第三話「相談、うまぴょいのことは先輩に尋ねよ!」
「……」
執務室。学園に所属するトレーナーに宛がわれた、仕事をするための部屋。高性能ではないが仕事には不自由のない周辺機器。作業机と、応接用のソファーにテーブル。ホワイトボードまで置かれた、一人で使うには十分すぎるほど大きな部屋。
トレーナー部屋、と皆が呼ぶこの作業場で、俺は少し呆けていた。
まだまだやらなくちゃならない仕事もあるのに、うまく手に付かない。虚空を見上げて思うことは、夕焼け色に染まったこの場所での記憶。
担当ウマ娘、トウカイテイオーに俺は『うまぴょい』を迫られた。本当は、その実態を探るだけの軽いものだと思っていたのだが。俺はウマ娘というものを、想像するより軽く見てしまっていたのかもしれない。
人間と同じような外見だから、どこか普通の女の子と同じように考えていたのだろう。だが、当たり前の様に人間の出せる身体的な世界記録を、握れば指が付いてしまうほどの細腕で出してしまう。枯れ枝ぐらいの不健康にすら見える足ですら、時速60kmを超えるスパートを生み出す。俺達がどれだけ努力してもたどり着けない神域だ。
だけど……それ以外は、人間と変わらない女の子なんだ。笑うし、泣くし、怒るし、恋もする。そして、思春期らしい悩みも抱えている。興味本位な所も同じなんだ。
「はぁあ~~……」
それぐらい、わかってたつもりなんだけどなぁ……。
後悔と自責の念が、『うまだっち』となってしまった俺の心に圧し掛かる。
「トレーナーさん、お疲れですね」
優し気な声の中にある憂いに気付き、俺は思わず身体を持ち上げる。湯気の立つ湯呑越しには、スーパークリークが声色と同じ表情でこちらを見ていた。
そうだった、手隙になったから簡単な仕事を手伝いましょうか、と来てくれてたんだ。失念していた。ふと視線を戸棚にやると、頼んでいた書類整理は完璧に終わせてくれたようだ。
「ああ。すまん、クリーク。いただくよ」
「……最近、ずっとそんな調子ですね」
「そうか?」
「はい~。何かお悩みなんですかぁ? 私で良かったら、相談に乗りますよ~?」
飲みかけたお茶が、気管に入りかける。次の分を思い切り押し込むことで、動揺していることを悟られないようにした。
味わうフリをしながら、素晴らしい適温と濃さで入れられた茶をゆっくり嚥下して答える。
「気遣いありがとな。別に悩みがあるとか、そういうわけじゃないんだよ」
「……前にも同じようなこと言ってましたよね、トレーナーさん」
「そうだっけ?」
「忘れっぽいのも、きっとそれが原因ですよ~。……それとも、私になんて話したくないことなんですか?」
頼られることで己の存在価値を見出すという人が居る。自分に自信がないから、他者の評価でしか自己を測れないらしい。クリークは、他の人が幸せそうにする姿が好きで世話を焼きたがるだけなのだが……。今の姿を見ると、少し不安にもなる。
「違う、違うんだクリーク。クリークが力不足ってわけじゃなくて……」
思うように言葉が出てこない自分が悔しい。ありのままを話しても良いが、それはそれでまた新しい問題を生み出す可能性もある。だが、このままクリークに心配をかけ続けるのも心痛だ。
どうすれば……。
「……」
「………………クリーク。ごめんな、嘘をついて」
涙目で訴えてくる視線に勝てず、俺は向き合うことに決める。
「悩みがあるのは本当なんだ。でも、それを君たちに話すのは相応しくないってだけで。俺個人の問題っていうかさ……」
「そうなんですね……」
「でも、解決したいと思ってる。だけど、上手くまとまらなくて……。どうしたものか、って暇があれば考えちゃうんだ」
「なるほど~……。よくはわからないですけど……そうですねぇ。でしたら、例えば同じ悩みを持っていそうな方に相談してみたらどうでしょうか?」
「同じ悩み……?」
「はい~。私たちに話せないなら、一人で抱え込んでいても解決するのは難しいと思いますよ~?」
しかし、この『うまぴょい』問題について相談できる相手なんて学園内には居ない。女性トレーナーしか在籍していないし、彼女らに話せば……多分、桐生院さんと同等、いやもっと酷い反応を取られるだろう。今になって思うが、不勉強とはいえとんでもないことを聞いてしまったものだ。
しかし、男性一人というのは中々難しいものだな。特に不自由はないし、仕事の上では支障なくやれているのだが……。こういう泣きつく先が限定されている時ばかりは、困ってしまう。
だが……。
ああ、そうか。別に、学園内にこだわる必要はない。俺には心当たりのある人がいるじゃないか。
「ありがとうクリーク。ちょっとだけ光明が見えたよ」
「お役に立てたならよかったです~」
少しでも彼女の不安を和らげられたのなら良かった。にこやかな笑顔と、当たり前のように撫でられる頭。最初は驚いたが、随分と慣れたものだ。気にせずに俺はスマートフォンを取り出し、ある人へ連絡を取った。少し経つと返信がきて、明日の夜には会ってくれるそうだ。良かった。
次の日。ウマ娘達とのトレーニングは普段より早めに切り上げ、トレーナースーツそのままの姿で俺は繁華街の方へと歩き出した。
「よう、ソウマ。待たせたな」
「お疲れ様です、先輩!」
軽く会釈をしながら、待機中に持っていたスマホをしまう。
気さくに手を挙げながら、一人の男性がポケットに手を突っ込みつつやってきた。
この人は、昨年度ドリームトロフィーリーグへ、相棒のウマ娘『サイレンススズカ』と共に行ってしまった俺の直属の先輩だ。
黄色いシャツにベスト、口の寂しさを紛らわすためにいつも飴を咥えた姿。後ろで束ねた髪に、片方だけ刈上げたヘアスタイルは何も変わっていなくて良かった。胸のトレーナーバッジは流石にオフだから外している。
「にしても珍しいな、お前の方から飲みに誘ってくるなんてよ」
先輩いきつけのバーに入る。いつもはカウンターだが、話す内容が内容なので今日は少し離れたテーブル席。バーチェアで、足を組んだリラックスした姿勢の先輩が言う。
「ええ、偶には良いかなと」
「しかし一年振りか? 全然変わってないな、お前。安心したぜ」
カクテルを口にしながら、嬉しいことを言われる。先輩が居なくなり不安もあった。敬意から真似て伸ばしてた髭も、最初は笑われたが今は自然に見えるらしい。
「どうですか、そっちは」
「あぁ、大変だよ。トゥインクル・シリーズとは全然ちげぇわ。周りはホント、怪物ばっかだからな」
ドリームトロフィーリーグは、トゥインクル・シリーズの更に上のリーグ。好成績を収めてたウマ娘も、そちらでは中々うだつが上がらない、なんてことはよくある話。
俺の知る限り、スズカさんはトゥインクル・シリーズでは本当に敵なしと呼べるほどの走者だった。一時期は勝つのは当たり前、皆が求めるのはレースのタイムと後続と何バ身差の勝利なのか、と言うほど。そんなウマ娘ですら、埋もれてしまうとは。魔境なんだな。
「……でもよ、アイツ。それでも毎日走ってるんだよ。昔、GⅠレースで15着だった時より、もっとひでぇ結果なこともあったのにな。ずっとずっと、前だけ向いて走ってんだ」
「凄いなぁ。やっぱ、スズカさんは尊敬できる、素晴らしいウマ娘です」
天皇賞秋で、大けがをしてしまったこともあった。もう走れないと言われるほどの損傷でも、諦めずにリハビリを続けて、見事に復帰。その後、国内では敵なし。海外でも好成績を収めたから、次のステージにあがった。
知らない人からすれば、順当に見えるかもしれない。才能があるから当然、と鼻で笑う人もいるかもしれない。だけど、俺は先輩とスズカさんを間近で見てきたからわかる。この人たちは、運に見放されていたとしても、たゆまぬ努力で栄光を勝ち取っているのだ。
「お前にも助けてもらったしな。今更になっちまったが、色々とありがとよ」
「いえいえそんな。俺は先輩たちの背中を支えただけですよ」
「でも、その支えがなければきっとオレたちは挫けてた。感謝してるぜ」
「……っす」
照れくさくて、上手に返事が出来ない。小さなカクテルグラスも、まだ半分しか空けてないのに。目の前の人は、既に2杯目に突入していた。酒の進みが良い時は、心身ともに順調な時だ。本当に、大変な中でも上手くやれているんだな。
……羨ましい。
「……で、今日はどうしたんだ?」
「え?」
「お前、下戸だろ。普段はノンアルコールしか飲まないくせに、慣れないことするんじゃねえよ」
「……すみません」
言いながら、先輩はカクテルのおかわりとミネラルウォーターを頼んでくれた。気遣いに感謝しながら、冷えた透明な液体の注がれたグラスが机に置かれる。
顔に手をやりながら、ゆっくりと水を飲んでいった。いかん、やっぱり酔ってるな。
「……先輩」
「ん?」
「……スズカさんと、上手くやれてますか?」
「あん? まあ、ほどほどにな」
「例えば?」
「んだよ、わざわざ話すことじゃねーだろ。」
「聞かせてくださいよぉ~! 俺もこれから恥ずかしいこと話すんですから、先に先輩が言ってくれなきゃ不公平です!」
「意味わかんねーよ……」
会話が終わり、無言が俺達との間に流れていく。ジャズミュージックと、カウンター席で交わされている男女の会話。苦痛ではない虚無の時間がしばし流れると、3杯目に手をかけながら先輩が口を開いた。
「スズカがな」
「……はい」
「トレーニングやレースに向けて、すげえ集中してる時があるんだけどよ」
「はい」
「そういう時、ちょっと近寄りがたいところあるだろ?」
「話したらダメな雰囲気出してますよね」
「だけどな、練習の合間とか、ゲートに入る前とか。前しか見てないはずなのに……ふと、遠くで目が合うんだよ」
「はい」
「……そん時、決まってな。嬉しそうに笑ってくれるんだ。それがまあ、なんつーか……。悪くねえな、って」
「………………先輩」
「ん?」
「めっちゃノロケてるじゃないですか!!」
「お前が話せっつったんだろ!?」
アルコールのせいではない、赤い顔をした先輩を思い切り笑ってやる。わざわざ意を決して話してくれたのに、こんな反応をされるのが心外なのか、ぶつくさと小声で文句を言ってくる。
こんなやりとりも、懐かしくて。学園のトレーナー達は凄く良い人ばかりで信頼もしているが、同性でないと出来ない話もあるなと実感する。
緊張が解れたことで、俺もようやく決心がついた。本題に入ろう。
「先輩、あの」
「なんだ? 続きとか聞くんじゃねーぞ」
ぶっきらぼうな返事をしてくる顔を、俺はやや蕩けた目でしっかり見て言う。
「……『うまぴょい』ってしました?」
「はぁ!!??」
広くない室内に響き渡る声。周囲の視線が一気に集まる。机に肘をかけて楽な姿勢だった先輩が、一度ずり落ちてから思い切り身を乗り出してきた。
「バカなこと口にすんじゃねーよ! お前、まさかそれが聞きたくて呼んだのか?」
顔を近づけ、急に小声で話し始める。酒の帯びた呼気も構わず、俺は真剣な表情を作って頷きつつ言った。
「先輩が、どうしてるのか知りたくて」
「あのなぁ……そういうのは、普通他人に聞くもんじゃねーぞ?」
「だとは思うんですが……」
「…………まさか、お前……」
「……実は先日……その……テイオーと……」
「…………したのか……『うまぴょい』……」
視線を落としながら肯定した。
俺は包み隠さず、その行程を話す。そもそも『うまぴょい』を知らなかったこと、知ろうとした結果『うまだっち』になってしまったこと。自分の浅学さを呪い、同時に芽生えたウマ娘たちへの希望にとなる事実について、悩んでいること。肝心の部分は流石に話せないが、それ以外は包み隠さず心情を吐露した。
「そうか……。いや、まさかお前がなぁ……」
「おかしいですか?」
「いや、おかしいとは思わないが……。オレも話したことなかったし、話そうとも思わなかったことだから……意外でな」
「そうですよ! そもそも、なんで教えてくれなかったんですか!」
「お前なぁ。なんで『うまぴょい』が『噂』なのか、わかってんのか?」
「……そりゃ……なんとなくは」
実体験したからわかる。確かに、例えばまともなトレーニングメニューに織り込もうものなら、とんでもない批判を浴びるだろう。トレーナーとして、いや人間としての人格を疑われるかもしれない。
防衛措置の一種として、実在はするが公にしない。飽くまで、『あるかも』の範疇に留めようとしている全体の風潮があるのだ。
「わざわざ教えたりするもんでもねえから、言わなかっただけだよ。悪かったな」
「いえ……。すみません、恨んでるとか、そういうわけじゃないんですけど……」
上手く言葉が繋がらない。純粋に、どう向き合っていけばいいかがわからないだけで。
「トレーニングとは違う方向性での、身体能力の底上げ。特に顕著なのが、克服できないと考えられてた欠点を補えるところか。……まあ、ウマ娘達側からすりゃ喉から手が出るほど、やってみたいことだよな。同性より異性の方が効果があるし、俺達男のトレーナーが注目されちまうのは、仕方ないことなんだが」
「でも、それが本当に正しいのか……俺にはわからないんです」
「正しい正しくないって枠に収める必要もねえだろ。したい奴はする、しない奴はしない。それだけだ。明確に禁止されてるわけでもないしな」
「……」
「難しく考えすぎなんだって、お前は。学園内でなら流石には節度を持て、って言いたくなるが……まあ、それ以外なら自由でいいんじゃないのか?」
空になったカクテルを下げてもらい。先輩は一旦休憩をした。机の端にあったキャンディを掴み、口の放り入れる。メニューにない製品だが、常連だからと席に着くと勝手に用意してくれたものだ。
コロコロと味わいつつ、偶にスマホをいじる姿を見て、俺はもう一度意を決して聞く。
「俺、これからどうしたら良いんでしょう」
「……」
困ったようにため息が先輩の口から漏れた。
「性質上、『うまぴょい』一回ぐらいじゃ意味なかったろ? 何回も重ねて効果が出てきたら、そこで一旦距離を置け。持続性はないから、また求めてくるだろう……。なら、後はスケジュール管理だな。時と場合を考えれば、気にするもんじゃねえって。必要かどうかは、その都度決めればいいさ」
「なるほ……」
ん? なんだ。おかしなことを言ったような。
素晴らしいアドバイスだと頷きかけた俺は、違和感の正体を探る。
……一回じゃ意味がない?
「え、先輩。俺、この前……その、初めてだったんですけど」
「ああ」
「テイオー、絶好調になってましたよ。そんな得意じゃない長距離も良いタイム出してましたし。効果あったと思うんですが……」
「は?」
溶けかけた飴が地面に転がる。触っていたスマホが机の上に落ちる。
俺は普通のことを言ったつもりなのに、まるで怪奇現象でも目の当たりにしたかのような顔をされた。
「待て待て。嘘だろ、初めてでか?」
「え、ええ」
「オレとスズカでも、効果出るまで3回は必要だったぞ」
「そ、そうなんですか……? というか、やっぱ先輩達もしてるですね、『うまぴょい』」
「今はいいだろ、そこは! ……ってことはお前、一発で『すきだっち』出来たのか?」
「『すきだっち』……ああ、これですか」
「うわ、気持ち悪! なんだその滑らかさ!? というか、こんなとこでやるな!」
「すみません……」
「マジかよ……オレなんて、何回スズカに怒られたかわかんねえのに……」
なんだかよくわからないが、先輩は自信を失ってしまったそうだ。俺にとっては、テイオーに教わりながら色々やってみせただけなのに。
「……しかし……。そうか。なあ、ソウマ。もしかしたらなんだが……お前、結構ヤバいかもしれないぞ」
「えっ! なんでですか!?」
今までは楽観視してくれて、心配もないよと言ってくれてたのに。一転して不安を煽る言葉に、アルコールが途端に抜ける思いをする。
「多分だが……お前は『うまぴょい』の天才だ。複数回、重ねなくても効果が出せる奴なんて聞いたことねえ。それに、さっきのでわかったがクオリティも高い。となれば……真相を知ったウマ娘達が、こぞって求める可能性もある。今まで以上に、学園生活に気を付ける必要があるな」
「そ、そんな……」
世界一不名誉な天才認定されちゃったよ……。
俺はただ、『うまぴょい』との向き合い方が知りたかっただけなのに……。真逆の答えが待っていたなんて。ますます、トレーナーとしてどうすればいいのかわからなくなってしまう。
頭を抱えていると、先ほど机に滑り落ちた先輩のスマホが振動した。
画面にはスズカさんからのメッセージが映っている。
《もう遅いですけど、飲み過ぎてませんか?》
時計を見ると、確かに良い時間だった。明日も仕事があるし、そろそろ切り上げるべきだろうか。
けど、結局問題は解決していない。もう少し何か後押しが欲しいものだが……。
悩む合間に、スズカさんは連続でメッセージを送りつけていた。先輩が手に取る間もなく、振動が続く。相変わらず、何もかも速いウマ娘さんだな。
《ソウマさん、お元気でしたか?
私の方は、楽しくやってると伝えておいてください》
離れていても、こうして気にかけてくれるのは嬉しいなぁ。さっきの話を聞いた限りじゃ、スズカさん達も相当辛い思いをしているだろうに。既にお酒も飲める年齢なのだが、今日は気を遣って二人きりにしてくれた優しさにも感謝している。また別の機会に同席出来たらいいな。
俺への言葉があるのを見ると、先輩は画面をそのまま見せて続けてくれた。
《テイオーから、最近嬉しいことがあったって報告がありました。ソウマさん、上手にやれてるみたいで安心ですね》
うぅ……スズカさん……。
全然お役に立てた記憶はないし、なんならみっとも無い姿ばかり見られてたと思う。こんな言葉も染み入るぜ……。
《ところで。その。近々、大きなレースがありますよね。なので、そろそろ……》
ん?
高速で飛んできていたメッセージが、少しだけ遅くなる。
何かを察知した先輩が、スマホを手にしようとした時だった。
振動が先に鳴り、画面には……。
《ぴょい、したいです。早く帰ってきてね》
「うぉぉおい!?」
慌ててスマホを取り上げるが、俺の網膜にはしっかり文字は刻まれていた。
「先輩……」
「な、なんだよ!? 別に、オレがその……あー……」
「……『ぴょい』て」
「うるせー! なんだって良いだろ、個人の話なんだから!」
耳まで赤くした成人男性の姿を、俺は微笑まし気に見る。仲良いんだな、ホントに。
結局、解決しかけた問題は更に深い闇へ沈みそうな事態だとわかってしまった。
だが、帰りを待っているヒトが居る方を、これ以上焦らすわけにはいくまい。お開きにしよう。
「話も途中なのに悪いな」
「いえ、進展はありましたから。良くない方向に、ですけど」
「はは……悪いな。アドバイスなら、いつでもするから。何でも聞けよ」
懐の財布からカードを取り出して、二人分のお会計を済まそうとする先輩を俺は制する。
「今日は俺に出させてくださいよ。誘ったの俺ですし」
「ばーか。気にすんなよ。後輩らしく甘えとけ」
「いえ……というかそれ。スズカさんのカードでしょ。どーせ給料日前で金欠だから、持たされたんじゃないですか?」
「うっ……!」
「いくらドリームトロフィーリーグで稼いでるとはいえ、お二人の共有財産を崩すのは悪いですって」
「…………すまん」
「いえいえ。いい加減先輩もお金の取り扱い、ちゃんとしてくださいよ。スズカさんに迷惑かけちゃダメですよ」
「オレの保護者か、お前は!」
「ははは。スズカさんには敵いませんって」
他愛ないやりとりをしてから、手を振り先輩と別れる。
気が楽になったと同時に、重さが胸の奥にのしかかってきた。
……結局どうしたら、いいんだろうか。
普通なら、適度な距離感と節度を保ち、学生としては違反にならない程度に『うまぴょい』するなら問題はないのだろう。
だが、俺の隠された才能がもしも露呈したら。テイオーは、学内の噂をこっそり集めたりするほど顔も広い。本人には、絶対公言しないよう約束していたが口を滑らせない確証があるかと言えば……絶対とは言い切れないだろう。
「……」
「……さん」
「…………」
「トレーナーさん」
「…………うお!? く、クリーク!? いつの間に!?」
「さっきからずっと呼んでましたよ~?」
いつの間にか、クリークが心配そうに顔を覗き込んでいた。思わず飛びのいてしまい、悪意がある行動でないことを慌てて訂正し謝罪する。そうだった、今はトレーニング中だった。
「どうした? なにかあったのか?」
「いえ、そうではなくて~。アップが終わったので、今日のメニューを聞きにきたんですけど……」
「ああ、そうだったのか。悪い。えーと、クリークは……」
バインダーに挟んだデータ表をパラパラと捲り、今日の練習内容を探す。だが、何度見直しても見つからない。昨日の分はあるのに、今日の日付どころか、ざっくりとまとめた一週間分の全体メニューすらない。トレーナー部屋に忘れてきたか。
「……ごめん、クリーク。一旦戻るわ。メニュー、執務室に置いてきちゃったみたいだ」
「…………トレーナーさん」
急いで戻ろうとすると、裾を掴まれた。
瞬間、体があの夕焼け時の記憶を思い出して少しだけ強張る。だけど、その力は弱く優しく。簡単に振りほどけそうなほど、気を遣ってくれているのがわかった。
「どうした?」
「……やっぱり、まだ何かお悩みなんですよね?」
「えっ? ああ、いや。昨日、飲みすぎちゃっただけで。すまんな、社会人としてしっかりしないといけないよな、こういうのは」
「……それだけじゃない、ですよね?」
真に迫る態度。誰かの役に立ちたい気持ちの強い彼女。俺のことなんて、きっと見透かしているんだろう。
「私じゃ、お力になれないんですか……?」
耳もしおれ、尻尾にも元気がない。彼女の走り自体は、不調でもないのに。
このまま、これで良いのだろうか。俺はクリークの優しさを振り払って、このままやっていけるのだろうか。
トレーナーとして、それでいいのか。
「クリーク……」
皆に気をかける性格ゆえ、落ち込む姿なんて表では見せない彼女。誰もが見ているこの練習場で、そんな顔をするなんて……。よっぽど余裕がないんだ。
ああ、だけど。本当に話していいのだろうか。どうすればいいんだ。目を瞑り、懸命に頭を動かす。
悩みに悩んだ末に、俺が出した結論は…………。