ウマ娘の短めの怪文書集   作:富岡牛乳

4 / 6
4.エアグルーヴと頼りないトレーナー

ある日のトレセン学園。

芝の表面に太陽の光が踊る、そんな午後。

エアグルーヴはターフの上を切り進める。額には汗。その努力の滴が、ターフを走る彼女の後ろに流れて飛んでいき、日の光を浴びてただきらめく。

来たるべきレースに備え、最後の追い込み。それを行う彼女の瞳には真剣さが、女帝の誇りが宿る。

ゴールを抜けて、クールダウンをする彼女。

ターフからコースの外へゆっくりと歩みを進めていく中、一人の男性が彼女の目に入る。

背が高く、肩幅が広い。まるで大樹のような彼の姿を見て、少しだけ彼女の眉間に皺が寄った。

「お疲れ様でした」

そう彼はエアグルーヴにタオルを両手で差し出した。無言で彼女はそれを手に取ると、汗を拭き始める。

そして

「おい貴様」

と彼に話しかけた。

「何でしょう」

朴訥とした調子で問いかける彼に、ちらと彼のベルトの辺りに視線を移すと

「シャツが出てるぞ」

と苦虫を潰したようにエアグルーヴは言い、ため息をついた。

少しだけ彼は目を見開き、自分のベルト付近を見ると、確かに右側のシャツがスラックスからはみ出している。

「すみません・・・」

そう言って服を直す彼に

「たわけ」

彼の目を見ることなく、エアグルーヴはきつい調子で咎めた。

 

 

 

彼、エアグルーヴのトレーナーはいつもこうである。

ネクタイが曲がっている、寝癖がついている、髭のそり残しがある、など。どこか抜けていて頼りないことがままあるのだ。

トレーナー室にて練習が終わったエアグルーヴとそのトレーナーは次のレースへの打合せをしていた。

「次のレースですが、ご存じのように2週間後の土曜日、阪神レース場です」

「あぁ」

「走行距離は1600m。参加するウマ娘の数は16人。出バ票より傾向を見ますと、逃げ・先行を得意とする子が多い様子ですので、好ポジションを維持しつつ、最後に差しきるのが理想ですね」

「そうか。それで、当日のスケジュールはどうだ?」

「はい。第11レース、出走は15時35分からですから、当日に電車で移動すれば十分間に合いますが、レース当日にエアグルーヴさんに負担をかけるのはいかがかと思っています。そこで前日の金曜日より前乗りをし、当日の午前中はアップに努めて貰いたいのですが・・・いかがでしょう」

「構わない。それで行こう」

「ありがとうございます。当日の宿と移動手段の確保、それと午前中の練習場の予約をして参ります」

「あぁ」

そう言って彼は手帳を見て、打ち合わせした内容を書き込んでいく。それをエアグルーヴは憮然とした態度で見ていた。

正直彼女は苛立っていた。彼の態度にである。

それに気づいたのか、トレーナーが彼女の方に視線を移し

「あの・・・エアグルーヴさん」

と問いかけた。

「何だ?」

「他には何かございますか?」

「ない」

「そう、ですか」

ここで会話は途切れる。トレーナー室に、トレーナーが手帳にボールペンで文字を書き込む音だけが響く。

エアグルーヴの気持ちが刺立つ理由。それは、彼のマネジメントに一点の曇りも無いことである。

目の前のトレーナーはエアグルーヴの事に際しては、殆どミスをしたことがない。事前に余裕のあるスケジュールを組み、人伝手を作り、予算を確保し、万全の状態でレースができるようにしてくれる。

それはウマ娘に取って非常にありがたいことだったが、同時に彼女はいつも思うのだ。

(なぜ・・・貴様は自分の事についてはこんなに抜けているのだ・・・)

目の前の大きな男性はエアグルーヴの事については完璧にしようと努める一方、自分の事に際しては抜けている。それがどうしてか気に入らない彼女。どうしてそう思うのか、その理由については心当たりが全く思い浮かばない彼女である。

打合せも一段落し、

「今日は失礼するぞ」

と言い、エアグルーヴは席を立った。

「はい、明日も宜しくお願いします」

そう言ってトレーナーは頭を下げると、それに少し頷いて彼女はトレーナー室を後にした。

 

 

2週間後、日曜日、朝。兵庫県宝塚市。某ビジネスホテルにて。

前日に行われたレースでエアグルーヴは快勝。トレーナーの予想通り、逃げ・先行のウマ娘達が先を争う展開となった。彼女は中団で好位置をキープしつつ、脚をため、第四コーナーから徐々に前に進出。そして最後のホームストレッチで外から差しきり完勝。彼女の脚質にあった展開だった。

実力を出し切ることが出来た充実感をエアグルーヴは抱え、次の朝を迎えていた。天気はあいにくと重たげな雲が空を覆っていたが、前日のレースの結果があってだろう、気圧の低さも彼女には気にかからないようである。ホテルの朝食を取り、部屋にて適当に時間を過ごしているうちに、時計が8時前を指していることに彼女は気がついた。

「そろそろか・・・」

そう彼女は思い、身支度を調え始めた。トレーナーと前日に話したチェックアウトの時間は8時30分頃。

(今日は帰るだけとはいえ・・・時間は厳守しないとな)

すると自然にだろう、彼女の身支度の手は進んでいく。そしててきぱきと荷物を鞄に詰めていくと、余裕を持って自分の部屋を出たのだった。

 

 

ホテルのフロントロビーにて

「おはようございます」

「あぁ」

時間は8時35分頃。エアグルーヴがフロントロビーにて脚を組んで座っていると、エレベーターからトレーナーが降りてきた。

「すみません」

予定の時間を少し過ぎた事に大してだろう、少し焦りを含んだ声でそう彼は謝罪の言葉を口にする。

「構わん。早くチェックアウトをしてきたらどうだ」

そうエアグルーヴは言い、彼をフロントカウンターに行くことを促した。それに頭を下げると、すぐに彼はチェックアウトをするためカウンターに向かう。

そんな彼の後ろ姿を見た彼女は少し顔をしかめた。

彼が時間を遅れたことに対してではない。

(また・・・寝癖がついているぞ、貴様)

少し跳ね気味の彼の後ろ髪を、鋭い視線がずっと捉えていた。

 

 

 

「それでは行きましょうか」

「あぁ」

ホテルの駐車場にて。レンタカーのシルバーのフィルダーに乗った二人は、ホテルを後にし、駅に向かおうとしていた。

ギアをドライブに入れ、ゆっくりと車が動き始める。駐車場を出て、ホテルの敷地外へ向かおうとしている。

そんな最中

「朝は・・・本当に申し訳ございませんでした」

とトレーナーが呟いた。

「何がだ」

エアグルーヴが少し途惑ったかのように返事をする。

「その・・・遅刻について・・・」

心底沈んだ、消え入りそうな声でトレーナーがそう言う。

(何だ、そんな事か)

とエアグルーヴは思った。ちっとも気にしていない事を、右に座っている男はいつまでも気にしている。

それにどこか可笑しさを感じつつ、気にするな、と言わんとした、その時だった。

「うわ!!!」

「なっ・・・!!!」

車の左後ろから衝撃と金属がすれるような音が走った。ちょうど、ホテルの敷地外へ出て、歩道を横切り、車道へ出るため左折しようとしたその最中だった。

慌ててトレーナーはギアをパーキングに入れ。後ろを振り向く。しかし、そこには何の形もない。何かにぶつかったような感触はあったのだが、何もないことに怪訝な顔をする二人。

「あ・・・!エアグルーヴさん!お体は!」

「・・・何ともない。それより後ろを」

「は、はい!」

二人が外に出ると、すぐに衝撃の原因が現れていた。

「なんだ・・・」

とエアグルーヴは胸を撫で下ろした。リアホイールのカバーに傷がついている。縁石にリアホイールが擦っていただけのようである。

「良かったな、この程度で」

「はい・・・」

すっかり意気消沈するトレーナーを見て

「貴様、しっかりしろ」

とエアグルーヴは声をかける。

そこからはより慎重にと、ゆっくりしたペースで車は駅に向かい、何事も無く道程を終えた。

レンタカーの返却時には弁償金額は取られたものの、ホイールカバーのの擦り傷くらいなら、と大層な金額にはならなかった。

新幹線にて神奈川県・新横浜駅まで戻ってきたころには、すっかり正午を過ぎていた。

適当に昼食を取ろうと駅の外に出て、一件のファミリーレストランに二人は入る。

席について尚、すっかりしょげた顔をしている彼を見て、

(仕方の無い奴だ)

と、ため息をついたエアグルーヴであった。

 

 

 

ぼんやりとした靄が空にかかったかのような、ある日のこと。

エアグルーヴは病院の廊下を歩いていた。

彼女が怪我や病気をした訳ではない。彼女のトレーナーが車にて単独事故をしてしまったとのことで、その見舞いである。

(まったく・・・何をしているのだ)

そう思う反面、彼女は安堵していた。どうやら命に別状はないとの話は聞いている。頭を強く打ったため、トレーナーは少しの間入院するらしいのだが。

エアグルーヴは花束を手に病室の前に立つと、ネームプレートから自分のトレーナーが休養している病室であると確認する。

そして

「失礼する」

と彼女は病室に脚を踏み入れた。

エアグルーヴの視界にベッドに横たわるトレーナーと、その傍に立つ駿川たづなの姿が目に入る。

「エア、グルーヴさん・・・」

途惑った様子で駿川たづなが目を見開き、それに軽く彼女は会釈すると、トレーナーの前に立った。

「貴様、何をしている」

「はぁ・・・」

ぼんやりとした眼でエアグルーヴを見るトレーナー。その頭には包帯が巻かれていた。

「身体は平気・・・でもないようだな」

「はぁ・・・」

「命には別状はないと聞いているが・・・もう少ししっかりしないとな」

「はぁ・・・」

「気のない返事だな、貴様。まぁ、今はゆっくり休むと・・・」

「あの」

彼女の言葉を遮るようにトレーナーが話す。いつもと違う様子に途惑い、

「何だ」

と少しだけ不機嫌そうにエアグルーヴは言葉を返した。

そんな彼女に、トレーナーは怪訝な顔をして首を少し傾け

「貴方、誰ですか?」

と一言投げかける。

途端、エアグルーヴの頭が真っ白になった。何も言い返す事が出来ず、眼を見開きその場に硬直する彼女に

「エアグルーヴさん、ちょっと」

と、駿川たづなが彼女の手を取り、病室から引っ張るように廊下に連れ出した。

「あ、あの・・・駿川さん」

「来ちゃダメって言ったじゃないですか」

途惑うエアグルーヴにたづなが咎めるようにそう言う。

状況がよく飲み込めず、困惑するばかりのエアグルーヴに

「トレーナーさん、記憶喪失なんですから」

とたづながため息をついて、声を落としてそう話した。

「え・・・・・・」

エアグルーヴは何が起こったか分からないまま、その言葉を聞いていた。しかしその言葉は心の外を漂うばかりで、いつまで経っても心中に入ってこない。

「聞いていませんか?トレーナーさん、単独事故で記憶喪失みたいで」

「はい」

「ですから、しばらくお休みいただくことになったって・・・学園から通知が」

「聞いて、いません・・・」

その言葉を聞いてたづなは困ったように頭をひねった。

呆然と花束を手に立ち尽くすエアグルーヴだったが

「あの」

視線を下に向けたまま、どうにか絞り出すように声をだした。

「このまま・・・記憶喪失が続いたら・・・。どうなるんですか?」

その言葉にたづなは、真っ直ぐ彼女の目を見て

「トレーナーとして仕事をするのは不可能です。新しいトレーナーさんの元に編入する手続きを進めていくことになります」

と、真摯な声で、どこか堅さの残る声音で、彼女はそう告げた。

その言葉を聞いて、真っ直ぐにたづなの顔を見る。

途端、世界が歪み、エアグルーヴの目の前の景色が少しずつ白ばんでいく。

そして世界は消えてなくなり、彼女の目の前に現れたのはよく知る天井だった。

窓の外から聞こえるのは鳥の声。そして差し込むのは朝日。身体中に残った湿った汗の感覚。回りを見渡すと、同室のファインモーションが寝息を立てている。

「夢・・・か・・・」

エアグルーヴはようやく自覚した。悪夢から覚めたのだと。

ため息をつき、時計を見ると、時刻は6時前。手に残ったのは汗の感覚と、そして花束を握りしめたような強ばり。

「くそっ・・・」

彼女はその手を強く握りしめ、眉間に皺を寄せた。

ベッドから立ち上がると、汗で湿りきった身体を気持ち悪く思い、着替えることにした彼女である。

その朝の空は、その夢の内容とは裏腹に、澄み切った海のように薄い青色で満ちあふれていた。

 

 

その日、練習を始める前のこと。

「入るぞ」

そう言ってエアグルーヴはトレーナー室をノックし、足を踏み入れた。

「エアグルーヴさん」

そう答えるのは、いつも通りのトレーナーである。

「昨日は、すみませんでした」

それは日曜日のこと。車で縁石にこすってしまったことを指すのだろう。

そんな言葉を一切無視し、エアグルーヴは机に座るトレーナーの元に歩み寄る。

「あの・・・」

「おい、貴様」

「はい」

「立て」

突然の言葉に、途惑いの表情を浮かべ、トレーナーは立ち上がった。背の高く、肩幅の広いトレーナーの姿がエアグルーヴの目の前に現れる。

その姿を視界に入れず、視線を逸らして立ち尽くすエアグルーヴ。少しその顔にはためらいのような、恥ずかしさのような色合いが見え隠れしていた。

「あの・・・」

それに気づくこと無くトレーナーは頭をひねるが

「ええい!」

とエアグルーヴは腹の底から声を出す。大きく深呼吸して、彼女の口から出た言葉は

「撫でろ」

非常にか細く、照れを含んだ色合いだった。

「えっと・・・」

「頭だ!・・・撫でろ」

その言葉に途惑いながらも

「はぁ・・・」

トレーナーの右手がエアグルーヴの頭にゆっくりと向かった。

エアグルーヴの頭に大きな岩のような手が乗る。途端、少しだけ彼女の頭がびくっと震えた。

「あの・・・」

「いい!・・・いいから、・・・頼む」

その声に、いつもの気丈な彼女とは異なる、どこか恥ずかしげな声を受け、トレーナーは頷き、ただ彼女の頭を撫で始める。

彼の大きな手が触れる度、エアグルーヴの心がときめく。心臓の音が少し恥ずかしそうに跳ねたような心持ちのリズムを奏でる。

視線を逸らして顔をほのかに赤らめ、エアグルーヴは立ち尽くし、トレーナーの手の温かみを感じていた。

「そろそろ・・・どうです?」

「・・・もう少し、頼む」

短い会話を経て尚、トレーナーは彼女をなで続ける。そんな最中

「ひゃっ!?」

彼の手が、頭を離れ、エアグルーヴの左頬に伸びた。

「き、貴様!?何を!」

きっ、と睨むように目の前の大きな男性をにらみつけ、それに

「す、すみません!!」

とトレーナーは慌てた様子で手を離した。

「そ、その・・・。エアグルーヴさんが・・・こうして欲しそうな感じがしましたので・・・」

そう言って話すトレーナーの顔も、少し赤らんでいた。

視線を逸らし、どぎまぎした彼の様子。それを見てエアグルーヴはふっと笑い

「たわけ」

と言い、彼の手を取って、自分の左頬に押し当てた。

トレーナーが見たエアグルーヴの顔は、ほのかに赤色のツツジのような色合いを帯び、優しい微笑みを浮かべていた。、


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。