わない風味の合体事故で、そこに加えて味わいも辛味と苦味の不協和音で、いやでも目が覚める。控えめに言って冷蔵庫に常備してるやつは頭おかしいとは思う。俺だったわ。これは笑えない。
自虐もそこそこに、立ち上がろうとした。
しかしそれは結局叶わなかった。立ち上がろうとはした。けれど。
「おわ……」
立とうとして、ぐらっと来てしまい椅子に座り直してしまった。ぼふん、と間の抜けた風に着地して、椅子が軋む。
参ったな、この後学園側の事務仕事もあるのに。
トレーナー業一本でウマ娘たちと関わっているトレーナーも、少なくはない。スピカやリギルのトレーナーが代表的だ。
高給取りとしても世の中では認知されているだろう。そこに加えて担当ウマ娘たちがレースを優勝すれば、その賞金のうち1割前後──この辺りは学園と担当と三者面談的に相談となる。俺は1割──が支給される。
しかし給料にしても賞金にしても実績が伴わなければ、それは結局取らぬ狸の皮算用。夢半ばに潰えるオチしか残らない。それでも一般的な社会人の平均年収を大きく超えるくらいには保証されているのだが、ウマ娘たちのシューズや蹄鉄、トレーニング器具を購入してあげるとあっという間に儚く消えるのだ。
そういう意味で兼業で教師をしていたり、事務仕事を手伝っていたりするトレーナーというのは存外少なくない。
その点では、担当しているウマ娘たちは重賞レースで勝ってくれているし問題はなかった。ただ、トレーニングやレース以外で関わりがないというのが少し勿体無く思えてしまってからは今でもこうして事務仕事の兼業を続けている。
たづなさんと理事長に迷惑をかけてしまう。ため息一つと共に、肘掛けに手を添えて。
「グッモーニン、トレーナー! ……早速だけど一緒にベッドに行こうぜ!!」
追い討ちをかけるように、ゴシャァ!!! と凄まじい音で思わず肩が跳ねる。尻餅をつくように座り直してしまった。
部屋の入り口に目を向ければ、トレセン学園の制服を纏い、銀髪をたなびかせ現れたのは担当している、自由という言葉から自重という概念を撤廃させたようなウマ娘、ゴールドシップ。
彼女も一応、ふざけていい相手の線引きはしているようだが、だからといって扉開けるのにあんなにも大きな音を出さないでもらいたい。
というか、ベッドって。
「……あのなあ、ピッキングで人の部屋を開けるな。お前は学生で、何よりこれから学校があるだろうが。
それに、まだ資料関係が終わってないんだ。悪いけど──」
「──だらっしゅらばあああああああ!!!」
「──うごおおお!!?」
椅子から抱え上げられ、お姫様抱っこをさせられて三回転した後、ベッドにふんわりと投げられるトレーナーも世の中にはそうはいまい。
諭そうとした直後にこれだ。
そのままウマ乗り……いやこれ違うな。いつか貸した漫画の組手甲冑術の組み敷きだな? 両腕を膝裏に挟まれてしまったので抵抗も碌にできない。
銀の髪が広がり、視界に映るゴールドシップの美貌を強調させる。そして同時に、無表情の彼女の顔はこんなにも怖かったのかと僅かに怯む。
いや、無表情ではない。よく見れば眉間がひくひくと動いている。ゴールドシップ曰く『怒りゲージが有頂天を天元突破するぜ』とか何とか言い出すタイミングでもあるので、本気で失敗したなと自認した。
ホント、『黙ってれば』美人である。美人の怒った顔や無表情は怖いとはよく聞くものの、普段の言動を見聞きしてるせいか酷く違和感を覚えて仕方がない。無表情でない時が無いとは言わないけれど、やはり彼女には楽しげな顔が映える。
「なあトレーナー。選択肢をやるから選べよ。
一つ。このまま大人しくベッドでグウスヤ決め込む。二つ。ゴルシちゃん必殺のアキレス腱固めで一緒にベッドに沈む。三つ。ムツゴロウ先生ばりのよーしよしよしに見せかけたフクキタル直伝全身くすぐりの刑で意識を失う」
「ちょ、待てゴールドシップ。俺はこれからどのみち仕事が……」
「うるせえ。センセーらにはアタシから連絡するからお前は寝ろ。仕事? うっせえ、今すぐ寝ろ。それとも何だよ。わざわざアタシに寝かしつけられたいか?」
大変なことになった。
ゴールドシップの機嫌が、これ以上なく悪い。こうなってしまってはテコでも動かないのはここ数年の付き合いで百も承知だ。
しかた、ないか。
「……わかった。わかったよ。だからとりあえず降りてくれると──」
「よっしゃ4つ目だな! ゴルシちゃんがハグ決め込みながら竜宮城までご招待だ!」
「──なんで?」
「トレーナー、起きてるかぁ……?」
眠たげな声を聞き届けたのは、陽の光に照らされる白いカーテン。網戸から風を送り込まれて、淡く光り揺蕩うよう揺れる。
「……よし、寝てるな」
頬を指先でつついて起きないことを確認した彼女は、ため息一つ。腕を組むと、若干の憐れみを乗せたぼやきを溢した。
「お前、ファイナルズの長距離部門でアタシが優勝してから、少しずつ崩れてたよなー」
彼女の脳裏に想い描かれるのは春の芽吹く直前の、しかしまだまだ肌刺す寒気と、それを覆い隠す人々の熱狂。
3600mを走破し、2着に4バ身差を叩きつけての快勝。
元より強い人気のあったのを、『URAファイナルズ長距離部門優勝ウマ娘』という肩書きが後押しし彼女というウマ娘と担当のトレーナーは一躍時の人となった。
けれどそれは彼女にとっては日常を彩る面白おかしいイベントの一つに過ぎなくとも、トレーナーにとってはまるで違った。
「そりゃ、大人だからとか色んな理由はあるんだろうけどよ。緊張とか、不安でー、とか。ゴルシちゃんだってパートナーなんだし、少しは弱いとこ吐いて行けよ」
彼女は、そのことがやるせなく、そして少し悲しかったらしい。
疲れきった寝顔を晒すトレーナーに不満を吐露しつつも、自信に満ちた声を続ける。
「黄金の不沈艦だぜ? アタシ。そんなくらいの重荷で沈んだりはしないっての」
伝わらなくていい。知らなくていい。覚えてなくていい。
けれど、確かに。想いはあった。
「お前がいつも通りになってくれなきゃ、アタシもいつもみたいに振る舞ってても張り合いがねえし」
彼が灯台として、迷わないように導いてくれたから。
彼が船長として、指揮を取ってくれたから。
だから、彼女は走りきれた。
ゴールドシップだけの、セントエルモの火。
それが彼だった。それだけの話。
「別に、捻った言い回ししてるつもりはないんだよ。ただ、自然体で色々言おうとするとあんな感じになるだけで……はあ、寝よ。おやすみ、船長」