じりじりと距離を詰められる。
後ろは壁。逃げ場はない。
茜色の太陽がカーテン越しに差し込む、夕刻のトレーナー室。
俺は、最後まで抗う覚悟を決めていた。
だって、こんなこと許されるわけがない。
俺が望む、望まないではない。
彼女らにとって、それはとても大事なことだから。
若い時の、一時の気の迷いで。
いつか後悔するだろう。
もう少し、思慮深ければ。
慎重に生きていれば。
後先を考えていれば。
絶対、そうやって過去を振り返る。
「なあ、もう一度考え直さないか、テイオー?」
冷や汗を流し、震える足で俺は説得する。
体格に差のある俺と彼女では、常識であれば優位のはず。
だが、目の前の少女は人間ではない。
ウマ娘だ。
栗色の髪と、長い真っ白な流星が揺らぐ。
身体も小さく、まだ中等部ではあるが……トゥインクル・シリーズで素晴らしい成績を残している。
彼女の名はトウカイテイオー。
自らを最強無敵と豪語する彼女は、常にケガと共にレースを走ってきた。
だが、その度に不屈の魂で何度も立ち上がり、様々な舞台で好成績を収めてきた。
年末の有馬記念。骨折から1年越しの療養を経て、BNWという三強の一人ビワハヤヒデと接戦の末に勝利。
誰もが疑わない、まさに奇跡の勝利。
それから、再び調子を落として、戦績が振るわないのは知っていた。
何故ならば、俺は彼女のトレーナーなのだから。
ええい、今はそんなことどうでもいい。
とにかく、目の前の状況を何とかしなくては!
「なんで? ボクは最初からそのつもりだったんだよ?
トレーナー、まさか裏切るつもりなの?」
高く幼い声色から想像もつかないほど、落ち着いた返事。
いや、落ち着いているんじゃない。
これは、覚悟を決めているんだ。
自分がこれからどうなるのか。どうなってしまうのか。
全て考えたうえで、挑んでいる。
「そんなつもりは……。た、ただ俺は……お前のことを思って……」
「ボクのことを本当に思ってるなら……いいよね?」
曇りのない……いや、光の無い瞳が近づく。
俺は必死になって逃走経路を計算した。
だが、どう足掻いても もう無理だった。
近くの物を投げつけてしまえば、隙は作れるかもしれない。
だが、それによってケガをさせてしまうような事態は絶対に避けたい。
ならば、フェイントを入れてみようか。
いきなり接近すれば少しは驚くはず。
思い切り足を踏み込んで、大きな音を立てれば効果は倍増だ。
よし、これしかない。
「テイオー!!」
「!!」
俺は叫び、一歩だけ足を出す。
木製の床に振動と轟音が響き、周囲の空気を瞬間的に支配した。
(よし!)
案の定、テイオーは怯んだ。
尻尾が真っすぐに伸び、身体が委縮している。
今こそ好機! このまま出した足を軸にして一気に……!
「つーかまえた♪」
「え?」
動かない。
足が、ピクリともしない。
不意打ちのために出した足は……テイオーに差しだすような形になってしまっていた。
細指に握られた下腿部は、痛みを伴わないのに、まるで万力にでも掴まれているかのよう。
「なっ……くそ!?」
全身全霊を持って、全ての力を振り絞って、ありとあらゆる捻転力を用いて脱出を試みる。
だが、俺の身体は一ミリもその場から動いていなかった。
「ダメだよ、トレーナー。不用意に近づいちゃ」
ニコリと笑う、陰のある顔。
吸い込まれそうな暗黒の瞳とのギャップに、ゾクリと冷ややかな感情が駆け巡る。
「ヒトが、ウマ娘に敵うわけないんだからさ」
「……あ……ああッ!!」
情けない叫び声が思わず漏れた。
恐怖と葛藤と、もうあの頃には戻れない後悔と。
あらゆる気持ちが、ないまぜになり喉から飛び出る。
その様子がおかしいのか。
テイオーは変わらない笑顔で、そのまま。
そっと、一歩近づいた。
もう、完全に密着している。
鼻水と涙の出る、情けない俺の顔に向かって。
抗えない力で、優しく強く襟を引っ張りつつ。
「さ、トレーナー……」
耳元で、息を吹きかけるようにつぶやいた。
「ボクと『うまぴょい』……しよ?」