「……よし、こんなもんか!」
意気揚々とキーボードを叩き、俺は柄にもなく声を出して仕事に区切りをつけた。練習メニューに、報告書、レースの日程調整、インタビューの段取り。活躍するウマ娘達にとって大事なことを、一気にまとめてしまった。
普段からそこまで仕事に詰まるタイプではないが、心残りがあるとずっと引っかかって集中できなくなってしまう。俺にとっては『うまぴょい』がそうだった。碌に調べものも出来ず、集中を欠いたまま頭の片隅にある悩みに支配された状態で、トレーニングへ向かう所だった。テイオーには助けられてしまったな。
グッと伸びをして、タブレットにデータを落とし込む。これで準備は万全だ。『うまぴょい』をご教授頂く用意は完璧ってなもんよ。
「おっ」
ノックが鳴った。時計を見ると、授業が全て完了した頃合いである。と、なれば訪問者は自ずと限られてくる。担当ウマ娘の誰かか、同職の誰かか。しかし、俺には心当たりがある。約束を交わした子がいるから。
「どうぞ~」
気の抜けた声を戸に向かって発する。果たして、そこに居たのはトウカイテイオーだった。制服姿ではなくジャージ姿なのは、この後のトレーニングに向けてだろう。練習が大好きってわけではないらしいが、勝つための貪欲さにはいつも頭が下がる。
さっさとこの意味不明な案件を終わらせて、ターフで思い切り走らせてあげよう。
「……」
「? どうした、テイオー? 具合悪いのか? 腹でも痛いのか?」
昼間の様子と明らかに違う。なにやら
「ううん。大丈夫」
「お、おお。そうか」
やっぱり、何か変だ。レスポンスにキレがない。さては緊張してるのだろうか。
今からご教授頂くのは、どうやら割かし扱いに注意しなくてはならない『うまぴょい』というものだからな。
…………冷静に考えて、いくら仲が良いとはいえ。ウマ娘に教えてもらっていいことなのだろうか。急に頭が冷えて不安になる。
「ねえ、トレーナー。こっち来てよ」
いつも寝転がってるソファーに座り、隣の空きスペースを叩くテイオー。
湿っぽい言い方に、やはり悪手だったのかもしれないと警笛が鳴る。だが、ここまでの覚悟をさせてしまった以上、やっぱナシ。というのは、彼女の尊厳を傷つけることになるのでは?
焦る胸の内を察してか、テイオーはこちらをじっと見つめる。
嘘だろ、なんだその見たことない大人の
「……トレーナー?」
「あ、ああ。すまん、今行くよ」
書類を片付けて、机に手をかけつつ立ち上がる。
視線の先でちょこんと、背もたれに体重を預けないキチンとした姿勢の小さな体を見ながら、俺の中の何かが強烈に叫び出した。
危険だぞ、ソウマ。これ以上の接近はダメだ!
バトル漫画のような独白が俺の心の声と成り、響く。
何が危険なんだ? テイオーは俺の担当。俺自身は一人っ子だが、もし居るなら妹のような存在。苦楽を共にしてきたパートナーの一人。何も恐れることはない。怖さを覚える要素が一体どこにある?
不思議な自問を一笑に付す。大丈夫。大丈夫だから。言い聞かせながら、足を前に出す。
「……なあ、テイオー」
「なに?」
何故だか本能が逆らっている。動こうとしない足に問いかけてみても、答えはない。
だから、今のうちに聞くことにした。
「……『うまぴょい』って、なんなんだ?」
「……それをこれから教えてあげるんだってば。約束したでしょ?」
「そうだが……」
「今更ビビってんの~、トレーナー?」
茶化すように笑っているが、余裕がなさそうに見える。
やはり、感じ取った危機は間違いないようだ。テイオーがこんな顔をするなんて普通じゃない。
俺の知らない『うまぴょい』は、軽々しいモノではないのだ。
「ビビってるわけじゃない。ただ……」
「昼間、言ってたよね。ボクに教わるなら、それ以上のことはない。って」
「……言ったか?」
「言った」
とぼけようとしたが、退路は塞がれていた。
言い訳を考えようと、顔を地面に落としていたから気付かなかった。
突然、前方から俺の声が聞こえてきたのだから。
《お前に『うまぴょい』のことを教えてもらえるなら、そんな良いことはない!》
「……ああ、それ以上のことはない。じゃなくて、そんな良いことはない。だったね。間違えちゃった」
体中の汗腺が一気に開く思いだった。
慌てて顔を上げると、テイオーの手にはスマートフォンがあり。録音していた俺との会話を、当たり前の様に流している。いつの間に……と振り返るが、そういえば不自然なほど良いタイミングで彼女のスマホは音を鳴らしていた。あれは着信ではなく……録音完了の音だったのか。
「テイ……オー……?」
「なに? トレーナー。この通り、するんでしょ? ボクと『うまぴょい』をさ」
「す、するとは言ってないだろ!?」
「あははは。そんなさ~、内容教えてもらっておいて、何もせず終わるわけないじゃん」
「終わるわけないの!?」
「普通の男女なら、当たり前だよ」
「普通の男女なら当たり前なの!?」
次々に押し寄せる新情報に、オウム返しをすることでしか反応が取れない。
くそ……なんだ。一体、『うまぴょい』とはなんなんだ……!? っていうか、俺はさておき、普通の男女の『女』は人間のことなのか、ウマ娘のことなのか、どっちなんだよ。
理解できない状況と、今まで当然のように普通の師弟関係として接してきたテイオーが、まるで別人に見えるというギャップで、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「まったく、トレーナーときたら鈍いんだからさ~……。ここまで聞いておいて、何となく察しはついてるんじゃないの?」
ついてねえよ!
ツッコミを入れる前に、テイオーが
しまった。
西日が眩しいから、カーテンはすべて閉じている。そしてここは2階……。窓は完全に逃げ場としての機能を成していない。
逃走経路はただ一つ。入り口であり出口である、扉が一つだ。
しかし……ああ、ちくしょう。やっぱりか。鍵が閉まっている。内鍵だから、タブをちょいと捻るだけでいいんだが、その動作一つすら惜しい気もする。
だって、ゆらりと歩き出すテイオーの威圧感は、並のウマ娘が出すものではなかったから。
「なあ、もう一度考え直さないか、テイオー?」
俺の足は震えていた。
何に怯えて、何が怖いのかすらわからない。ただ、今いる目の前の少女が、間違いなくウマ娘ではなく……捕食者のような闘気を放っているのが理由なのだろう。俺は一体何をされるんだ。
「なんで? ボクは最初からそのつもりだったんだよ?
トレーナーの方から、ボクに『うまぴょい』を教えて、って迫ったんじゃん。
まさか、裏切るつもりなの?」
「迫ってないし、裏切るも何も、そういう約束じゃなかっただろ~~!!」
半泣きになりながら懸命に抗議する。
いつの間にか俺はじりじりと壁際に追い詰められそうになっていた。
テイオーの小さな足が、一回地面と音を奏でるごとに俺の大きな足が、情けなく一歩下がってしまう。ものの数回しか行われないやりとりだったのに、すっかり窮地に追いやられてしまっていた。
「……トレーナー、ボクのこと……大切じゃないの?」
ふいに現れる年相応の表情。子供が大人との約束を破られてしまった時に見せる、駄々をこねるようなズルい顔。鬼気迫る様子と打って変わった弱みに、俺の良心がズキンと痛む。
「そんなつもりは……。ただ、俺はお前のことを思ってだな」
「ボクのことを本当に思ってくれてるなら……良い、ってことだよね?」
「な、なにが?」
「とぼけなくっていいよ。そうだよね、トレーナーだって何も知らないんだもん。怖がるのは仕方ないことだよね」
ちくしょー! なんなんだよ!
俺はなんで『うまぴょい』とやらで、こんな追い詰められなくっちゃあならないんだ!
再びテイオーが歩み寄る。
ダメだ。もう無理だ。
普通に逃げるんじゃ、絶対に捕まる。この距離は、テイオーの領域に入ってしまっている。
何か、策を弄して強引に退路を開かなくては!
視線を悟られないように、だけど視野を広く周りを見る。いつも使っている部屋だ。大体の位置関係は把握できている。
……だからこそ、絶望的だな。おい。
使えるモノが何もない。机からは距離を置いてしまった。書類の束でも投げつければ、視界を防ぐぐらいは出来たのに。
あるのは、ポケットのスマホか……担当ウマ娘の一人、スーパークリークが活けてくれた黄色い花……確かミモザだったか。それが飾ってある花瓶だけ。
これを投げれば有効な攻撃になるだろうが……。
いくら、いくらこんな危機的状況でも……俺は自分の担当、いやそうでなくても。ウマ娘に向かって、そんなことは出来ない。ケガなんて、絶対にさせたくない。特にテイオーに対しては。
だったらどうする。
絶対使うことのなかった脳内の稼働領域が、フルスロットルで動いている。多分、戦闘用のメモリーなんだろう。ありとあらゆる知識(漫画由来)が前頭葉を駆け巡っているのがわかる。
こういう時は。
大きな声を出して、注意を逸らし。その隙をついて、逃げる。これしかない。
テイオーだって、普通のウマ娘。女の子だ。まだ中等部の!
大人の男が威嚇をして腰が引けないわけがない。
よし、これだ。この作戦でいこう。
「テイオー!!」
「!!」
俺はわざと大きな音を立てながら、強く足を踏み込んだ。発声による萎縮と、急に距離を詰められる恐怖を二重で味わわせるためだ。
大事な担当ウマ娘に、こんなことをするのは気が引けるが……今は仕方ない。
心を鬼にした行動は、間違いなく効果を発揮した。
テイオーの尻尾はピンと張り、どんぐり眼を見開いている。
(よし!)
今しかない。
踏み込んだ足を軸にしながら、俺は一直線に横を駆け抜ける。
「つーかまえた♪」
「え? なっ……!?」
はずだった。
軸足が動かない。俺の脛から下が、万力で掴まれているかのようにピクリともしない。
原因はわかりきっていた。テイオーの細指が、がっしり捕えていたからだ。
何度か離脱を試みようと、全身全霊を用いて動かしてみる。振りかぶった勢いも使ってみるが、全く動かない。
「くそ!!」
遅れて汗が噴き出す。
俺は……俺は今、物凄くマズイんじゃないのか……?
思考がまばらになる。まともな考えが、どんどん闇に溶けていく。
「ダメだよ、トレーナー。そんな不用意に近づいちゃ」
耳に届くのは、聞きなれているはずの高い声。
けど……抑揚が感じられない。おかしいだろ。
ニコリと笑う頬は、赤く染まっているのに。なんで、そんな……冷静を装えるんだよ!?
怯える俺に対し、テイオーは無慈悲に言い放つ。
種としての絶対的な、埋まることのない差を叩きつける言葉を。
「ヒトがウマ娘に敵うわけがないんだからさ」
「あ……ああッ!!」
情けない叫び声が思わず漏れた。
恐怖と葛藤と、もうあの頃には戻れない後悔と。
あらゆる気持ちが、ないまぜになり喉から飛び出る。
その様子がおかしいのか。
テイオーは変わらない笑顔で、そのままそっと、一歩近づいた。
もう、完全に密着している。
鼻水と涙の出る、情けない俺の顔に向かって抗えないほどの力で、優しく強く襟を引っ張りつつ。
「さ、トレーナー……」
耳元で、息を吹きかけるようにつぶやいた。
「ボクと『うまぴょい』……しよ?」
「うわぁああああ!!!!!」
俺はウマ娘に完全敗北した。
ウマピョイ! ウマピョイ!
・・・。
「いいぞ、テイオー! そのまま一気に走り抜けろ!!」
「よぉ~し! いっくよー!!」
柔らかな足首が芝を掴む。体を一瞬だけ沈み込ませ、全身の推進力を爆発的に前進するためだけに利用する。
抉られ宙を舞う土が再び大地に付く頃には、テイオーは既にゴール板を突き破っていた。
手にしたストップウォッチの時間を見る。信じられない時計だ。これなら、レコードすら余裕で超えられるだろう。
「凄いなテイオー。絶好調じゃないか」
「にっしっし! これがテイオー様の実力ぞよ~!」
滴る汗も気にせず、腰に手を当ててピースを作るテイオー。
その速さの秘訣を知る俺は、とても複雑な思いだった。
理事長達の言いつけも空しく、俺はテイオーと『うまだっち』になってしまった。
色々と教え込まれたからわかる。『うまぴょい』をした仲を、そう呼ぶそうだ。
……いや、『うまだっち』ってなんだよ。
どうでもいいことに突っ込んでいる場合ではない。
もし、このことがバレたらどうなるんだろう。俺自身にペナルティがあるのだろうか。
しかし、あの時の理事長の口ぶりでは、校内で行うのが禁止というだけで『うまぴょい』自体は禁止されているわけではない様子だった。
なら、いくらでも誤魔化しは利くだろう。幸い、テイオーと『うまぴょい』をした時は誰にも見つからなかった……と思う。
ああ、しかし俺は……いくらテイオーにハメられたとはいえ、なんてことを……。
頭を抱えていると、ふいに近づいてくる足音があった。
「トレーナーさん、どうかしましたか~?」
心配そうな顔でこちらに来たのは、俺の担当ウマ娘であるスーパークリークだ。
上手に編み込まれた長い艶やかな鹿毛。垂れた優しい瞳、穏やかな口調と上品な仕草。学生なのに、まるで母のような風格を放つ彼女は、世話焼きでもある。
俺の調子が悪そうなところを見て、思わず駆けつけたのだろう。
「すまん、クリーク。大丈夫だよ。ちょっと、古傷がね」
「あら~。そうなんですかぁ。でしたら、何か効きそうなものを……」
「ああ、いや。大丈夫。心配ないよ」
「本当ですか~? トレーナーさん、結構無茶するじゃないですかぁ」
「いつも心配かけて悪いな。でも、本当に大丈夫だから」
これ以上詰め寄られると、ボロが出そうだ。
クリークの優しさを不意にする罪悪感はすさまじいが、下手に知れ渡る方が危険だろう。
「そうですか~。……それにしても、なんだか最近テイオーちゃんの調子、とっても良さそうですね」
「あ、ああ。そうだな」
「……トレーナーさん、テイオーちゃんと何かありました?」
空気が凍りそうだった。
いや、違う。クリークは普通に質問しているだけだ。凍らせているのは俺自身。悟られるな。気付かれるのは……絶対にマズイ。
「なにもないよ。テイオーが速いのはいつものことだろ? 調子の波だって、誰にでもあることだしさ」
「そう……ですよね~。すみません、変なこと聞いてしまって」
「いやいや。クリーク、今は坂路ダッシュ中だったか? メニュー済ませたら、後は自主トレなり帰るなりして構わないからな」
「あら、そうでした。すみません、では練習に戻りますね~」
両手をポンと合わせて、会釈をしてからクリークは走り去っていった。遠ざかる背中に、親切心から来てくれていたことに精一杯の謝罪をしつつ俺はコースへ向き合う。
テイオーの調子は絶好調。これなら本当に……もしかすると、春の天皇賞すらリベンジできるかもしれない。それぐらい飛びぬけた状態。
(これが……『うまぴょい』の力なのか……?)
もし、本当に効果があるなら。悩んでいるウマ娘達を救済することだって、夢じゃない。中堅程度の、ありふれた凡才トレーナーの俺が……。
しかし、脳裏によぎるのは『うまぴょい』の記憶。夕焼け色のトレーナー室で実行された禁忌。冷や汗が顎をつたい、芝に溶ける。頭を振って、その煩悩を虚空へと追いやった。
(ダメだ。いくらなんでも、節操がなさすぎる。こんな、まるでズルのような方法で強くなって、嬉しいわけがないだろう)
「トレーナー! 今のどうだったー!?」
いつの間にかテイオーが、長距離想定コースを回り終えていた。当然のごとく流れ続けていたストップウォッチのタイマーを慌てて止めたふりをしながら、俺は言う。
「おお。良いタイムだったぞ」
「ホント!? やったー! ねえねえ、これならマックイーンに勝てるかな?」
「うーん、相手は最強のステイヤーだからなぁ。でも……」
「でも?」
「……いけるかも、しれないな」
「やっぱり!? よぉし、燃えてきたー! トレーナー、もっかい走ってくるから見ててね!」
「おう!」
普段通りの、いつものテイオー。元気にふるまう様子は、こちらも自然と笑みが零れる。
どんな手段であれ、何か彼女にとって一皮むけたわけだ。走ること、強くなることを求めるウマ娘が、この状況を謳歌しないわけがない。
果たして、間違っているのは俺の方なのか。
力強くターフを駆けるテイオーを見ながら、俺はまた心に闇を落としていた。
――――。
「……」
そんなトレーナーを見つめる物憂げな瞳があった。
スーパークリーク。
自分のことより他者を大事にする彼女は、やせ我慢するトレーナーを見て何を思うのだろうか……。