「昼想夜夢、愛屋及烏、依依恋恋……」
夜八時を過ぎても誰もいない筈の生徒会室には、幽霊が出るらしい。
そんな根も葉もある噂を黄金の不沈艦や、或いは本当に拙い類の話を漆黒の摩天楼に吹聴されているとも知らずに、件の幽霊、もといシンボリルドルフは悶々と目の前の白紙の便箋と向き合っている。
「隔靴搔痒とはまさしくこれだ。我が事ながら、もっと何かないのか……!?」
書いては消してを繰り返し続けていた。消された筆跡でよれよれになった便箋からは、何度書き直していたのかわからないほど。
皇帝らしからぬ、焦りで掛かったような形相で、荒く左手で前髪を搔き乱している。
発端は、先週の事。
トレセン学園卒業を目前に控えた『皇帝』シンボリルドルフは自身の元担当トレーナーに挨拶をしに廊下を歩いていた。
『ルドルフが強かっただけ』『トレーナーは何もしていない』と誹謗中傷の数々に晒された中でチームを持ち、その初年度から重賞制覇やG1勝利ウマ娘を毎年送り出し続けてからは見方が変わり始めた。
『皇帝を導いた杖』『名伯楽』と呼び称されるようになり。多くのウマ娘たちを擁するチームの一角として最早知らない人はいない名トレーナーとして名を馳せるようになっていた。
それが──シンボリルドルフには面白くなかった。
彼を称える声のどれだけが、元より彼を応援し、支えていたのか。どれだけの悪意が、流れに乗って裏返っただけなのか。
そして何よりも。自身を担当していたトレーナーが、担当しているチームのウマ娘たちと涙ながらにハイタッチを交わしたり、抱きしめあっていたり、姫抱きにされたりと──。
有り体に表すなら、『私だってそうしたい』と。ごうごうと猛り盛る嫉妬の炎が、向けようのない怒りが理性を焦がす。
『どうぞッス、トレーナーさん!』
そして、そんな嫉妬も怒りも原動力に変えていざ征かんと張り切ったところで。
元担当トレーナーが、彼のチームの1人に、マスク越しでもわかるような、花が咲いたような笑みで何かを渡されている様子を、たまたま盗み見る形になってしまった。
『ありがとう、これは大切にするよ』
『ハイ! 大切にして下さいよ? その指輪!』
そこからは何も見なかった。聞かなかった。見ないふりをした。聞かないふりをした。耳を絞って。目は涙で湿らせて。少女の心を獅子の爪牙で追い立て心の奥底に封じ込め。皇帝として不甲斐なく無いよう仮面を着け直した。
だからこそ起こった『不手際』だ。
シンボリルドルフは自答した。このままではいけないと。
『皇帝』のままであり続けるなら、ルナという名で呼ぶことを許した相手との思い出に区切りを刻むのなら。
それは形あるものを残さなければ。
少女の心を皇帝から引き剥がして、隔離して、封じ込めなければ。
そうして、この一週間。
手紙という形でトレーナーへの思いを綴り、綺麗なままの、シンボリルドルフという胸の内に刻み込まれたトレーナーという唯一無二を取り出そうとして──皇帝は何もできないまま手をこまねいていた。
暗中模索。無間の闇の中を旅する、足元もおぼつかないまま歩く盲目の老婆になったかのような心細さの中で。
だからこそ。
シンボリルドルフは、その思いを言語化できずにいた。取り出すことができずにいた。
「カイチョー、大丈夫?」
「ふぁぁ!!?」
思わず目を向けた。何なら尻尾が跳ね上がるくらい驚いた。
見れば生徒会長となった今なお、『カイチョー』とルドルフを呼び慕うトウカイテイオーが心配そうにこちらを見ていた。
「……な、なんだ、テイオーか。……ノックくらいして」
「ボク、ずーっとノックも、声も掛けてたのに5分近く無視され続けてたんだけど。それに、もう一時間もしたら門限だよ?」
「…………すまない」
時間を忘れて、夕方頃から現生徒会長に無理を言って場所を借り続けて一週間。
日に日に衰弱するように疲弊する『憧れ』を、テイオーが放っておける理由もない。
「で、どうしたの? ボクでよければ聞くよ?」とテイオーが尋ね。
ルドルフはテイオーには甘かった。テイオーを妹か、或いは本当に子供のように大切に扱っていた。
だから、これもまたルドルフなりに見せる甘えなのだ。
「──嗤ってくれテイオー」
ただ、テイオーにとって1つ予想外も予想外だった事実がある。
普段通りの冷静沈着、文武両道、獅子王の如き皇帝はこの場におらず。
「私は私の理想を、兼愛無私を謳った皇帝は……愚かにも、自分だけの幸せを求めてしまった……!」
かつてのライバルのように大粒の涙を流して便箋を湿らす、少女としてのシンボリルドルフだったということ。
⭐︎
トウカイテイオーが作ったマイ辞書には、こう刻まれている。
『恋は、ダービーである』
『すれ違いは、糺すべき悪である』
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トウカイテイオーは一通り話を聞き、激怒した。必ず、かの皇帝の杖であった男をシメねばならぬ決意した。
トウカイテイオーには恋がわからぬ。愛もあまりわからぬ。トウカイテイオーはトレセン学園の現生徒会会長である。書類を作り束ね、ネイチャやマックイーンと共に学園内で起こる珍事や問題に取り組み解決し、歩んで来た。自身のトレーナーとも交流を重ね、他の担当なら兎も角別の女性らと話している様子を見るだけでやり場の無い不可思議な感情に襲われることを除けば、順風満帆とも言える環境で過ごしていた。
けれども、敬愛し今なお心の中で、憧憬の像を結ぶ存在であり続けるシンボリルドルフの事には、人一倍敏感であった。
尚、上記の文面はハッキリ言ってテイオーの現実逃避である。
テイオーはテイオーで頭を抱えていた。
シンボリルドルフが勘違いしていること。そのせいで起こっているとんでもない亀裂の実態を察知してしまったのだ。
そして、思うのだ。だから言うのだ。
「カイチョーって、たまにホントーにめんどくさくなるよね」
「!?」
憧れているから。慕っているから。
だからといって、言うことを遠慮する必要はないとテイオーはこの数年で学んだ。
ルドルフのダジャレは面白くないことだってぶっちゃけた程度には。
だから、取り敢えず仮面を叩き割ることにした。
「カイチョーの理想、『全てのウマ娘に幸福を』……あれって挙げ足取りみたいな事言われる機会も多いけど、言いたい事は『悔い、未練を残したままターフを去るウマ娘たちが居ませんように』っていう事だよね」
「……ああ、そうだ」
「じゃあ、うん。やっぱりカイチョーってめんどくさいね」
「!?」
溢れる涙が止まる程度には、本気で驚き困惑している様子の皇帝を、帝王はぶすくれるように半目で見る。
「ボクらを無礼ないでよ、シンボリルドルフ。ボクらはここに、中央っていうとびきりの戦場に我こそはーって飛び込んできた挑戦者たちだ。
その覚悟が足りないかもしれない。怪我ややむを得ない理由で学園を去る事だってあるよ。
でも、勝った娘には賞賛を。負けた娘には期待を。ターフを去る娘には手向けを。そして、最後まで学園に残り続け、卒業を迎えた娘には喝采を。
それ以上もそれ以下も無いよ。あったら、それこそ失礼極まりない」
「……ああ、そうだな。テイオー」
天井の照明を睨むように視線を上げて、ややあってルドルフは自罰的に語り出した。
「私は、負けたんだな。これで、四度目か。過去三度の敗北もこれ以上なく沁みたが……殊更今回は特別、痛いな」
「…………」
「だけど、どうしてだろうか。恋に溺れ、皇帝としての姿を忘れてしまっていた。……そのまま、そうして暗君に身を落とすより遥かに清々しいと言える。青天霹靂とは正しくこれだ」
「………………」
「ありがとう、テイオー。やっと、掛かりに掛かったこの思いと折り合いを付けられそうだ」
「……………………あの、カイチョー」
流石にこれは拙いと。冷や汗が止まらなくなるテイオー。
『カイチョーが何か勝手に納得して、自分の思いに蓋をしようとしてるんだけど!?』と言葉に出さずともテンパっている。
それはいただけない。
アンナやイザベラを、すれ違いと思い違いのまま手放そうとしている。
流石に、こればかりは、糺すべき間違いだ。
「カイチョー。トレーナーと、指輪を渡してた娘、なんだけど」
「……ああ、明日にでも、挨拶しにいくさ。彼ら彼女らの行く道の先に、祝福を、とね」
「いやぁー……あのね。カイチョー……」
「あの二人、別に付き合ってないよ?」と。『もうどうにでもなーれ!』の心境で放った直球は、たがう事なく皇帝のドタマをぶち抜いた。
⭐︎
「それで、ガッチガチのべそかきながらルドルフは俺のところに襲来してきました、と」
『うーん……まさかカイチョーがここまで拗らせてるとはボクも思ってなくて……カイチョーは今どうしてる?』
「シャワー浴びせて着替えさせたら、泣き疲れたみたいにグッスリと。……元はと言えば俺が誤解を招くような行動してたのが悪いわ。オルフェにも後で謝らないといけねえな……」
『カイチョーを泣かせた責任、キッチリとってよね!』
「はいはい、わーったよ。カイチョー様」
「悪かったな。ルナ。……今年チームに来てくれた娘が、お前のファンでさ」
そう言って、若い男が箪笥から取り出したのは、小綺麗な紫色のケース。
開けると、金で出来た指輪が二つ。どちらも細かく万能が彫られ、しかし悪趣味な程ではない。
一つは三日月を模した、もう一つは、タンポポを模した金の指輪。
「『そのうち結婚とかもするんッスよね! なら、良ければアタシに指輪を作らせて欲しいッス!』なんて言ってさ。冗談半分で料金を払ったら、二週間もしないうちに渡してくるとは思わなかったよ」
「流石に色々急過ぎて焦ったけどよ」と快活に、疲れたように笑う姿は、何となく社会の荒波に揉まれた大人としての気苦労を感じさせる。
「…………お前が卒業して、何年かは待とうと思ってたんだけどなあ」
頭をガシガシと荒く掻いて、諦めたようにため息を一つ。
「俺はこっちの、三日月が刻まれてる方貰っていくわ。綺麗な月は、いつだって見てたいからさ」
「……これじゃあ、まるでクッセェプロポーズみたいだな」と渋面をしてけれど言葉が見当たらなかったらしい彼は、ややあって残ったもう一つの、タンポポの指輪。
「……タンポポってさ。グラスのやつが教えてくれたんだけど、『離別』って言葉以外にも、『真心の愛』って花言葉があるらしいんだわ。
俺たちなら、そんな離別なんて乗り越えられるだろって。本当に好きだと言い続けられるだろって……まあ、願掛けなんだ」
言い訳のように。言葉を吟味して吐き出す男は、そこでやっと落ち着いたように息を吐いた。
「…………よし、聞かれてないな。……おやすみ、ルナ」
そうして、普段眠る時には使わないソファーにタオルケットを片手に倒れ込んだ。
尚。
この独り言は間違いなくトレーナー視点では独り言として、認識・処理されたこの出来事は。
シンボリルドルフがトウカイテイオーとトレーナーとの電話越しの会話が終わるやや前から起きていた──という事実を捨て置いた上での出来事である。