5月中旬、平日、トレセン学園、トレーナー室にて。
「頼むよ、相棒」
トレーナーである彼は、担当のウマ娘にそう言われ、呆気に取られていた。
短い髪の毛、活発的で男勝りな雰囲気を放つ彼女、ウオッカから出た言葉は、トレーナーを困惑させるものだった。
「ウオッカ…流石にそれは…」
「本当に…頼むよ。マジのお願いなんだ」
苦い顔をしてやんわりと彼女の願いを退けようとするトレーナーだったが、彼女の金色の瞳は真剣そのもの。真っすぐな彼女の視線にあてられて、トレーナーは腕を組んで唸る。
正直、ウオッカの調子はよろしくない、と彼は思っている。切っ掛けは4月に行われた桜花賞。そこで彼女は二着。一着を取ったのは、彼女の最大のライバル、ダイワスカーレットだった。そこから『自分らしいレースを』と望んだのがオークスを回避しての日本ダービーへの路線転換。ティアラ路線からのターニングポイントとなる彼女の意思を、彼も認めた。彼女の意思を尊重することが、彼女の自信を取り戻すことにもつながると願って。
だが、ウオッカの心には、ダイワスカーレットに負けたのがしこりとして残っていたのだろう。それから練習に向かう態度は、どこか焦り気味な所が見え隠れしていた。その度にメンタルケアに努めるトレーナーだったが、根本的な解決にはまだなっていないようである。
そして今回の彼女のお願い。それはかなり突飛なもの。
「…ナリタブライアンには相談したのか?」
「あぁ。先輩は『本能に従え』って」
「…そうか」
少しでも時間稼ぎをしようとナリタブライアンのことを口に出したトレーナーだったが、既にその道はウオッカが通っていた。八方塞がり。その状況に陥り、尚、彼はウオッカの嘆願を受け入れられずにいた。
彼女のお願いは、トレーナーとウオッカ、2人でしかできないこと。しかもそれをダービー前日に行いたいと、彼女は言う。
それをしたことで体調や調子を崩すリスクもある。またトレーナー自身、それをうまく行える自信もなかった。ウオッカにとって大事なことなのかもしれないが、彼女を預かるトレーナーとしては到底受け入れがたい。そう彼は思い、顔に苦しさを滲ませ続ける。
「頼むよ。相棒としかこんな事出来ないんだ…。オレ、こんな事を頼めるのはトレーナーしか…」
不安そうな彼女の瞳がトレーナーに向けられる。トレーナーもその視線を真っ向から受け止め
「……本当に、いいんだな」
と、彼女に重い口調で確認の意思を取る。
「いい」
その言葉に深く彼女は頷いた。まるで鋼のような意思を心に強く刻んだかのように。
その言葉に、その態度に、打ちのめされるようにトレーナーは天井を見て、ため息をつくと
「……わかった」
と、彼女の願いを聞き入れた。
途端、ウオッカが目を輝かせる。
「本当か!?」
「…あぁ」
「サンキュー!!!相棒!!!」
「ただ…一回だけだぞ」
「分かってるって!!!やったぜ!!!」
無邪気にはしゃぐウオッカの声が部屋の中に響く。満面の笑みで喜びを爆発させる彼女の姿を見て、脱力感と諦念を胸に渦巻かせ、苦笑いをするトレーナーだった。
そして日本ダービー前日、土曜日、午前10時ごろ。
トレセン学園栗東寮の前に、一台のクレーのマツダ・アクセラが停車する。ウオッカのトレーナーの車だった。
寮の前には一人のウマ娘が立っていた。ウオッカである。この日の前日、日本ダービー前の特別な練習という理由で、彼女は授業を全て欠席していた。
「おう、相棒」
そう言って彼女は車に乗り込む。その手には着替えの入ったリュックを持ち。
「荷物、後ろに置いてもいいぞ」
「あぁ、いいよ…ここで」
助手席に乗った彼女は、膝の上に自分のリュックを乗せて抱え込む。気持ち、その手が少しだけ、ほんの少しだけ震えているようにトレーナーには見えた。
「じゃ…、行くぞ」
「おう」
短い会話を経て車は走り出す。
「なぁ、相棒」
「なんだ」
少しの沈黙を経て
「オレ…はじめてでさ…」
と、少し恥ずかしそうに彼女は語る。
そんな彼女の様子を見て、ため息をつき
「…実は、俺も」
とトレーナーは言った。
「本当か!?」
「…あぁ」
その言葉に目を輝かせて嬉しそうに話すウオッカに、トレーナーは口をへの字にする。
「そっか…!相棒もはじめてなんだな…!」
そう嬉々とした態度で目を細くするウオッカの姿を横目で見て、少しだけ口元をトレーナーは緩ませた。
車は走る。郊外に向けて。暖かい日差しが地に満ちる、晴天の午後。
2人で行うある『約束』が始まろうとしていた。
翌日。
日本ダービーは最終局面を迎えていた。
『さぁ今、大ケヤキを超えて!先頭はカツシカカイザー!レースを引っ張る展開!!!』
第四コーナーに入り、先頭に逃げウマ1人がリードしペースを作る。そしてその後ろに2人が続き、その後ろにバ群。
11万3000人の観衆の声がウマ娘の耳に響き渡ってくる。
もうすぐホームストレッチ。運命の501,6mの長い直線。自然とウマ娘の脚色も浮足立ってくる。18人のウマ娘達はコーナーを綺麗にこなしていき、そして
『最後の直線コースへと入って参りました!!!』
遂に大観衆の熱気が初夏の陽気とともに躍る、勝負の舞台に姿を現した。
『カツシカカイザー先頭!!!ピンクの勝負服が先頭だ!!!』
坂道で歯を食いしばり、汗を噴き出し必死に逃げる先頭の逃げウマ。
『サンゼンセカイが二番手!!!』
そしてそれを差そうとする二番手のウマ娘。後続のウマ娘も最後の直線、長い200mの坂道を必死に登っていく。
そんな中で一人のウマ娘の末脚が光り輝く。
短い黒髪をたなびかせ、金色の瞳を輝かせ。
『さぁその後ろ!!!ウオッカ上がってきた!!!黒い勝負服、ウオッカ上がってきた!!!』
その姿を見て実況の熱声が響き渡る。
第四コーナーの八番手からの差し切り体制。心臓破りの坂道などもろともせず、大きく伸びた足が加速を極め、外から先頭にめがけて一気に突っ込んでいく。
『外からフェーズフェニックス!!!アロンクリンも上がってきている!!!』
必死に2人のウマ娘がウオッカを追う。
しかし
(くっそぉ…!!!)
(あぁ…!!もう!!!)
2人の脚色は確かに輝いている。しかしウオッカの背中が捕まえられない。いやむしろその差が開いていく。
そして残り200m、遂にその瞬間は訪れた。
「いっくぞぉぉぉぉぉ!!!!!」
ウォッカが叫ぶ。アクセル全開と形容して遜色ない脚色で、ウォッカが二番手、一番手を抜いて、そして
『しかし先頭はウオッカだ!!!ウオッカ先頭だ!!!』
遂にウオッカが先頭に躍り出た。
他のウマ娘たちの追撃を一切寄せ付けない脚色で、大観衆の声を一身に受け、そして
『なんと!!??なんと!!!!64年ぶりの夢叶う!!!!!ウオッカ先頭!!!!!ティアラ路線のウマ娘が見事に決めました!!!!!』
ウオッカはこの日、日本ダービーを見事に制した。
「よっしゃあ!!!!!」
喜びを爆発させ、満面の笑顔でウォッカは叫ぶ。
『ウオッカやりました!!!!!ウオッカ、右手でガッツポーズ!!!』
第一コーナーに向けてクールダウンしていく彼女だが、その心には熱い熱い興奮が胸に宿っていた。
『これは恐れ入りました!!!ジュニア級ティアラ路線の女王がなんと!!!クラシックの頂点へ!!!!!64年ぶりの快挙達成です!!!!!』
そして日本ダービーを制した彼女に、実況の、11万3000人の観客の声援が一斉に浴びせられる。
戴冠の栄誉を一心に浴びながら、ウオッカは会場に向けて手を振り始める。
「あぁ…」
そんな観客席で大きなため息をついた男性がいる。彼女のトレーナーである。しかしそのため息は安堵に満ちていた。心配していた彼女が無事に一着を取れたこと。それが大きな吐息となり彼の身体から出たのだろう。その証拠に彼の顔は緩み切った笑顔で満ちていた。
そして思い出したのは、昨日の、ウオッカと迎えた夜のことだった。
夜。東京都、郊外、某キャンプ場。
都会から離れたこの場所では、空に満面の星が躍る。とても1300万人が暮らしているとは思えない、大自然の中。
ウオッカはテントの中で眠っていた。
「ん……」
ふとウオッカの目が覚めた。聞こえたのは木がはぜる穏やかな音。そしてテントの中から見えたのは、ぼんやりとした橙色の明かり。少しだけテントの帳が開いており、ウオッカが眠気まなこで捉えたのは、一人の男性の姿。
「あい…ぼう…?」
寝袋から身を這いずらせ、テントの帳を少し開けて彼女は男性を呼んだ。
彼女の瞳に映ったのは、焚火のそばで座りこみ、赤い炎を無言で見つめるトレーナーの横顔。
「ウオッカ、寝てろ…」
トレーナーは彼女の方を少し向いてそう声をかけた。そして
「明日は…忙しくなるぞ」
焚火に視線を再度向け、低い声でそう呟く。
赤い光に照らされる精悍な男性の横顔。焚火の音。少しだけ肌寒い空気。それだけが漂う世界。
「ん……」
その雰囲気を感じる中で、彼女はテントの中に戻り、寝袋に再び入った。寝袋の中で、彼女の意識は急速に夢の世界へ向かっていく。焚火の暖かい光と穏やかな音をBGMに。そしてそんな世界で佇むトレーナーの姿をお土産に。
翌日の戦場、日本ダービーに向けて。
「うまく…いった……」
大歓声響く観客席で、トレーナーの顔は空を向く。手には先程まで握っていた汗で未だ湿っている。
ウオッカのお願いを聞いたときは面食らった彼である。『戦争映画でよくやっているような決戦前のワンシーンをやりたい』と言われ、彼女が何を言っているのかさっぱり分からなかったことを思い出す。日本ダービー前夜にやりたいと言い出したから猶更である。
「よ!」
観客席で全てがうまくいった事の余韻に浸るウオッカのトレーナー。そんな彼に話しかけた男性がいる。ダイワスカーレットのトレーナーである。
「おぉ…」
疲れたような、緩んだような笑顔でそれに彼は答え、右手を振った。
「ウオッカちゃん、やったじゃん」
「お陰様でな…」
「これでオレに借金をして努力した、お前の甲斐があったってもんだな」
「そうだなぁ…」
軽口を叩くダイワスカーレットのトレーナーに対して、ウオッカのトレーナーはただぼんやりとした笑顔で応える。
ウオッカのトレーナーが彼女の約束を聞き入れてから、彼の苦難の日々が始まった。何せキャンプなんて一回もやったことがない。大急ぎでキャンプ道具を調べ、買おうとしたが金が足りず、ダイワスカーレットのトレーナーに借金を申し入れ、どうにか大急ぎでキャンプ道具一式を揃えた。勿論、ウオッカが疲れないようにテントと寝袋の選択はハイグレードのものを選んだ。
そして次に秋川理事長に事情を説明し、トレセン学園の一角をキャンプ設営の練習場として使わせてもらう認可を得て、そこから毎日、普段の仕事をこなす傍ら、キャンプ設営の練習が始まった。不器用な彼である。苦労を重ねてどうにかキャンプ設営が滞りなくできるようにし、事前準備をなんとか整えられた。
そしてここからが運任せ。天候が悪ければキャンプは中止。幸いにもダービー前日の土曜日は晴れ。
安心してキャンプが出来ると思いきや、今度はタイミングよくウオッカを一瞬だけ起こさなければいけない。
焚火の準備をすべて整え、熟睡しきるウオッカのテントに入り、彼女の身体をゆすり、彼女が起きかかったのを確認して素早く焚火の前に戻って椅子に腰かける。ここでウオッカがそのまま寝たら折角の努力もすべて水の泡。流石に大事な試合の前に、余計な体力を消耗させるようなこと、つまり何度も起こすわけにはいかないのだ。
そしてこれはすべて彼女の調子が戻るためのお膳立てであり、これをやったからと言って日本ダービーに勝てるとは限らない。
ただ、この日、ウオッカは見事に日本ダービーの栄冠を手にした。トレーナーの努力はすべて実を結んだのである。
「ふふん!やるじゃない!!!」
観客席で満面の笑顔でウオッカを見つめるウマ娘がいた。ダイワスカーレットである。
「うちの子もあの通りご機嫌だし…、ま、これからもヨロシク」
そう言ってダイワスカーレットのトレーナーは彼の元を去っていく。
ウオッカのトレーナーはそれを見送り、ターフに視線を戻す。そしてそこには、自分の教え子が汗で濡れた身体をそのままに、勝者の祝福を全身に受け、会場に手を振る姿がただ映り込む。
「よかったな…ウオッカ」
今までの苦労はどこへやら。そんなことすっかり忘れ切り、目の前の常識外れの女王を見る彼の顔は、あの時の焚火のように、どこか穏やかで温かい光で彩られていた。