音を立てずに部屋を出る二人。鍵をかけ、冷房の効いた廊下をそろりそろりと歩いていく。
防音性の優れた宿ではあるが、不用意に気配を晒してはいけない。同じタイミングで散開した、クリークとフラッシュの室内からは物音は全く聞こえず、既に寝ていると推測できる。二人とも、管理やお世話で疲れているに違いない。
戸に耳を当てていたテイオーが、そんな室内の様子を確認すると後方でやや不安げにしているナイスネイチャへ合図を送った。忍び足で、高級な木製素材の床が音を立てないように歩いていく。
誘われるがままに前を行くテイオーの背中が止まった。そこは角部屋の扉の前。部屋番号は好井ソウマが一人で泊まっている部屋だった。
「テイオー、鍵持ってるの?」
取っ手に手を掛ける前に、ネイチャが疑問に思ったことを聞いた。対し、まるで当然かのような表情でテイオーは返す。
「持ってないけど?」
「え? じゃあ、どうやって……」
小さく驚くネイチャを気にも留めず、テイオーはゆっくりドアノブを回した。抵抗なくシリンダーが回り、手前に僅かに引くと室内の様子が覗けるほどまで戸は開いた。チェーンはかかってない。
「トレーナー、昔からそうなんだよ。なんっかい言っても、鍵閉め忘れるんだよね。昨日はちゃんとしてたんだけどさ」
「えぇ~……不用心すぎるでしょ……。大事な書類とかあるんじゃないの?」
「だから、こうして偶に巡回してあげてるんだよ」
なるほど、と納得しかけたが、それはそれでいいのか? と常識的な疑問がネイチャの頭の中に浮かぶ。だが、悪気を微塵も感じられない口ぶりに正常な判断が出来ず、そのまま躊躇なく抜き足で進む小さな背中を追うことになった。
部屋の灯りは既になく、エアコンの届かない玄関先は鬱陶しい暑さで満たされていた。旅館内のみでの利用を限定されているスリッパを、音もなく脱いでから黒に染まる障子に手を掛けた。
摩擦音よりも、
冷風が身体を撫でていき、トレーナーのいる室内からはエアコンが送風する音のみ流れてきた。
広い畳張りの和室の真ん中に、寂し気に膨らむ寝具が一つ。頭まですっぽりと身体を覆っている掛け布団の主は、一人しか居まい。
テイオーがちらりとネイチャを見て、いたずらっぽく笑いながら頷いた。
本当にそれでいいのか、ナイスネイチャはゴクリと喉を鳴らしてから、それでも己の願望に今は素直になろうと同じように首を縦に動かした。
膨らみを覆う布に向けて、テイオーが頬を綻ばせながら手を伸ばしていく。これから行う『うまぽい』のことを思い、口角が自然と上がっていく。
その様子を、ドキドキしながらネイチャが眺めていると。
ふいに、テイオーの手が止まった。
「?」
どうしたのだろう、と首を傾げ小声で尋ねようとしたときだった。
「……まさか!」
テイオーは、素早く布団を捲り上げると、スマホを取り出してライトを点けながら中身を検めた。
そこに横たわっていたのは、トレーナーではなく。同質の布。丸い筒のような形にしてあるだけの簡素な擬態だ。
「ど、どういうこと?」
状況が理解できず、ナイスネイチャは押さえることをやめた普通の声量で聞いた。
トレーナーが居ないこと。まるで、騙す様に置かれていた布団のセット。なにがなんだかわからず、頭を抱える一方、テイオーはライトで周囲の様子を探っていた。
何かを思い出して、スマホの画面を操作すると小さく舌打ちをする。それから再び辺りを伺った。
「……浴衣はある。書類や財布は金庫かな……? ネイチャ、玄関にトレーナーの靴ある?」
「え? ちょっと待ってよ…………。あれ。無いね」
「……」
口元に手を当てながら、次の行動へ移る。人が入れそうなタンスを開けてみると、中にはトレーナースーツだけが乱雑に並んでいた。押し入れも検めるが、虚空しか詰まっていない。
「隠れているわけじゃないか……」
「ねえ、テイオー。これ、どーいうことなの?」
「……うん。多分だけど……。……!」
「? どしたの?」
未だ混乱しているネイチャと対照的に、テイオーは厳しい顔をする。それから、何度か匂いを嗅ぐように息を吸った。元をたどっていくと、先ほどの簀巻きにされた布団に到着した。原因を探るように、クンクンと鼻を鳴らすと……小さく声を漏らした。
「……この残り香……フラッシュだ」
「フラッシュさん? てか、なんでわかんの……?」
「……ははーん、そっか。そういうことかぁ……。トレーナー!」
全てを理解したテイオーが、部屋の外に視線をやる。悔しそうに歯を食いしばると、ネイチャに向かって鋭く指示を出した。
「ネイチャ、着替えるよ。トレーナーは外だ!」
「外? でも、鍵開いてたし……エアコンもついてるから、すぐ戻ってくるんじゃない?」
「それは囮。ボクにはわかるんだ。トレーナーが、今何をしているのか!」
「??」
動かないネイチャの腕を引いて、テイオーはトレーナーの部屋を後にする。柳眉を逆立てた目線の先は、月明かりに照らされる夏の夜。動きやすいジャージに着替え、蹄鉄のついたシューズを履くと一目散に飛び出していった。
「と、言う風に……テイオー達が、追ってくると……思うんだ!」
「本当なんでしょうか……。」
街灯に照らされる道を、小走りで駆けながら俺はフラッシュに状況を説明した。ウマ娘の速度にはついていけないので、かなり遅い移動だがそれでも逃げなくては、俺はきっと『うまぴょい』させられることだろう。
こうなることはわかっていた。あのテイオーが、このまま何もなく合宿を終えるはずがない。去年は、先輩と同部屋だったから良かったものの、今回は違う。多分だけど、ネイチャも一緒に連れて俺の部屋を今頃捜索しているんじゃないだろうか。
信号に差し掛かったのでスマホを取り出して、アプリを開いてみる。相手の位置がわかるGPSアプリだ。旅館の敷地内で光っていたテイオーを示す丸が、動き出すのを確認できた。テイオーも同じことに気付いたのか、印はすぐに消失。俺も急いで自分の位置情報が消えているのを再確認してから、スマホをポケットに戻した。
「やっぱり、追って来たぞ。ここからは、キミの実力次第だ。頼むよ、フラッシュ!」
「……はい。」
――――。
と、返事だけは肯定的にしたのは良いが。私は正直、今の状況に困惑していた。
話があるから、と言われた時はどんな題目を持ちかけられるのだろうと期待と不安が半々だったのだけれど。まさか、『最終日の夜に、二人に追われる自分を逃がして欲しい』なんて荒唐無稽なことを頼まれるとは思ってもみなかった。
本音を言うなら、未だに信じ切れてはいないが。トレーナーさんは冗談は言っても、嘘を吐く人ではない。短くとも指導をしてもらった中で、その人となりは理解できている。担当ウマ娘の方々が慕っているのが、何よりの証拠だ。
「しかし、何故私なんですか?」
「さっきも言ったけど……。俺がテイオーの考えてることがわかるように、テイオーも俺の考えてることがわかるはずなんだ。だから、俺じゃない思考で脱出経路を考えてくれれば、無事に逃げ切れるんじゃないかな、って思ってさ」
「確かに、そうかもしれませんが……。」
「ネイチャも賢い子だけど、フラッシュのようなスケジュール管理をするようトレーニングはしてきていない。周囲の状況を読めるようになったキミなら、彼女らの上をいけるはずなんだ」
ここまで私に信頼を置けるこの人が、不思議で仕方ない。
確かに、拙いスケジュール能力を底上げしてもらった。思うように回らなかった予定を、修正できるように鍛えてもらった。レースでの成績を上げるため、私たちウマ娘の勝利への渇望を現実にするため、トレーナーは日々身を粉にして働いている。それはバッジをつけている人、誰もが同じことを思っているはずだろう。
だけど、私のこの管理能力については飽くまで自己満足の話だ。レースだけじゃない、もっと先のプライベートの領域に入り込む、私自身のわがままな志向を、嫌な顔一つせず支えてくれた。同じミスをしても笑って教え直してくれたし、上手にできた時は心の底から喜んでくれた。
本人は、まだまだ未熟なトレーナーだと言うけれど。私にとっては、十分だ。
「わかりました。任せてください。」
トレーナーさんは不安を誤魔化す時、よく無理に笑顔を作る。倣って私も微笑んでみせた。
動きながら、状況をまず整理することに努める。
最終目標は、トレーナーさんを『共同宿泊施設』のトレーナー部屋へ送り届けること。
私たちの利用している旅館から、そう離れていない位置にある古い旅館。担当不在者やチーム未所属者、個別で施設を借りられる戦績のないチーム等が使う、学園直営の宿。急な訪問者用に、空き部屋がいくつも用意されているので、そこで一晩明かして朝には元の旅館に戻る……までが、今回のミッションらしい。トレーナー専用棟、さらには周囲の目も多いそこならば安心できるのは間違いない。
「……」
周辺の地図は頭に入っている。スマホを開きながらの移動は前方不注意になるうえ、周囲の状況把握にロスが生まれるので、しない。
動きながら私は、まずルートの検索をした。宿泊施設は海から離れていない、丘の上に位置している。そこへの道は、大きく分けて三つ。
大通りから入る、正面口のルート。海沿いを伝って、急こう配を上るルート。森林地域を抜けるルート。
まず正面口の方は、最も遠回りになってしまうので除外。長距離になると、純粋に足の勝負になる。小道を駆使しても、あちらは二人。挟み撃ちになったら、逃げるのは難しい。
海沿いのルートは、砂浜を通り抜けてから、山道のような坂を越えなくてはならない。その分、距離は短くて済むが、疲労は一番大きくなるだろう。
森林地域を抜けるルートは、距離的には一直線なので一番近いのだけれど……。街灯もまともに設置されていないので、純粋に危険が多い。
「はぁ……はぁ……」
何より、追手のお二人に加えてトレーナーさんの動きも考慮しなくてはならない。私たちウマ娘と違い、ヒトの走る速度はかなり劣る。普段から鍛えている、とは言っているけれど……それでも、我々とは体のつくりから違うので、差がつくのは歴然だ。現に、ウォームアップ程度の小走りをしている私に、トレーナーさんは息も絶え絶えで付いてきている。
先にこの問題を解決しなくては、逃走劇は成立しない。車を使えばすぐ済む……と思っていたのだけれど。道路の移動だと、動線が限定されて先回りされる可能性もある。また、いざ走って逃げる選択をした際にレンタカーをその辺に置いていくのは、人様の物を借りている身として許されることではない。と、実直さの溢れる答えで先制されたので、私も同意した。
ならば、方法は一つしかない。歩みを止めると、トレーナーさんも膝に手をついてアスファルトに汗滲みを作りながら呼吸を整え始めた。
「トレーナーさん、提案があります。」
「な、なに?」
浅い呼吸とかすれた声に対して私は指を立てながら、了承を得るべく問うた。
「いくら綿密な予測行動を取ったとしても、ヒトがウマ娘に敵うわけがありません。発見された場合、すぐさま追いつかれてしまうでしょう。」
「……そう、だね」
「ですので、トレーナーさん。あなたを抱えて走る、というのはいかがでしょうか?」
普段の加重トレーニングに比べれば、成人男性一人なんて問題はない。注意するとすれば、事故をおこさないようにするぐらいだろう。私はともかくトレーナーさんの安全を確保できる保証はない。それを込みで尋ねると、目をパチパチさせてから問い返された。
「俺は良いけど……フラッシュは、それでいいのか?」
「? 質問の意味がわかりません。私が許可を求めているのですが……?」
「いや、前にその……頭撫でたら、怒ったからさ。触わられたりするの、嫌いだと思ってた」
「ちっ、違います! あれは、突然だったから驚いただけと言ったじゃありませんか!」
恥ずかしいことを思い出させてくれる人だ。スキンシップ程度、私でなくても誰だってしている。いきなり、脈絡もなくやってこられるから心の準備が出来ず慌ててしまうだけ。こうして、一度断りを入れれば何の問題もない。
「ああ、ホントにそうだったんだ。ごめんごめん。……じゃあ、お願いしていいかな」
「……ふぅ。はい、お任せください。」
体調やメンタル面に関して、結構敏感な人だと思ってたけれど……意外と鈍いところがあるのかもしれない。乱れた呼吸と脈を整えるため、胸に手を当てて深く息を吐く。
それから、淡々とした仕草で私はトレーナーさんを抱き上げた。膝を裏から支え、背中から腕にかけて手を通して、しっかり固定する。
いくらウマ娘相手とはいえ、少し緊張しているのか。きょとんとした顔のトレーナーさんを見下ろしながら、再度確認を取る。
「さあ、行きますよ。」
「ま、待って待って! フラッシュさん!? これ、素でやってる!?」
「なんですか? 早くしないと、お二人に見つかってしまいますよ?」
「それもそうだけど! 抱き方!!」
「何か問題が?」
「問題だらけだよ!? これ、お姫様だっこじゃん!! 普通に、背負ってくれませんか!?」
「…………」
ゆっくりとトレーナーさんを下ろす。数歩進んでから、私はもう一度胸に手をあてて深呼吸した。
……やってしまった。
確かに、抱えると言ったけれど。これはお父さんがお母さんに、よくするやり方だった。反射的に、トレーナーさんを運ぶなら、これしかないと思ってしまっていた。何故だろうか。
とにかく、仰るようにこれは特別な間柄の者がすることが多いのが通説。私とトレーナーさんに、それが当てはまるわけがない。そうに決まっている。顔が熱いし、鼓動が早いのは恥をかいたから。ただそれだけだ。
「……フラッシュ……?」
「すみません。ドイツではこの方法が主流だったもので。」
「あ、ああ。なるほど。そっかぁ。ドイツでは、そうなんだ……」
「はい。そうなんです。」
「…………そうなんだね」
母国を盾にする言い訳に胸が痛むばかりだが、今一つ誤魔化せてない気もする。だけど、今は目的を果たすのが先決だ。
背を向けて、私はしゃがみ込む。合図をすると、ゆっくりとトレーナーさんは私に体重を預けた。
改めて思ったけれど、予想よりもトレーナーさんは全然軽い。これならば、問題なく走れそうだ。
後はルートの設定さえ行えば良いだけ。
現状で、最も効率的なのはどこだろう。加えて、テイオーさんの思考も読まなくてはならない。
様々なシミュレートをしてみるが、いまいち決め手に欠ける。ならば、私がすることは一つ。
「トレーナーさん、テイオーさんから見て私はどのように映っていると思いますか?」
人に聞いて、助力を得る。独りよがりで、周りも上手く見えてなかった私に行く先を教えてくれた、トレーナーさんとの連携。これしかない。
「そうだな……。凄く真面目で、厳しいウマ娘。自分にも他人にも妥協を許さない、実直な精神を持つ子だと思われているんじゃないかな。ただ、テイオーは結構第一印象を大事にするから……まだ、キミに不器用さを感じているとは思う」
「なる、ほど……。」
テイオーさんからの視界について聞いたのに、まるで直接褒められたみたいでむずかゆい思いをする。
雑念を振りほどき、その意見を参考に私は逃走ルートを設定した。
「では、『中途半端』で行きましょう。現状使える、二つのルート……海岸沿いに向かいつつ、森林地帯にも行ける道をまず進みます。何か動きがあれば、どちらにでも対応可能なように。」
「わかった。頼むよ」
疑いを知らないかのような視線を背にし、私は動き出す。ウマ娘用の道路を走りながら、時折歩道に入り小路を進んだりして『実直で不器用な私』を隠すような不規則なルートを進んでいった。
その中で、どうしても疑問に思っていたことを私は口にしてみる。
「ところで、トレーナーさん。」
「ん?」
「お二人に追われる……と表現していましたけれど。具体的には、どのようなことなのですか? 何か、怒られるようなことでもしたのでしょうか?」
言葉の意味をそのまま受け取るならば、危害を加えられてしまうような不始末をした……と言う意味になるはずだが。
それなら、しっかり謝罪をすれば誠意を認められて許されるはずだろう。この人ならば。
私の質問に対し、トレーナーさんは口ごもった。何かバツの悪そうに、声を漏らしながら悩んでいる。言葉を選ぼうとしている様子が、見なくても伝わる。
「……そうだな。うん。いつかは話すことだもんな」
そして、ぼそりと呟くと少しだけ私の肩にかけた手を強く握りしめて、言った。
「二人からは多分……また『うまぴょい』をさせられるんだと思う」
「……は? 今、なんと?」
「だからその……『うまぴょい』……です」
「……!」
「どわぁああああ!? き、急ブレーキはやめてぇえええ!!」
アスファルトを削ってしまいそうなほど、靴が地面と激しく摩擦を起こし私の身体は止まる。慣性でトレーナーさんが吹き飛びそうになるが、しっかり押さえているので心配はいらない。
問題はそこじゃない。そんなことではない。
「トレーナーさん、冗談に付き合わせるぐらいならば、私は休息を取りたいのですが。」
「冗談でここまでしないって!」
「……で、では。なんですか、あの方々とトレーナーさんは……う、『うまだっち』なんですか!?」
「……あ、フラッシュは知ってるヒトなんだ」
「話をそらさないでください!」
いきなりの発言に、思考回路が追い付いていない。疲労ではなく、興奮により肩で息をしてしまっている。体温の上昇も、それが原因だろう。
首を後ろに向けると、先ほどの衝撃で少し青くなっているけれど。嘘をついてない、真っすぐな眼と視線が衝突した。
「ごめんごめん。それなら、話が早いから助かるってだけなんだ」
「……私はトレーナーさんが誰と何をしようと勝手と思ってますが。余計なことに巻き込まれるような事態はお断りです。」
言いながら、呆れた私は背に込めた力を緩めて身体を屈める。しかし、トレーナーさんは接地するどころか、すがるように掴んでいる肩を更に強く握りしめた。
「違うんだ、フラッシュ。タイミングを逃していただけで……その、ちゃんと話すつもりだったんだ」
「話せば理解を得られると? そんなことの為に、私をスカウトしたんですか?」
冷たい口調になってしまうが、自業自得だ。要するに、トレーナーとして関係のない部分でこの人は私を求めていたんだ。
レースのこととか、私の将来のこととか。真剣に考えてくれていると思ったのだけれど。結局は、自分の行いに対する後始末ができないから。そのしわ寄せを、私に押し付けるつもりだったんだ。
「……だから違うんだよ、フラッシュ。俺には俺の考え方があって……。順序だてて、キミに伝えるつもりだったんだ」
「問題を後回しにしていただけで、都合の良いように利用していただけなんじゃないですか?」
「……そうかもしれない。でも、これはキミ達ウマ娘全員に関わることなんだ。俺と、シンボリルドルフ会長とで内々にだけど話した計画があって。
それを成就するために、エイシンフラッシュというウマ娘が絶対必要だったんだよ」
ほら、体の良いことを言っておきながら、やっぱり自己の欲望の為だ。私のことなんて、これっぽっちも……。
「……」
悔しくて零れそうな涙を堪えていると、トレーナーさんは当てていた手を解き、背中から降りた。
そして、今度は正面にしっかり向き合い、変わらない表情で私を見つめた。
「ごめんな。大義名分の為とか言って、キミの気持ちを考えていなかった。それを最初に伝えたうえで、同意を得るべきだったね。本当に申し訳ない」
大の大人が、教え子でもあるウマ娘に対して真摯に頭を下げている。
その行為に何も感じないわけではない。私も私なりに、トレーナーさんを見てきたから。
本当に、ただの通過点として私を引き取ったにしては、余りにも遠回りだ。
遅くまで、スケジュール管理について付き合ってくれる必要もない。練習メニューを個別で作ってくれたりしなくても良い。失敗を繰り返す私を見限って、別の子に行っても良かったんだ。
だけど、この人はしなかった。
あんなに、優しく嬉しそうに。私の成長を見て、頭を撫でたりなんて絶対しないはずだ。
「全容を聞きたいなら、今すぐ話すよ。まだ俺を信じてくれているなら、だけど……」
「……!」
ふいに視線が、トレーナーさんの後方に移った。
そこには、私たちのいる場所とは反対方向に走っていくネイチャさんが居た。
道路を挟んだ向こう側。声をあげれば、すぐ気づくだろう。私……いや、トレーナーさんを探しているのは本当だったんだ。
ここで、ネイチャさんに受け渡してしまえば、この話は終わりに出来る。
道を違えたり、嫌悪感を覚えたのならば私たちは他人となれるよう約束してある。
適用できる環境は、今ここに整っている。
……だけど。
それで本当に良いのだろうか。
胸の鼓動が、うるさいほど聞こえてくる。
遠くのネイチャさんが立ち止まった。キョロキョロと辺りを伺いながら、走っている。
待っていても、見つかるのは時間の問題だろう。
「フラッシュ?」
私の様子がおかしいのに気付いて、トレーナーさんが心配そうに顔色をうかがってきた。
そんな表情をされても、私の気持ちは変わらない。
「……。」
だから、私は……。
私は……!!
すぅ、と息を吸い込んだ。