トレセン学園内の芝のコース。一周ぐるりと1800m。色々なチームのウマ娘がトレーナーの指導の下、練習メニューを熟していたり、個別に考えたであろう器具を使ったトレーニングを行う自主トレ者が居たりなど、今日も活気は十分だった。
「あっ、見て!」
ストップウォッチを片手に、タイム記録用のバインダーを持つ俺の後ろから道行くウマ娘が声を上げた。その視線の先と俺の視線の先は同じく、ある一人の者へ向けられている。
身体を思い切り倒して地に手を付ける。立ったままというのに、踵すら浮かせることなくぐにゃりと上半身を曲げてストレッチする姿は、
「よーい……スタート!」
開始の掛け声と共に、地面が少し揺れた。シューズに着いた蹄鉄が、土ごと芝を抉り空を舞う。今日はいつもより高さがあるな。なんて呑気なことを感じていると、テイオーは既に向こう正面まで到達していた。歩幅の大きいストライド走法で、地の果てまで走りそうな勢いそのまま最終コーナーへ入っていく。
天皇賞・秋を想定して動き出した時計の針は、想像していたよりもかなり早い時間を示している。それなのに、汗は搔けど涼し気な顔のまま背筋の伸びた美しいフォームで、俺の眼前をつむじ風と共に駆け抜けていくテイオー。
トレーニングにも関わらず、その走りを見て背後から歓声があがるほどのカリスマ性をもった彼女は、人懐っこい笑顔で息を弾ませながら俺の所へ戻って来た。
「トレーナー、どうだったー?」
「1分58秒3。上がり3ハロンに至っては34秒だ。前回とは比べ物にならない好タイムだな」
「へへーん! でしょー? 走ってても、すっごい調子よかったからね!」
「このまま状態を上げてって、レコード更新といっとくか!」
「いっちゃお、いっちゃおー! よーし! それじゃ、もう一本行ってくるねー!」
「無茶だけはすんなよー!」
既に遠くへ行ってしまったテイオーへ声をかける。『うまぴょい』によって、テイオーの身体は強靭なものになった。だけど、マックイーンとの再戦が決まってからテイオー自身は俺との『うまぴょい』を拒んでいる。新しいライブ曲のための練習も、今はネイチャやクリークたちに代わってもらっているほど。練習でも『うまぴょい』の軽い効果が出てしまうから、嫌なんだとか。
何故そこまで……と尋ねるまでもなく、俺は理解している。
テイオーは、マックイーンとの真っ向勝負を望んでいるのだ。計画通りにことが進み、『うまぴょい』が浸透してしまう前に、今度こそ自身の力だけで『天駆ける名優』から勝利を得たいのだろう。
俺もそこは尊重し、スケジュールを組んであげた。気になるのは、またケガをしないかどうかだが……。今はテイオーを信じてあげよう。
「いやはや、またとんでもないタイム出しますね主人公さんは」
ロードワークから戻って来たナイスネイチャが、手に持ったバインダーの数字を見ながらぼやく。次走を同じレースにしているので、今は別々のトレーニングメニューを課しているのだ。
「でも、最近のネイチャも良い仕上がりになってるぞ。敵はテイオー以外居ないってぐらいにな」
「まー、アタシは『うまぴょい』してるからねぇ。テイオーは素でしょ? どんだけ伸びしろあんのさーって感じですよ」
「ネイチャのことも十分にライバル視してるけど、やっぱアイツにとっちゃ宿敵はマックイーンなんだろうな」
「水を差すわけじゃないけどさ……だったら、なおのこと良いの?」
「何が?」
指をさす先に居たのは、ピンクの可愛らしいアーガイルチェックのリボンを両につけた栗毛のウマ娘。
砂塵を巻き上げ、一歩進むごとに推進力を増して進んでレースを圧勝するダート界の覇者、スマートファルコンだ。フラッシュがタイム計測をして、仕上がりを見てくれているが遠目でもわかる安堵の表情を見るに、問題はなさそうである。
ファル子が目指す次のレースはシリウス
「ファル子先輩、有馬記念で、その二人を後ろに走らせるんでしょ?」
「思わずそうなった、ってだけだよ。予定に変更はない。時間もあんまり残ってないと思うしさ」
「そうかもしんないけど~……。ライスさんみたいなこともあるじゃん? 大丈夫かなー、って」
テイオーと同じように、無敗の三冠ウマ娘になりそうなウマ娘が居た。ミホノブルボンだ。彼女は菊花賞まで負けることなく勝利を収め続けてきたのだが、クラシックロードの最終戦、後ろから迫る黒い刺客ライスシャワーに伝説を奪われてしまった。
ライスシャワーに非など一切なく、ただ懸命に勝つためだけに努力をしてきた彼女は称賛の声を浴びるはずだった。しかし、観衆はやはり劇的な結末を求めるもの。シンボリルドルフ以来の偉業を目に出来ると思っていた人々は、その夢が崩れると拍手ではなくため息を漏らした。
寂し気にターフを去る彼女の背は、未だに忘れられない。声をあげて、努力の結果を褒め称えてあげたかったが……あの空気でそれをやってしまうと、ライスシャワー自身にヘイトが向けられて更に悪い熱が加速しそうな状態だったのだ。一部の、理解している人……何より敗北を喫したミホノブルボン自体がそれを深く気にせず、純粋に彼女のことを尊敬するライバルと認めてくれていたのが救いだろうか。
「それはもう仕方ない。……というか、きっとそっちに注目はいかないよ。そもそも、ファル子が芝のGⅠに出て勝利すること自体が、まずおかしいことだからな。となれば、注目は俺に向けられるはずさ」
「……心配してるのは、そっちもなんですケド」
「はは。ありがとな」
普段からモフモフだが、まだ湿気の多い9月の気候。くせ毛が更に湿度でふわふわになった頭を、俺は優しく撫でる。俯いて儚げな表情が手の間から見えるのが、俺としても心苦しい。誰かに心配をかけることを、自ら望んで飛び込んでいくのは、どうしても引け目を感じるなぁ。礼を述べて、クールダウンのために周辺をランニングするよう指示を出して、不安げな背中を見送った。
目下の問題は、ファル子だ。
あれから、何度か『うまぴょい』を試みた。
やれ皆から、ムードを大事にしないからだの、いきなり人前は信じられないだの、多大なるダメ出しを受けたので、今度はきっちり二人きりの時間と空間を設けて、意志も確認した。
だが……。
「……ご、ごめんなさい。好井さん。や、やっぱりファル子……まだ……!!」
顔を真っ赤にして、潤んだ瞳を冷や汗と共に落としている姿を見ると、これ以上は犯罪になってしまいそうな感じさえする。とてつもなく如何わしいことのような錯覚を感じた俺も、無理に踏み込まないようにした。
とはいえ、俺も暇ではない。テイオーとネイチャの天皇賞・秋へ向けた調整。フラッシュのデビュー戦、クリークもアルゼンチン共和国杯とステイヤーズ
ファル子の意志を尊重するのが第一であるのに間違いはないのだけれど、少なくとも芝のコースを走る感覚を身に着けてもらう期間は一か月は欲しい。ファルコの場合は長距離のペース配分も会得しなくてはならないから、なおのことだ。
問題は山積みで、中々突破口も見つからない。テイオーが走ってる最中というのにも関わらず、俺はセットした髪も気に留めず頭をくしゃくしゃにしてから、大きなため息をついてしまった。
「どーした、ソウマ。でけぇ幸せが逃げてっちまってるじゃねーか」
「!」
聞きなれた声が後方からして、俺はすぐさま振り向いた。
黄色地のシャツにベストのトレーナー服。俺がつけている赤に蹄鉄の意匠と違う、金色の星が特徴的なドリームトロフィーリーグのバッジ。飴を咥えて、いつもの髭と髪がキマっている俺の先輩がそこに居た。
「先ぱ……」
「こんにちは、ソウマさん」
苦悶の顔を解き、声を掛けようとしたところ。
先輩の大きな体の後ろから、ひょこっと小さな影が飛び出てきた。
反射だけで太陽のような美しい輝きを見せる長い栗毛。緑色のイヤーカバーと白いカチューシャ。残暑の季節にぴったりな、青空の映える白い半袖のブラウスと薄花色のプリーツスカート。通気性の良さそうなタイツ姿も、懐かしい。先輩の相棒にして、俺が最も尊敬するウマ娘のサイレンススズカさんだ。
「スズカさん! お久しぶりです!」
「お久しぶりです。お元気そう……とは言えないみたいですね。どうされたんですか?」
「え? ああ、いやいや。なんてことは。思ってたより調子が伸びてこないなー、って思って」
「んなわけねぇだろ。みんな絶好調じゃねーか。下手な嘘つくなよ」
苦笑いして誤魔化すが、やはり長い付き合いからか偽言は看破されてしまうみたいだ。観念した俺は、二人に洗いざらいことの顛末を語ることにした。
最初は二人とも素直に頷きながら聞いてくれたが、途中から先輩は青ざめていき、スズカさんは逆に口元に手を当てながら顔を赤くしていった。白昼堂々、とんでもない話を振って申し訳ない。
「お前……前会った時より、なんかヤバイ方向にコトが進んでねぇか……?」
「ですよねぇ~……」
以前は、どうしたら担当の子と『うまぴょい』を避けられるか。どのように向き合えばいいか、という問題に直面しているだけだった。今は真逆。向き合い方はわかったけれど、その先の未来について考えている。俺の問題だけでなく、下手すればウマ娘の界隈全てに関わるほどの大ごとだ。
「理事長達は知ってんのか? URA側にも許可が要るだろ、それだと」
「いえ、実はまだ……。新曲の提案はしているんですけど、詳細をどう話せばいいのか、まだ思案中で」
「はぁ……。お前のその、一人で何でも抱え込む癖は全然変わってねぇな」
なくなった飴の棒を携帯ゴミ箱に入れながら、先ほどの俺と同じくらい重い溜息をつく先輩。返す言葉もなく、反省していると肩に手を置かれた。
「そういう面倒なことは、オレに任せておけよ。これでも、上位リーグの実力者だ。下手な奴が持ち掛けるより、説得力はあるだろ」
「せ、先輩ぃ~~!!」
「バカ、ひっつくな気持ち悪ぃ!」
思わず抱きしめそうになるが、身長差があるため密着できず頭部を押さえられた俺の両手が空回りする。そんな光景が懐かしいのか、スズカさんは優しく笑いながら見守ってくれていた。
「あー! スズカだーー!!」
じゃれ合う俺達の下に、甲高い声が浴びせられる。額に汗を浮かべたテイオーが、目を輝かせながらこちらに走って来た。
「久しぶりじゃん! どうしたの?」
「最近、みんな良い成績上げてるって聞いたから、ちょっと気になっちゃって。様子を見に来たの」
「そうなんだ。あ、聞いたよスズカ! 予選リーグ連勝してるみたいだね。さっすがー!」
「ありがとう、テイオー。あなたも、春の天皇賞勝てたのよね。おめでとう」
「ありがとー! 次はスズカがレコード出した、秋の天皇賞だからね! ボク、スズカの記録を破るつもりで走るから! 期待しててよね!」
「ええ、応援してるわ」
「……あ、そうだ。スズカ、これから空いてる?」
「え? ええ。今日は休暇だけど……」
「じゃあさ、久しぶりに併走……いや。模擬レースしようよ! 秋の天皇賞に向けてさ、仕上がり確認したいんだー!」
「こらこらテイオー。いくらスズカさんだからって、ドリームリーグの選手にそう易々と模擬レースを頼むな。」
「……」
「……」
スズカさんが、ちらりと目配せをする。受け取った先輩は、少し考えたがすぐに笑って頷いた。
「じゃあ、一度だけね」
「ホント!? やったー! ありがと、スズカ!」
「先輩にもちゃんと礼を言え!」
「え~? 後輩に飲み代奢らせるような人に、そんなこと言う必要あるぅ~?」
「なんだとテイオー! あれは、ちゃんとソウマが自分からなぁ!」
「にっしっし! わかってるって。ありがとね、『トレーナー』! いこ、スズカ! 部室にスズカのジャージ、まだ残ってるんだ~!」
「えぇ……ウソでしょ……。使わないから捨てておいてって言ったのに……」
「大事なエースの置き土産だもん。綺麗に洗濯してクリークが保管してくれてるんだ」
かつてのチームメイト同士が仲良さげに走っていく。共にレースを走ったことはないけれど、一緒に目指す目標に向けて切磋琢磨していた日々が脳裏に浮かんで、俺は少しだけ視界が滲むのを感じた。
「ちょ、ちょっとちょっと。あれ、スズカさんでしょ? どうして?」
ランニングを終えたネイチャが、驚いた様子で俺の所へ戻って来た。フラッシュやファル子も、同様に近づいてきている。先輩に軽い挨拶を交わした新参者たちは、俺の次の言葉を待った。
「俺達のことが気になって、見に来てくれたんだってさ。で、テイオーが模擬レースを無理やり誘っちゃって……」
「へぇ……。ねえ、トレーナーさん。アタシも、それ走って良い?」
「えぇ? んもー、わがまま言うなよぉ。テイオーとやるだけでも、特別なんだぞー?」
「だってー。スズカさんと走れる機会なんて、滅多にないじゃん! というか、今後もあり得ないかもしんないでしょ?」
「あー。良い良い。構わねぇよ。いずれは、皆進む道だ。目標が見えたら、目指す先が捉えやすくもなるだろ」
「先輩……。すみません。ありがとうございます」
いつの間にか新しい飴を咥えていた先輩が、誇らしげに寛大な言葉をくれる。喜んだネイチャ、フラッシュが遠くに見えるテイオー達の影を追う。今日は休養日のクリークも、せっかくなら走ってもらえば良かったかな。後でスズカさんが来てたことを報告してあげよう。
「ソウマ。スマートファルコンは良いのか?」
ぽつんと残るファル子を見て、先輩が心配そうに声をかける。今はまだダートしか走れないので、今回は遠慮しておくように返事をした。
「……そうか」
何やら腑に落ちない様子なのは、俺も同じ。
本当なら、一緒に走って欲しい。砂のサイレンススズカと言われるファル子が、芝で走ったとしたら……芝のサイレンススズカさん(なんか奇妙な言い回しだ)と、どちらが早いのだろう。
思考を巡らせていると、スズカさんがトレセン学園のジャージを着て戻って来た。隣にいるテイオー、そして宝塚記念を制したナイスネイチャ。デビュー前だが、同年代の実力者として名を馳せているエイシンフラッシュ。
錚々たる顔ぶれを見て、周囲が放っておくわけがない。気が付けば、グラウンドには人だかりが出来て注目を集めてしまっていた。
「トレーナー、合図よろしく~!」
楽し気に手を振るテイオー。スズカさんや他の二人にも、準備が出来ているのか目で確認を取る。
全員が頷いたのを見定めると、綺麗にスタートラインに並んだ4人へ向けて俺はスタートの掛け声を出した。
地面が揺れ、風が舞う。遠く離れていても、つむじ風を受けるほど素晴らしいダッシュが炸裂し、模擬レースは始まった。
相変わらず、異次元の逃げを見せるスズカさんが影すら踏ませぬ展開を作り、最終コーナーでほんのわずかに追い上げてきたテイオーを見て、嬉しそうに笑うと。誰も居ない景色を独り占めするかのよう、再加速して追い上げて、そのまま一着でゴールインしてしまった。
「くあ~~! 負けたぁ! くやし~~~~!!」
「テイオー、走り方変わったわね。綺麗なフォームは相変わらずだけど、スパートの力強さがまるで別人みたいだったわ」
「はぁ……はぁ……。これが……サイレンススズカさん……。」
「常識外れすぎでしょ……なに、逃げてから差すって……絶対おかしいじゃん!」
『うまぴょい』で強くなったネイチャも、まだまだ伸びしろがあるとはいえ末脚の鋭さならシニア級に引けを取らないフラッシュも。何バ身差だったのかわからないほど、圧巻の勝利でレースは終わった。
他に類を見ない絶対的な走りは、観客を魅了する。周囲の人たちは、大歓声を上げてその結果を称賛した。
「スズカ! もっかい! もう一回やろ! 次はぜーーったい勝つから!」
「ええ。良いわよ」
「……フラッシュさん、どうする?」
「予定にはない行動ですが……。個別でトレーニングするより、遥かに効果は大きいと理解できました。トレーナーさん達が仰るように、目標として捉えて走ることは、よりよい効率が期待できると思います。」
「だよねぇ……。負けっぱなしは、やっぱ良くないもんねぇ」
かつて、スズカさんの走りは他者を絶望に叩き落としてしまうことがあった。常識外れの、完成されたレース展開は、越えられない壁として立ちはだかり、希望を持った選手を容赦なく突き落としていく。
それについて悩んでいたこともあったそうだが……。いつも傍で支えてくれた先輩や、それでも背を追う後輩ウマ娘達によって立ち直り、今のように周囲を魅了する存在となったのだ。
「……」
楽しそうに、嬉しそうに。たくさんの声を浴びて、みんなが走っている。
物憂げに、悲しそうに。俺の横で、ぽつんと一人。スマートファルコンは、そんな輝くウマ娘達を見つめている。
「……やっぱり、凄いなぁ。スズカちゃん……」
色々と思うことはある。キミの考えていることも、なんとなく伝わる。
だからこそ……新しい一歩は、絶対に不可欠だ。
二度目の模擬レースも、変わらない結果が下ったことに安堵と驚愕を同時に感じつつ。先輩達に礼を言って、今日のトレーニングはお開きとした。
・・・。
「天皇賞、春秋連覇おめでとうございます、トウカイテイオーさん。今日も素晴らしい走りでした。有馬記念も、このままの勢いで勝ちあがるおつもりでしょうか?」
「もっちろん! 目指すは連覇! ボクは最強無敵のウマ娘だからね!」
「先日の京都大賞典では、メジロマックイーンさんは復帰後初出走にも関わらず一着でした。それについては、いかがでしょう?」
「まぁ、マックイーンなら当然って感じかな。すっかり本調子みたいで、無駄に心配しちゃったよ~」
「ははは。二度目のTM対決、我々も楽しみにしています!」
「うん。みんな、期待しててね! 勝つのはボクだから!」
嬉しそうにインタビューを終えたテイオーが、楽屋へと向かっていった。これからウイニングライブの準備を行うためだ。
惜しくも、半バ身届かなかったネイチャの次のインタビューが始まる。悔しそうに感想を述べていく姿を見ると、3着でどこか満足していた彼女は、もう居ないのだと安心した。
そんな二人を、楽屋に見送ってからのこと。
「好井さん、どこに行くの?」
日の堕ちた時間帯、俺はスマートファルコンと二人で廊下を歩いていた。東京レース場の、裏側の控室……を通り過ぎていったその先。
すれ違うスタッフの人たちに挨拶をしながら、忙しそうに機材を抱えたり連絡をしあう人を尻目に、困惑するファル子を連れて進む。
「キミに見せたい景色があるんだ」
「え……?」
まるでプロポーズでもこれからするかのようなセリフだな。ちょっと恥ずかしい。照れを、頬を掻くことで誤魔化しながら、視線は真っすぐ予定の場所へ向かい続ける。
まだ暗い足元に注意しながら、小さな階段を上った先。
目的地はそこ……東京レース場のウイニングライブのステージだ。
あと1時間もしないうちに、ここは華やかなライブ会場へと変わる。レースを見ていた観客の人たちが、うっすらと確認できる。今日はテイオーの天皇賞春秋連覇の期待もあって、客入りはかなりのものだった。
ふと後ろを振り向く。付いてきていると思ったスマートファルコンは、先ほど俺が使った階段の手前で止まっていた。
「……ファル子」
「……好井さん、ファル子。そこには行けないよ」
無理に作った笑顔を向けて、立ち尽くすファル子。
皐月賞で大敗を喫し、芝への未練を断ち切った時から。きっと彼女は、もう『憧れる』ことをやめたのだろう。自分には自分だけの道がある。それを磨いて、ダートという舞台で新しい時代を作るのだ、と。
「一つ聞いていいかな」
「なぁに?」
「行けない、のか。行きたくない、のか。本当はどっちなんだい?」
「……それ……は……」
たくさんの葛藤があったのも知っている。最初は河原で始めた小さなライブも、今は大井レース場を満席に出来るほどの集客効果になった。
だけど……。大井レース場の収容人数は6万人ほど。大してこの東京レース場は19万人。倍どころではない箱の大きさだ。どれだけファル子が頑張っても、越えられない限界値の差が出てしまっている。
毎年全く別の人が来てくれたとしても、3年かかる客の足取りを、東京レース場は一度で終わらせることだって可能。
それほど、ダートと芝では世間の認知度に格差があるのだ。
「ちょっとだけ。ごめんな、ファル子」
「え? あ……」
戸惑っている彼女を、俺は強引に手を引いてステージへと上げた。抵抗されれば、俺如きでは決して動かせないウマ娘の身体は、驚くほどスムーズに動く。
たどたどしい脚取りで、目を伏せていたファル子は俺が手を離すと、そのまま固まった。
「見て見なよ。ここからの景色」
「……」
言われて、止まって。心の中での何度かの葛藤を繰り広げたであろうファル子は、俺の言葉から少し間を置いて、ようやく顔を上げた。
遠くで騒めくたくさんの観衆。巨大なスピーカーのセット、たくさんのステージライト。大井レース場ではお目にかかれない、広大なメインステージ。これらの全てが、一体となって華やかで輝かしいライブを作るのだ。
「今見に来ているお客さん、全員がこれからペンライトを持って、勝ったウマ娘を祝福するんだ。今日は何人だったかな……15万人ぐらいだったと思うけど。それが、みーんな。テイオー達への声援になるんだぜ。凄いよな。」
「15……万……!」
「去年テイオーが勝った時の有馬で16万。今年はマックイーンも出走するなら、同じくらい……いや、下手すると中山レース場、収容限界の17万に達するかもしれない」
「そんなにお客さんが来てくれるんだ……。知ってたけど、改めて凄い数だね」
「だよな。勝つのは史上最強のステイヤーか、奇跡の帝王か……。担当って部分を離れてみても、気になる一戦だよ」
「……」
「けど。俺は、その中山17万人の視線を全て。スマートファルコンに浴びせたい」
「え……」
こんな悲しそうで寂しそうな彼女じゃない。
いつもしているみたいに、皆に元気を与える笑顔でキラキラした、最高に可愛いウマドルとして。年末の大一番でステージの真ん中に立って欲しい。
「夢を諦めたウマ娘が、無敵と最強を『うまぴょい』でうち破り、新しい伝説……そう、『うまぴょい伝説』を作るんだ。こんな凄いストーリー、他にないだろ?」
「好井さん……」
スマートファルコンは、再び沈黙した。だが、それは単なる葛藤ではなく。何か伝えたい言葉を探す時間だと察知した俺は、口をつぐんで待つ。思うことがあるなら、全て吐き出して欲しい。夢を叶える舞台でなら、少しは背中を押してくれるだろうと踏んでいたのだが……。俺の願望は、どうやら果たされたようだ。
「私、追いかけてくれた皆が大好きなんだ。その人たちを裏切るようなことは絶対にしたくないの」
「うん」
「……でも。でもね。それでも……あはは。ダメだね、私。今、好井さんの言葉を聞いて想像しちゃったんだ。ファル子にだけ照らされるライト、ファル子だけに向けられたマイク、カメラ。それが、ここにいるたっくさんの人全員に届けられるなんて。……考えるだけで……」
「ワクワクしちゃうよな」
「……うん」
震える肩に手を置いて、俺は続ける。
「それで良いんだよ。希望や夢を、笑顔を届けるのがキミの夢なんだろう。走って勝つことと同じくらい、大事なキミ自身の本能だ。ウマ娘として、従わない理由はない。……そして、俺とならその
「……うん!」
「伝説の体現者として、キミ以上の適任はやっぱり居ない。ファル子、行こう! 俺と一緒に、栄光のセンターウマドルとしての道を!」
「うんっ☆ ファル子、頑張っちゃう! ありがとう、好井さん!」
いつもの元気が戻り、俺も安堵する。
それから照れたように、今までの拒絶に対する心情を吐露してくれた。
「ホントはね。怖かっただけなの。だって、今までの私と全部違う私になっちゃうでしょ? ファンの人もそうだけど、私自身も変わっちゃうなら……それは、本当にファル子なのかな~って」
「前にも言ったろ。どこに居ても、どこであっても。キミは輝くウマドル、スマートファルコンでしかないよ。不安なら俺達がついてる。だから……」
「好井さん……」
肩に置いた手を、ファル子の小さな手に滑らせていく。緊張なのか、興奮なのか。しっとりと手底は濡れて冷たかった。
「ファル子、初めてだから……その……上手くできないかもしれないけど……」
暗がりでもはっきりわかる。『うぴうぴ』とは違う、だけど熱っぽい眼差し。自然と互いの鼓動が高まっていく。
「や、優しくしてくれると……嬉しい……な……♡」
可愛らしい自衛の言葉と共に、スマートファルコンは俺の方へ一歩進んだ。
そして……。
「いや、ここでやるのは流石にマズイからな?」
「へ? あ……わ、わかってるよぅ!」