第十七話「交渉、うまぴょい計画最後のピースはトップウマドル!」
青い空を見上げていた。
合宿も終わり、みんなそれぞれ本格的なトレーニングメニューを完遂。各々、目指す自分に少しでも近づけるようにたくさん努力をしてくれた。その結果は、これから訪れる秋のレースにて好成績という形で表れてくれるだろう。普段の練習で、大体の仕上がりはわかっているけど。ことレースに絶対はない。鍛え上げた己より、もっとさらに先を行くウマ娘が居ても不思議じゃない。
勝負に至るまでの、短いような長いような『待ち』の時間。俺は期待と不安の入り混じるこの感覚が好きだった。
「はっ!」
そんな晴れやかな気分と澄み切った青空の中、俺の近くでは爽やかさとは程遠い音が鳴った。
粘土で成形し、焼きを入れた家屋に欠かせない屋根の建材。瓦だ。鈍い音と煙を立てて、真っ二つに割れた何枚も重なるそれは、地面に崩れるよう落ちていく。
本来の用途として使う瓦は、そう簡単に壊れる物ではなく。今こうやって、力のみで破壊されたのはパフォーマンス用に切れ目が入っていたり、そもそも素材から違ったりするものだが。きっと、俺のような素人がやっても、眼前で執行された結果と同じにはならないだろう。
細く白い腕からはおよそ見当もつかない力と、真っすぐ威力を伝える技量もあるからこそ可能な、歴とした彼女の特技だ。
「さあ、好井トレーナー。覚悟は出来ましたか?」
俺に対して敵意と殺意を混ぜ合わせたような、鋭い目で睨みつけてくるのは同期のトレーナー
以前、トレーニングの方針に関して新人のトレーナーへ叱っている姿を見たことがある。最初は、育成に関して口出しをするのはどうなのか自問した結果、迷惑になるから、と
さて、そんな時とは比べ物にならない視線を、なぜ俺がぶつけられているのか。なぜ俺は、空を逆さから見上げているのか。なぜ簀巻きにされて、木にぶら下げられているのか。なぜ心配して、遠巻きに見ている俺の担当ウマ娘達に、助けを求めることもせずに甘んじて受け入れているのか。
それらを語るには、少しだけ時間を巻き戻さなくてはならない。
ことの始まりは、午前と午後の狭間。昼休みの時間に起こった。
「失礼するよ、桐生院さん」
ノックもしないで俺は、彼女のトレーナー部屋に入った。エネルギーバーを口にしながら、タブレットで何かを検索、もしくは勉強をしていたであろう家主は驚いたように、机越しにこちらを見る。
少し離れた場所で、ボーっと空を見上げていたハッピーミークも同様に反応していた。あまり表情に出る子ではないけれど、反射的に警戒する仕草をしていたのがわかる。イメトレ中だったのかな。驚かせてごめんな。
「あれ、フラッシュさんのトレーナーさんだ。こんにちは!」
そして、今回の俺の一番の目的。
栗毛をツインテールにした、丸い目のキュートなウマ娘。彼女の考案したアイドルとウマ娘の両立『ウマドル』として、常にセンターでウイニングライブを熟すことを信条としている明るく元気な子。
ダート界では知らぬものが居ないほどの実力者、スマートファルコンだ。
ソファーでスマホを弄っていたところ、俺の登場に一瞬ビックリするも、すぐに応対するのは彼女の性格がゆえだろう。素晴らしいことだ。
「やあ、ファル子。帝王賞、制覇おめでとう。先月のエルムステークスも凄かったね。堂々の8バ身差勝利だった」
「見ててくれたんだ! ありがとー! ファル子、キラキラドキドキを届けられてたかな?」
「ああ、最高だったよ。うちのフラッシュも、今月末にはメイクデビュー戦があるから応援に来てくれると嬉しいな」
「もちろん! 絶対行くよ! 一番前で応援するね!」
「ありがとう。フラッシュもきっと喜ぶよ」
「……あの、好井トレーナー? どのようなご用件で?」
ファル子との会話は自然と弾んでしまうから、うっかり本筋から逸れてしまっていた。
そうだったそうだった。食べかけの携帯食も机の上に、桐生院さんが困ったようにこちらへ来て俺を見上げている。
アポイントを取ろうと思っていたが、こういうのは勢いがないと多分負けてしまう。意を決して乗り込んだ以上、任務を遂行しなくては。
「突然すみません。桐生院さんに、折り入って頼みがありまして」
「私に、ですか?」
きょとんとする彼女の手を取り、俺はしっかり目を見て言う。
「あっ、あの……?」
「桐生院さん、実は」
「!?」
「あなたにしか、お願いできないことが」
「えっ、えっ?」
そのまま、勢い任せに前のめりになりながら語気に力を込める。
当たり前だが、近寄られれば桐生院さんも反射的に後退するだろう。それを利用して、ずいずいと壁に追い詰めていく。
「俺を……いや、俺達を助けると思って、聞いて欲しいんです」
「なっ……何を……ですか?」
遂に逃げ場を失った桐生院さん。視界の端で、ハッピーミークがおどおどしているのが確認できるが、俺は気にしない。遠くでファル子も、小さな悲鳴をあげているが今は無視だ。
隙を見せたらいけない。ダメ押しで、もう少しだけ距離をつめて。俺は自分の出せる限りの一番良い声を使って囁く。
「桐生院さん……。いや……
「あっ、葵!?」
「俺……どうしても、したいんだ」
「へっ!? だ、ダメ……! ダメですよ! 好井ト……ソウマさん! 私たち、まだ普通の同僚で……!」
「良いじゃないか。俺とあなたの仲だろう……?」
「いっ、いけません! 大体、ミークもファル子も居るんですよ!?」
「ええ。だからこそさ……俺と……」
「そ……そうまさ……!?」
「俺とファル子を、『うまぴょい』させてください!!」
「………………はい?」
「……へ? ファル子と?」
「……えぇ~……」
・・・。
という、完璧なプランだったんだけど。おっかしいなぁ。あそこまで強引にいけば、とりあえず「はい」ぐらい言ってもらえそうなもんだったんだが……。
まあ、俺の頭の中に桐生院さんが空手を嗜んでいたこと。あっというまに、指示を受けたミークに簀巻きにされることを予想出来ていなかったことがダメだったかなー?
「桐生院さーん、とりあえず話だけ聞いてくれませんかー?」
「聞く耳を持ちません! 失望しましたよ、好井トレーナー!! 人の気持ちを弄ぶなんて!!」
「す……すみません」
「謝っても許しませんから!!」
言いながら、ミークが用意してくれた瓦をまた割っていく。
「私、あなたのことを尊敬していました! トウカイテイオーさんの有馬記念、凄く感動しました! トレーナーとウマ娘の、あるべき最高の姿だと思い、同時に私には到達できない領域だって嫉妬もしました! 移籍したばかりのナイスネイチャさんも、遂にGⅠを制覇させましたよね!? 本当に、本当に! ただの同期ではない、ライバルとして新しい私の目標が出来たと思ったのに! そんな……そんなものに手を染めてしまうなんて!!」
半分くらい泣きながら、一息つくごとに瓦が割れていく。学園の端の方に居るけれど、そろそろギャラリーが沸いてしまいそうなほど、熱い叫びが桐生院さんの口から漏れていった。
「……ふぅ。取り乱してしまいました。……さあ、次はあなたの番ですよ」
パカーンと幾重にも重なった瓦が、真っ二つに割れた。汗を拭い、残心をとった桐生院さんは俺の天地が反転した目を見据える。
俺もいい加減、血が頭に上りすぎて思考がまともにできなくなりそうだ。説得をなんとかしないと、かなりマズイ。
「桐生院さん! 俺、別に自分の為に『うまぴょい』をお願いしたわけじゃないんですよ!」
「真昼間から、そんな単語を平気で口にする人が何を仰いますか!」
ごもっとも。
だが、俺だって簡単には引かない。
「ファル子の、夢についての話なんですよ! もう立派にダートの女王として走っているけれど! かつて、置き去りにした彼女の夢があったはずですよね!? それを、俺が叶えさせてあげたい! それだけなんだ!!」
「……何を……。」
桐生院さんが拳を拭いていると、そっと上から握る小さな手が見えた。厳しい目をした桐生院さんを、困ったような、心配するような表情で見つめ返している。
一度頷くと、その手の主……スマートファルコンは俺の傍に歩み寄り、見上げなら尋ねた。
「好井さん、ファル子の夢って……『どれ』のこと?」
彼女はたくさんの目標を持って、トゥインクル・シリーズに臨んでいた。
ウマドルとして大成したい。ダートの世界を盛り上げたい。みんなを笑顔にしたい。自他共に、幸せを届けたいという彼女の、殊勝な願いはトレーナーであるなら誰しも耳にしたことがあるだろう。それほどの実績を、既に築き上げているのだから。
そして、その中で唯一。ファル子が、どうしようもなくて諦めてしまったことがあったんだ。
「芝の大舞台で……もう一度走ってみないか?」
「……それって……」
「好井トレーナー。おかしな提案は止めていただけますか。ファル子さんに失礼ですよ」
俺の提案を切り捨てるように、桐生院さんがファル子の前に立ちはだかった。
言いたいことはわかってる。スマートファルコンは、ダートに適性を持つウマ娘。芝のバ場だと思うように力が伝えきれず、かつて出場した皐月賞では前を走るウマ娘と5バ身もの差をつけた最下位だったほど。向いていないのは明らかだった。
本当は、それでも芝の世界を諦めたくなかったのは知っている。自分を見て欲しい、キラキラ輝く自分の姿で希望を見出して欲しい。それを叶えるには、多くの人に見てもらう必要がある。
ダートと芝のレースでは、どうしてもレース場やライブ会場の箱に大きな隔たりがあるから……芝の方が、現実的なのかもしれないけれど。
それでも、スマートファルコンは頑張って来た。たくさんレースを走って、成績をキッチリ収めてきた。昨年の秋ごろに少し伸び悩みを感じたのか、堅実さを売りにしている桐生院さんの所へ移籍して師事を仰ぐ。上手くかみ合ったのかクラシッククラスにしてダートレースの最高峰、東京大賞典を制覇した。
更にはそれに並ぶ二大ダートレースと名高い、帝王賞を2着と9バ身もの差をつけて逃げてゴールしたことや、あまりに圧倒的な逃げで勝つ姿から、『砂のサイレンススズカ』なんて異名すらつくほど。
多くの人を、『逃げて差す完璧な走り』で魅了してきたスズカさんを惜しんだ、ファンの方々の羨望が溢れる素晴らしい呼び名だと思う。上位リーグで活躍している人と同じ名を冠するなら、それ以上の名誉はないんじゃないかな。
スマートファルコンの走りだけで、どれだけの人が希望を与えてもらったことだろう。外部の者でしかなかった俺には、その影響は計り知れない。専門としていなくたって、名を聞くほどだ。普通、でないのは明らかだろう。
だからこそ、今度は。彼女が本当にしたかったことをかなえてあげたい。そして、それこそが俺の考える『うまぴょい』の答えに直結するはずなのだから。
「確かに、今までのファンの人や……ファル子の決意を……無視するようなことかもだけど……。でも……それでも……。ファル子。キミが本当に……誰かの夢に、希望になりたいのであれば……俺と……」
ぐぉお……意識が。
視界が薄暗くなってくる。今、俺の顔は真っ赤でパンパンに腫れているんじゃあないかな……。
「……葵ちゃん。ファル子、好井さんのお話聞いてもいいよ」
「え!? でも、それではファル子さん……彼と……その……」
「どうしてかは、しっかり確認してあげたいの。それに、フラッシュさんから好井さんのことは色々と聞いてるから、大丈夫だよ」
「ですが……」
「フラッシュさん、ずっと担当してくれる人が来てくれなくて困ってたんだよ。そこを好井さんが見つけてくれたの。フラッシュさんって、ちょーっと不器用だけど、そこも含めてしっかり教えてくれる、すっごく素敵な人だって言ってた。合宿期間もね、あれが出来るようになった。これが出来るようになった、って毎日、報告してきてくれたんだよ。ファル子、フラッシュさんがあんなに嬉しそうにしてるの初めて見たんだ。報告のメッセージは淡々としてるのに、それが伝わるなんて、よっぽど好井さんのこと……むぐっ!?」
「ファルコンさん、その辺りで。」
いつの間にか、遠くで見ていたはずのエイシンフラッシュがスマートファルコンの背後に回り、両手で口を塞いでいた。血の回った視界のせいだろうか、まるで顔を真っ赤にして恥じらっているように見える。
「ぷはっ。フラッシュさん、いつの間に!」
「トレーナーさんと私のことは、今関係ないと思われますが。」
「えー? そうかなぁ? ……まあいっか。それで、葵ちゃん。ダメかな?」
「…………正直に言えば、まだ腑に落ちない所はあります。ですが……あなた達がそこまで信頼されているのなら、私も易々と却下は出来ません。わかりました。ただし、絶対に一対一で話さないでくださいね?」
「やったー! ありがとー、葵ちゃん!」
許可が下りたということは、もう俺を束縛する必要はないだろう。
半目でエイシンフラッシュを見ると、頷いてくれた。それを合図に俺は、絞り出すように声を出す。
「ネイチャ!」
「はーい。まったく、ハラハラしちゃいましたよっと」
吊り下げられた枝にナイスネイチャが飛び乗る。振動で更に脳が揺さぶられて、マジで意識がぶっ飛びそうになるが、逆さづりはすぐに解消された。腕力だけで、支えとしていた綱をネイチャがちぎったからだ。
そして、そのまま重力に引かれ俺は落ちていく。高さは何メートルあったのか定かではないけれど、そのまま地面に激突すれば、絶命は必至な高度。
だが、それでも俺は流れに身を任せた。浮遊感は途中でなくなり、俺のミノムシのような体は優しく力強く抱きとめられ、勢いを殺したまま着地できたからだ。
「大丈夫、トレーナー?」
「おぉ……まだちょっとくらくらするや。ありがとな、テイオー」
ふらつく俺を立たせると、巻かれた綱をテイオーも楽々と引きちぎる。クッションにされていた布が力なくはがれると同時に、心配そうな顔をするクリークが目に映った。
「ケガはありませんか? 無理して立たなくても大丈夫ですよ~?」
「ああ。すまない、クリーク。じゃあ、ちょっとだけ肩を借りようかな」
テイオーに腰を支えてもらい、クリークの肩を掴む。満身創痍だな、俺。
「ね。葵ちゃん。好井さん、良いトレーナーでしょ?」
「……それぐらいは、私だってわかってますよ」
何をもって、そんな判断をしてくれたのかはわからないけれど。とにかく、警戒を解いてくれたのは間違いない。
下手にウマ娘たちを引き連れて話をしにいけば、保身に走っているように思われそうだったので、担当の子らには合図があるまで遠くで見守るように伝えておいて正解だった。フラッシュだけは少しフライングだったけれど、まあ仕方あるまい。ファル子への説得の為に動いてくれただけのはずだから。
「それで。好井トレーナー、一体どういうつもりだったのか、説明して頂けますか?」
体当たり説得が成功したことに肩をなでおろしつつ、本題に入れていないことに気付く。
騒ぎになりかけてたし、ここで話すにはちょっと内容が内容だ。俺は自分のトレーナー室で、全員に説明することを約束し誘った。
・・・。
「はい、どうぞ~」
「ああ、どうも。ありがとうございます」
応接用ソファーに、面と向かって座る俺達。俺がやると言ったにも関わらず、仕事を奪い取るようにお茶を出してくれたクリークに礼を言いながら、一口飲み口を湿らせる。
律義にクリークへ頭を下げる桐生院さんに咳ばらいをしてから注意を引き、真剣な口調で精一杯の誠意を込めて話を始めた。
「桐生院さん、ファル子との『うまぴょい』のことなんですが」
「……はい」
もう今更何を言っても無駄だろうという表情で受け入れてくれた。甘えながら俺は続ける。
「俺より詳しそうだったのでご存じかもしれないですが……『うまぴょい』の効果はそもそも理解してますよね?」
「なんだか引っかかる言い方ですけれど……。当然です。ウマ娘の能力を引き上げる行為ですよね」
「ええ。俺もあれから、色々と勉強してきました。それでわかったことがあるんです」
「……他の人より、好井トレーナーの『うまぴょい』は特別。ということですか?」
思いがけない言葉に俺は驚いて目を見開く。……いや、思いがけない言葉は正しくないな。だって、いま桐生院さんが言ったのは、俺が言おうとしたことだったから。
「……気付いて……いや、知っていたんですか?」
「トウカイテイオーさんの春の天皇賞、ナイスネイチャさんの宝塚記念。続けてGⅠを制覇する姿を見れば、何となく察しはつきますよ。知らない方からすれば、トレーニングをたくさん頑張ったんだろうと思うだけかもしれませんが。私も、あなた……ではなく、あなたの担当ウマ娘さんには注目していたので、すぐにわかりました。私の聞き及んでいた……『それ』の話とは食い違っていたので、正直実感は持てなかったのですけれど……どうやら、あなたが仰る以上、本当なのですね」
「……なるほど」
桐生院さんほどの慧眼ならば、すぐにわかってしまうのか。となれば、やはり人によっては既に気付いていることもありうる……。実際、
思考を終えた俺は、真剣な表情を維持したまま桐生院さんへ告げる。
「俺、実は……この『うまぴょい』を公表しようと思ってるんですよ」
「はい……?」
「隠れてやってるだけでは、やはり公平性に欠けます。こんな、理論を真っ向から否定するような行為が当たり前に存在しているのに、誰もが公にしていないなんて……おかしいじゃないですか」
「それはそうかもしれませんが……。あなたも、経験があるならお分かりでは? 人の前で行うには、少々……いいえ、かなりの問題があると思いますが。だからこそ、皆隠れるようにしてきたのだと思いますけど」
「もちろん、そのまんまやるわけじゃあないですよ。大衆向けに作り替えるんです。ウマ娘ならではの方法でね」
「…………はっ。ま、まさか……!?」
察しが良いのは本当に素晴らしいことだ。あれこれ言わずとも理解してもらえるなら助かる。
「そうです。ウイニングライブの新しい楽曲として、『うまぴょい』を生まれ変わらせるんですよ!」
「ふ、不潔ですっ!! 何考えているんですか、あなたという人は!!!」
思わず立ち上がり、恥ずかしさから顔を赤くしながら眉をつり上げる桐生院さんを俺は嗜める。冗談で言っているわけじゃないから、最後まで聞いて欲しい。
「俺の考えとしては。まず、ファル子と『うまぴょい』して芝を走れる状態にします。……あー、ファル子は長距離も苦手だったか。それも克服しよう。目指すレースは一つ。シニア級でこの季節の、長距離の、芝の大舞台! と言えば……?」
俺はちらりと目配せをする。憤慨する桐生院さんの後ろで、目を潤ませながら口も半開きになり驚いていた。声が耳に届くと、ピクンと一瞬跳ね。そして一度息を吸ってから、ファル子はそのレース名を口にした。
「……有馬……記念……?」
その通り。俺は頷いて肯定する。
「…………でも。……でも、私……。」
たくさんの感情がせめぎ合うのはわかっている。芝の世界で存分に走れたのであれば、彼女は苦労することなかっただろう。それほど、レースにおける能力はずば抜けている。
ダートの世界で走ってきて、ダートだからこそ手にしてきたファンや夢、思い出も辛労もたくさんあるはずだ。今更、芝の世界に転向してきて、どう思われるのか。
「ファル子、キミが走る理由はなんだい?」
「……わた……。ファル子の夢は、トップウマドルになることだよ。今も昔も変わらない。ファル子だけの大事な夢なの」
「そうだろう。でも、キミは最も動員の多い芝の世界に縁がなかった。それは素質の問題だ。誰が悪いわけでもない。だからこそ、そんなどうしようもないものを覆すために、俺はキミを有馬記念で走らせたいんだ」
「それは……」
既に多くのファンが居る彼女だ。誰もがその名を聞けば『ダート界の強者』を連想するだろう。
だが、そんなファル子が突然、芝の世界に転向し、成績を収めたらどうだ。注目は一気に浴びるに違いない。なまじ有名なだけに、効果は
だけど、この歯切れの悪い返答を見るに、どうしても引っかかることがあるのだろうな。見当がついているので、俺は口に出して確認する。
「ファンの人たちが心配か?」
「……うん」
地下アイドルがメジャーデビューしたら、元々慕っていた人たちは何かしら思うかもしれない。後方腕組み面していたかっただけなのに、いきなり晴れやかな舞台に立たれて注目を浴びたら、何とも言えない寂寥感に苛まれるだろう。
「大丈夫だよ。キミのことを見ていた人たちが、キミの輝かしい姿を見て残念に思うわけがないさ」
「…………」
「どの世界でも、どこに居ても、どこであっても。キミが最高にキラキラしてるなら、受け入れてくれるよ。もちろん、それが半端な覚悟や浮ついた気持ちだったなら批判されても仕方ないけれど。ファル子は、そんな不真面目な子じゃないのは担当トレーナーじゃなくても、十分知ってるさ」
アイドルというのは、この世で最も綺麗な空間を生み出すもの。眩しく美しい姿の裏では、血のにじむような努力が積み重なっている。ファル子だけじゃない、トゥインクル・シリーズを勝ち抜く強者たちは誰だってそうなのだ。
「好井さん。どうして、そこまでファル子にこだわるの?」
フラッシュの時にも同じ質問をされたが、明確な理由がちゃんと存在するので俺は指を一本立てて、躊躇いなく伝えた。
「ダートから芝への転向は、普通のウマ娘にはまず出来ないことだから。距離適性や脚質を変えるのは、困難だけれど不可能の範疇じゃない。けど、バ場適正は別だ。生まれ持ったものの影響があまりに大きい。だから、それを覆せることを証明したい。キミがGⅠ芝のグランプリレースで勝利すれば、生半可な答えは通らないだろう。ハッキリ、『うまぴょい』を世に伝えるチャンスになるはずなんだ。それが一つ目の理由」
もう一つ、と言いながら二本目の指を立てる。
「ある程度の人気があること。影響力の少ないウマ娘じゃあ、伝播する速度が違う。俺は少しでも早くこの問題を片づけたいから、ファル子のように名実ともに人気のある子に目をつけた」
最後の三つ目の指を立てる。
「ファル子が、ウマドルであることが一番大きい。新しい曲を作るなら、俺だけの力ではどうにも難航してしまってね。テイオーにも手伝ってもらってはいるんだが……やっぱ本職の手助けも欲しいんだ。振付とかも、是非ファル子に考えて欲しい。ある意味、キミの新曲作成だな!」
「……まるで、ファル子さんを利用して都合の良いように物事を進めたいようにも聞こえますね」
桐生院さんから、
でも……。
「ファル子、ダートを走ってて楽しいかい?」
「え? うん。ダートって、走る時に砂がキラキラ輝いててライブの紙吹雪みたいでね。夢に向かってる子たちと、一緒に作り上げるステージみたいなの! 芝のレースがそうじゃないとは言わないけど……ダートの子達は、みんな本当に必死だから。余計にそう感じるな~」
「夜や夕方に走るレースも特徴的だしね。ライトアップされるレース場を走るウマ娘って、中々見かけることもないし。なんというか、趣があって良いよな」
「そうなの! だから、特別な気分になれてファル子は好きだよ!」
「この前の帝王賞、動員数は歴代一位だったそうだね。それだけ、キミの心を動かす力は凄まじいんだと思う。スマートファルコンは間違いなく、たくさんの人に夢を魅させる素敵なウマ娘なんだ」
「……好井さん……」
「ダートの世界を捨てろ、と言っているんじゃないんだ。ただ、芝を走りたくて仕方なかった子も、長距離で走りたい子も、スプリンターに憧れている子も。大逃げで勝ってみたいと思っている子も、直線一気で一着をもぎ取りたい子も。みんなに希望を与えたい。その為に、みんなの消えそうな夢を一つでも、現実にしてあげるために! ファル子の力を貸して欲しいんだ。頼む!」
俺は頭を下げて、誠心誠意で頼み込む。
視界は足元しか映っていないから、周囲の状況が理解できないが。短くない時間が経つと、桐生院さんがファル子に対して優しく声を掛けた。
「どうしますか、ファル子さん」
「え……どうする、って……」
「やはり、私はまだまだ未熟なトレーナーです。あなたが私の所へ来て、色々と学ばせてもらい、教えましたが……。好井トレーナーは、直接会話をしていなくとも、ファル子さんが大事にしてることを的確に捉えています。……内容が内容でしたから、少し驚きましたが。ファル子さんにとっても、きっと悪い話にはならない気がしますよ」
「葵ちゃん……」
「正直に言えば、これ以上これからどのようにあなたを指示していけばいいのか、少し悩んでいたんです。好井トレーナーの仰るように、あなたの実力はとても素晴らしい。なにより、それに付随する素敵な夢を、私はお堅い家柄に生まれ育ったから、お恥ずかしながら心の底から理解できていません。それならば、実力も目線も同じくしてくれる、好井トレーナーの下で……皆さんの夢になってあげることが、私は適切だと思います」
思わず顔をあげると、とても悲しそうな顔をしてファル子の肩に手を置く桐生院さんが居た。
彼女も、彼女なりに思うことがあったのだろう。最高の成績を収めているから、その軋轢に気付けるものはほとんど居なかったに違いない。
でも、俺はそこまでしてもらうつもりはなかった。安心沢の所から、特別移籍でやってきたネイチャとは少し事情が違う。俺が、俺の為にスマートファルコンの協力を仰いでいるのだ。
仲裁をしようと思った刹那、ツインテールのウマ娘は勢いよく立ち上がり、トレーナーを強く睨んだ。
「葵ちゃん、ファル子のこと……嫌いなの?」
「そ、そういうわけでは! ただ、実力に見合った人に師事してもらう方が適当だと私は……」
「ファル子がトップウマドルになることなんて、どうだって良いと思ってたんだ?」
「違います! ただ、あまりに専門外のことだったので、よくわからなくて……」
「だったら、わかるまでファル子が教えてあげる!」
「え……?」
スマートファルコンは真剣な目で、桐生院さんの手を握り続ける。
「移籍するときに、私言ったよね。葵ちゃんの知識や指導の仕方は、私の性格と全然違うって。だから、今までにはない新しいファル子になれると思ったんだ、って。おかげで、東京大賞典もフェブラリー
「……ファル子さん……」
「だから、どんなことになっても。私は葵ちゃんとトゥインクル・シリーズを走りたい。そして、絶対に、私が……ファル子が、あなたにとっても最高のウマドルだってことを、教えてあげたいの!」
「……だ、そうですよ。桐生院さん」
俺が何かを言うより、本人がここまで本気の敬愛を見せているなら言葉はいらないだろう。
「わかりました。すみません、ファル子さん……いえ、ファル子。やはり私は未熟なトレーナーでした。担当している子から教わるなんて……」
「えへへ。ファル子の気持ち、ちゃんと届いたかな?」
「はい、しっかりと。……それで、好井トレーナー。形としては……一時的な移籍、というのではいかがでしょうか?」
おずおずとした問いに、俺は胸を張って応えた。
「全く問題ないです。一緒に走っていくことが二人の夢であるなら。俺はその夢も、当然守りたいですから! そもそも、完全に移籍をお願いするつもりはなかったんですよ」
「好井トレーナー……!」
「やったー! じゃあ、全部終わったら、また葵ちゃんと走って良いんだね!?」
「ああ、もちろんさ」
「わーい! ありがとう、好井さん! 葵ちゃん、ちょっとだけ待っててくれる? ファル子、みんなのキラキラになって、必ず帰ってくるからね! その時は、一緒にファル子達の新曲を踊ろう!」
「ええ、わかりました。約束ですよ」
うん。良かった。これで、計画第一段階への入り口が開かれたわけだ。後は、起こりうる問題や突破しなくちゃならない障害を大人として、しっかり越えていかなくっちゃな。
「失礼するわよ、好井先輩」
綺麗に話がまとまったと思った矢先、部屋の扉が勢いよく開かれた。
シニヨンにした金髪と、三角系の珍しい形をした眼鏡。妙に濃い目の化粧は、先輩にあたる桐生院さんより年上に見えるぐらい。皺ひとつない、いつものレディスーツをまとった
「なんだよ、安心沢。部屋に入るときはちゃんとノックしろよな」
『あなたがそれを言いますか?』と言いたげな桐生院さんの顔が、視界の端に映るが気にせず後輩に向き合う。
「あら葵先輩、ごきげんよう。お元気そうね」
「こんにちは。……安心沢トレーナーと話すのも、なんだか久しぶりですね」
「そうね。フェブラリー
「あはは。噛み癖のある子のコントロールは大変ですね」
「ちょっとちょっとー! ファル子のこと、変なあだ名で呼ぶのやめて、って言ってるでしょー?」
「それより、俺のことを当たり前の様にスルーしないでくれよ」
ぷんぷん怒るファル子を差し置き、俺は俺で質問をぶつける。
「何の用だ?」
「ええ。好井先輩に、今日はちょっとした宣言をしにきたの」
「宣言?」
「さ、入ってきていいわよ」
安心沢が合図を出すと、空きっぱなしの扉から一人のウマ娘が入って来た。
優雅な仕草、葦毛の長く綺麗な髪。一目でわかる、良家のお嬢様らしい風貌。だけど、ことレースになれば史上最強のステイヤーとも名高い、天まで昇る脚を持つ強者。
うちのトウカイテイオーの最大最高のライバル。
「ごきげんよう、皆さん」
メジロマックイーンが、恭しく挨拶をした。
有名な彼女のことを、知らない人はこの空間に誰も居ない。
だからこそ驚いた。マックイーンのその姿に。
制服でもない。私服でもない。
かつて、痛々しく嵌められていた脚のサポーターもついていない。
動くために特化した、トレセン学園指定のジャージを着ていたのだ。
つまり、それが意味することは……。
「マックイーン……もしかして……?」
声の出ない俺に代わり、零れるような、すがるような質問をテイオーが口にする。
それに対し、かつての最強のライバルは不敵ににやりと笑うのだった。