ナイツ&マジック ~演算不能の騎士物語~ 作:アルヌ・サクヌッセンム
それはエルの新たな相棒、シルバー・ガンが完成する前の事であった。
[何故だ!?何故、やつは平気な顔をしていられるんだ!?]
バルトサール・セラーティは困惑していた。
彼はエヴァリーナが働いているテルモネン重工の工房施設へ侵入し、金属腐食剤を使った破壊工作を行い、異母姉の様子を引き続き観察していた。
さぞ混乱し絶望し悲しんでいるだろうと考えていたバルトの予想を裏切り、彼女は全く落ち込む様子を見せていなかった。大切な
変に思って原因を調査したら、まさかの事実に彼は驚愕した。
[魔導演算機は『2台』あったッ!?お、おのれ、あの女!1台要求するだけでも不遜だというのに複数の機材を父上に調達させていたのか?]
実際はバルトが勝手に勘違いしただけで、破壊された演算機はエヴァの友人のエルネスティの所有物だったのだが、どうやら彼はその事実には気付けなかったようだ。
[この私を謀りおって、絶対に許せん!しかし、どうする?手に入れた腐食剤はあれ1瓶きりだ。追加入手は絶望的だぞ]
本来厳格に管理されていなければならない危険な薬剤である金属腐食剤を、まだ幼い初等部の生徒が購入しているという事実。
ただの一回なら見逃されるかもしれない。しかし、二度も繰り返されれば学園や捜査機関が察知してくる可能性がそれだけ高まる。同じ手段を使う事は危険だ。バルトにもその程度の危機意識はある。
[絶対に……貴様の野望を破壊してやるぞ、エヴァリーナァ!!]
しかし、暴走を始めた彼はもはや止まれなかった。異母姉への憎しみと怒りに染まった彼の意識には、かの魔導演算機は必ず破壊しなければならない物としてしか映っていなかった。
「暑い……暑すぎるぅ~」
灼熱の鉄火場にて、今日も今日とてテルモネン重工の業務を手伝っていたエヴァがぼやく。
「だらしねぇ事を言うなよ、嬢ちゃん。それが鍛冶場ってもんだ。おめぇさんも鍛冶師を目指してるんなら、慣れな」
「いや、社長。エヴァ嬢ちゃんの言う通り、今日はかなり暑い日ですぜ。この気温は人間の子供にはちょっときついかも」
ボルトが情けない声を出した少女に活を入れるが、この日は夏真っ盛りの快晴で他の社員が言うように気温が高かった。
ドワーフは種族の特性として、比較的高気温に強い。彼らの祖先が昔から鉄火場を住処としてきたような人種だったからだろうか?
だが、エヴァ達は人間だ。そんな種族特性の恩恵などない。
加えて、ここは溶鉱炉なども備える金属加工場。強力な熱源を備える上に、排熱には限界がある。
こんな場所では幼い子供は熱中症にかかる危険もあるのだ。
だから、厳しい事を言っていたボルトもすぐに考えを改めた。体を壊しては元も子もない。
「うーん、それもそうか。坊主、嬢ちゃん。お前さん達はしばらく休憩して涼んでな」
「わ、わかりました」「ふぁい、ありがとうございましゅ……」
脳が溶けてでもいるような呂律の廻ってない台詞を返すエヴァと、比較的余裕のある表情ではあったがやはり少々消耗している様子のエルは鍛冶場から一時撤退した。
外に出た二人は木陰に腰を下ろして、一息つくことにした。
更にエルは片手に愛用のウィンチェスターを構えて、風の系統に連なる魔法で自身とエヴァの顔に送風してくる。
「あぁ、ありがとう……うーん、気持ちいい」
用意した濡れタオルと水筒も使って、水分補給もこなしながら日陰で心地よく涼む二人。
いい感じに一心地つくと、溜息と共に盛大に愚痴をこぼすエヴァ。
「はぁ……エアコンが欲しい。アイスが喰いたい。キリキリに冷えたソフトドリンクが飲みたい」
それが叶わないと解っていても、日本での冷房技術に囲まれた記憶を持つ転生者は願望を口にすることがやめられない。
「なんで
「魔法では直接物が冷やせないからですよ。学園の授業で習いませんでした?」
この世界の魔法は4つの系統に分けられている。
爆炎魔法は爆発と炎。雷魔法は電気エネルギー。風魔法は空気の対流や圧縮。強化魔法は物体や生物体にかかる力のモーメントや強度などをそれぞれ司っているが、現在発見されている魔法はいずれもエネルギーの生成や付加といった現象しか引き起こせない。
これは魔法という物が攻撃的エネルギーの放出現象と考えられてきたからであり、それ故に兵器として研究・利用されてきた歴史があるからだ。
物を冷やすとは、すなわちその物体の熱エネルギーを低減させるという事になり、これらの魔法の対象外と考えられてきた現象である。
「でも、お前がさっきから浴びせてくれてるこの風は涼しいじゃないか!その理屈は矛盾してないか?」
「これはあくまで、風を送っているだけです。魔法で空気やあなたの体そのものを冷やしているわけじゃありません」
風魔法で起こした空気の対流が『結果として』エヴァの体から熱を奪っているだけなのだとエルは語る。
つまり、魔法が副次的に起こした物理現象を利用すれば物を冷やすことも不可能ではないという事なのだが……この世界では、そう言った技術分野はまだまだ研究途上のようだ。
「そっか、魔法も万能じゃないんだな。……私も今度扇風機みたいな送風用魔導具でも作ってみるか。まぁ、今日の所は井戸水でも引っ被って涼もうや」
そう言って、エヴァは工房施設の外に敷設されている井戸のポンプに手を掛ける。
『こういうポンプ機構も
この原始的な手押しの汲み上げ機構の存在が、エヴァの脳裏にて“とある技術”の存在を思い出させた。
「そうだ、エル!ポンプだよ!“ヒートポンプ”作ろう!あれなら物を能動的に冷やせるはずだ」
ヒートポンプとはその名にポンプを冠しているように、水を汲み上げるように熱を吸収し、移動させる技術。
19世紀以降の地球において強力な熱交換器として普及し、それまで能動的な冷却手段を持たなかった世界に革命をもたらした文明の利器である。
「ヒートポンプですって?先輩はあれの作り方をご存じなんですか?」
エルもその名を聞いたことぐらいはある。エアコンも冷蔵庫もこの原理で空気や物体を冷やしており、物によっては給湯器などの温める装置にも使われている技術だったはずだ。
しかし、詳しい概要はうろ覚えでしか知らなかった。
「基本的な原理ぐらいは覚えてるさ。流石に冷媒に使うフロンの合成法とかは知らないけどさ。初歩的な熱交換器ぐらいならきっと作れる!それを魔力で稼働させれば、物を冷やす事だってできると思うんだ。
まぁ、その前にちょっと確認しておきたいことがいくつかあるんだが……エル、協力してくれるよな?」
「そういう事に協力を惜しまないのが、我々
「そうだな……まず、
快諾したエルが、銃杖の先端部に法弾を形成しようとする。周辺の大気が急速に集まっていき、僅かな負圧を感じた。
そこまで行った所で、エヴァは追加の指示を出す。
「ストップ!その空気弾丸だけどさ。発射させずにそのまま“維持”していてくれ」
危うくいつもの癖で、攻撃魔法として発射しそうになっていた法弾をエルは慌ててウィンチェスターの先端部に保持する。
いつもとは少々勝手が違う制御だが彼は臨機応変に術式を改変し、安定した現象維持を実現させた。
エヴァはエルが作ったその透明な空気塊が存在するだろう杖の先端部に、そっと指の先端部を指し向ける。
そして、反射的にその指を引っ込めた。
「熱ッ!!!……うん、思った通りだ。やっぱり“圧縮熱”が発生しているようだ」
機械などの力で無理やり空気を圧縮すると、その温度は上昇する。
地球では中学や高校の物理で習うような基本的知識であるが、魔法で圧縮した空気でも同じ現象が起こるのか?
これはその為の確認作業だったのだ。
「なるほど、
「まぁ、あくまで生成した瞬間の温度が高いだけだろうけどな……よし、前提条件の一つが確認できたな。次の条件を確認しよう。エル、今度はその逆だ。空気を“膨張”させてくれ」
「ぼ、膨張ですか?」
「そうだ。これも物理で習っただろう?空気は膨張すると熱エネルギーが拡散して冷やされるって。それも魔法で起こすことができれば……」
ところがこれにはさしものエルでも、今までやった事の無い制御であるからして、すぐには術式を紡げなかった。
「困りましたね。既存の術式の中には空気を膨張させる魔法なんて存在しないのですが……いや、待てよ?真空を生み出す魔法はあるんですから、それを応用すればあるいは?」
ところで、ここでいう“真空”とは何だろう?物質が完全に存在しない空間、すなわち絶対真空を生み出すのは不可能に近い。故に実際に生み出しているのは、『通常の大気圧より低い圧力の気体で満たされた空間』なのだと考えられる。
気圧が低いというのは、空気密度が低いという事でもある。それは大気が膨張して引き延ばされているのと同じ“エネルギー密度の低い空間”を作る事になるのではないか?とエルは考えたのだ。
「うん、行けるかもしれません……
彼は愛杖の先端部にカマイタチの形成が行われない程度の低気圧空間を顕現させる。
そして、先程と同様にウィンチェスターの先端に指で触れた。今度は二人同時に。
「「冷たい!!」」
エルとエヴァの声が重なる。この不可視の空間は一瞬ではあるが、確かな冷気を生み出していたのだ。
しかし、先程の圧縮熱が拡散されてしまったのと同じように、真空によって生み出された冷気もやがては温まってしまう。
「断熱圧縮と断熱膨張が魔法でも引き起こせることは解ったけど、これをただ別個に起こしているだけじゃ、すぐに拡散して温度差は失われるようだな」
「つまり、この二つの現象の間でエネルギー交換によって熱の“汲み出し”が効率良く継続して行われるようにしなくてはならないわけですね」
地球ではこのような二つの“系”の間で熱エネルギーのやり取りをするのに、効率的冷媒を使うのが一般的であった。その中でも代表的なのがフロンや代替フロンの類である。
しかし、エルもエヴァもそんな物質の合成法は知らない。
「なんとか、特殊な冷媒を使わない方法を探らないといけないかもですね。でも、そんなやり方本当にあるんでしょうか?」
「……いや、一つ心当たりがあるぞ。あんまり一般的な機材では無いんだけどな」
二人はその日以来、勉強や仕事の合間を縫ってこの現象を安定的に利用するための研究・開発に邁進し始めた。
全ては快適な冷房技術の創造の為であった。
まず着手するべきは何かと考えた時、二人は“容器”の開発をするべきだと思った。
「本来は攻撃魔法として使われる程の破壊力を持った圧縮大気や真空ですからね。それを受け止めて熱交換に利用するとなれば、凄まじい圧力に晒され続けることになります。
強化魔法で補強するにしても、母材側にも相当の強度が必要です」
「
以上の事を鑑みて、二人は筐体の自作を……諦めた。
未だ鍛冶師として未熟な現在のエヴァの工作技術で耐圧容器を造るなど、流石に無謀に過ぎると考えたからである。
「こういう時に頼るべきは、技術を持った頼もしい大人だよ」
「というわけで、社長。お願いします!」
「なんなんだ、いきなり!?」
唐突に切り出された子供達からのお願いにボルトは困惑した。
話が全く見えない。故にまず説明を求める。
「物を冷やす
「もっと強力で高効率な物ですよ。正確には『熱エネルギーを吸収して捨てる技術』って言った方が正しいでしょうね」
「よしんばそんな物が作れるとしてだ。うちの工房施設はお前さん達が発明した
二人もその点はこの交渉に於いての問題点だと考えていた。
この会社が発足した何よりもの理由は、この機材の開発によってかの領地において将来的に行われる予定の製紙産業をサポートすることだ。
開発は順調に進んでいるが、機材が完成したわけではない。まずはそれを優先するべきではないか?と考えるのは真当な考えだろう。
しかし、生憎と目の前に居る子供達は真当とは程遠い思考の持ち主である。
「それなんですが、ボルト社長。製紙機械の製造……本当にこの事業だけでこの会社はやって行けると思います?」
「ん?どういう意味だ?」
エルの発した言葉の意味をいまいち飲み込めなかったボルトは質問したのだが、それに答えを返したのはエヴァの方だった。
「
つまり、失敗した場合の事も考えておく必要があるんじゃないか?って事です」
侯爵家という大貴族の手掛ける事業だ。それの成功を疑うというのは平民には畏れ多い事だろう。それに……
「お前、自分の父親を疑ってるのか?というか、この事業の大元はお前たちが言い出した事じゃないか」
「父を信じてない訳じゃないんですが、経済という物は水物です。どういう流れになるかなんて完全には予想できません。
それこそ、事業の失敗で計画がご破算に終わるなんて可能性も0とは言えないでしょ?侯爵家の“没落”なんて結果に終わる事だって考えられます」
「おいおい、滅多な事言うもんじゃねぇよ……」
そんな物騒な話題を他の誰かが聞いていたらどうするんだと、嗜めるボルトだったが、二人はまだ話を終わらせるつもりはない。
「そうなったら、この会社だってどうなるか?万一の補償も行われるとは思いますが、貴族が優先するのはあくまで自分の領地でしょうし、最悪の場合切り捨てられることだって……」
とても子供の考える事ではない内容だが、ボルトもそう言われると心配になってきたようだ。
彼も経営者の端くれだ。リスク管理ができない訳じゃない。最悪を想定しておくことは悪い事では無いことぐらい解る。
「……もしもの事を考えておく必要があるのは解った。だが、さっき言った技術開発がそれと何の関係があるんだ?」
この二つの要素の繋がり……実は内心、ボルトにも二人が次に言わんとする事が朧げに掴めていたのだが、きちんと説明させることにした。
「別の事業に繋がる手札を準備してみてはどうかと思うのです。そうしておけば、万が一の場合でも会社を存続させていくことができるでしょう?」
既存の魔法学では不可能とされている冷却技術。これをもし、実用化することができればその潜在的需要は大きい筈だ。
食品の冷蔵、快適な冷暖房の提供、部品加工や機械の運転における冷却機構の改良。ザっと考えても、膨大な用途がある。この技術が生み出す利権は決して小さなものでない。
「実用化に成功すれば、製紙機械以上にこの会社の屋台骨を支える重要技術となってくれると思います」
エルとエヴァの魂胆はボルトにも解っている。
本当は自分達が欲しいだけなのだ。新事業の提案に格好つけて、自分達の趣味に金や人手を負担させようとしているのだ。
だが、二人が語った理論や理屈に嘘偽りや矛盾は感じられない。
そして、幻晶騎士の模型や
その二人が自信を持って薦めて来た技術だ。勝算は大きいのだろう。
しかし、この時のボルトの心にはそんな打算以上に強い感情が起こっていた。
ドワーフとは魔法に疎い種族だ。演算能力の低さによって、術式という“
ボルト自身それは事実だと認識している。彼らに
彼らもその現実を受け入れていた。
けれども、それに悔しさを覚えていない訳ではない。
もし魔法職の様に自由に魔法が扱えたら?という夢を見た事は一度や二度では無いのだ。
彼が幻晶騎士という巨大な魔導兵器に関わる仕事を選んだのも、その憧れに対する執着故であったのかもしれない。
だが、魔法の専門家達ですら不可能だと結論付けた“物を冷やす”技術。それを自分達が実用化したならば、どうだろう?
[こんなに痛快な事ってあるか?]
そう考えた時、ボルトの心は勇躍したのだった。
「いいぜ。お前らの提案に乗ってやる。俺達の手でその“物を冷やす魔法”を創ってやろうじゃねぇか!」
「とは言ったが、やっぱり会社の方針としては最優先するのは裁断機の開発・製造の方だ。だから、この技術研究に費やせる人員は俺の他には数名の志願者だけになるぞ」
「え?社長自らがですか?」
経営者としては褒められたことでは無いのかもしれない。だが、彼は技術屋でもある。
「こんな面白そうなモン、他人任せにできるか!俺にも手伝わせろ!」
「エヴァ姉ちゃん、エル。父ちゃんがなんかすごいヤル気みたいなんだけど、なんかあったの?」
息子のバトソンまで、後学の為と引っ張り出して見学させようとしている辺り、個人レベルでは相当な気合いの入れように思えた。
他にも興味がありそうな社員に声を掛けて、ミーティングを始める。
「え~。じゃあ、冷却の仕組みの概要を皆さんに説明しようと思います」
エヴァが始めた
「へ~、風魔法で圧縮した空気ってそんな性質を持つのか」「真空って、空気が無くなって息ができなくなるだけじゃなかったんだな」
空気というこの身近に存在する物質の意外な性質に、みんな興味深げに耳を傾ける。
エヴァの説明は続く。
「今回、私が造ろうと考えてるのはこういう装置です」
エヴァがみんなに見せた設計図に書かれていたのは、細長い筒。
見ようによってはこの街を流れる水道に使われることもある金属管のような何の変哲もない筒だった。
こんな物で本当に物を冷やせるのか、みんなが疑問に思って顔を顰めていた。
「これは『
原理はこうだ。まず、高圧大気を筒の中に吹き込む。
その大気を装置内部で渦の様に回転させると、遠心力によって管の壁面側の空気密度と圧力が急上昇し、断熱圧縮を引き起こす。
逆に中心部の空気は外側の渦に奪われ密度が下がって行くことになる。断熱膨張が起こるわけだ。
こうすれば、特殊な冷媒を使って熱エネルギーを移動させなくても、冷気と熱気を作り出すことができる。冷気と熱気はそれぞれ別方向に開けられた出口に吐き出されていく仕組みだ。
「問題はこの装置の内側に渦を発生させる方法なんだけど……エル、これを魔法で制御することはできるか?」
地球で開発されたボルテックス・チューブは
しかし、それすら魔法で直接制御できるならより簡単な装置で再現することができる。
「風魔法は圧縮空気や真空を弾丸や刃のような形にもできるので、術式次第では渦のような流れにすることも十分可能でしょう」
ならば、後は筐体と術式を造るだけだ。
皆は準備を整え始めた。
ボルト達によって成形された金属管。これに例によって、エルの構成した
あとはいよいよ、これに魔力を流して実験するのみなのだが。
「人間が直接持って実験するのは、よく考えなくても危険ですよね?」
ボルト達の鍛冶師としての腕は確かだが、圧縮大気を扱う装置の事故は死傷者も出かねない程の危険性があるのだ。警戒しておくに越したことはない。
「じゃあ、ロボットにやらせようか。オクトペッドと魔導演算機を持ってくるな」
八足歩行のリモコン模型の背中に、以前の模擬戦におけるヘキサペッドのように金属管が積まれ、固定された。
「それじゃあ、実験を開始しよう。ポチッとな!」
設定されたチャンネルを経由して流し込まれた魔力は、装置の内側に過流を発生させ金属管の前後から空気を吐き出す。
とりあえず、破裂の危険性が無いことを確認した後に恐る恐る前後の吹き出し口に指を翳したエルは、この装置の持つ力に驚嘆の声を上げた。
「本当だ!氷の様に冷たい空気と火傷しそうな熱い空気が発生してます!」
「マジかよ……うん、こりゃ確かに冷てぇ!」「ホントだ!すげぇ!」
当初は半信半疑であった“物を冷やす魔法”を創り出すことに成功した喜びは、製作チームのモチベーションを大きく向上させた。
彼らは従来の魔法の常識を確かに打ち砕いたのだ。
「これは確かに“売れる”商品になるかもな!」
この装置に投入された加工技術は別に特別なものではない。装置の製造に掛かった原価も『物を冷やせる』という価値に比べたら、鼻で笑えるぐらい低い。
「よし!こいつを量産して売ろう!この会社を大きく成長させる
「「「「え!?」」」」
ボルトは経営者として、決断した。
しかし、物事とはそう何もかもうまく行くものではない。
「う、売れねぇ。なんでだ!?画期的な“物を冷やす魔導工具”なんだぞ!?」
使い方によっては氷点下以下まで物体を冷却することも不可能ではない夢の装置。
こんな素晴らしい商品はしかし、ボルトの予想に反して全くと言っていい程、売れなかったのだ。
その原因の一つはこの魔導具が『冷却装置としては』効率が悪い物であったからである。
この装置の生み出す冷気はその原理上、送入する空気の温度に強く影響されるのだ。
外気温が20℃ぐらいなら、最高温度が約70℃、最低温度が-12℃ぐらいの空気を吐き出すといった具合に。
外気温がもし32℃以上だったらば?生み出す冷気は0℃を上回る事になる。90度以上の熱風をまき散らす癖にだ。
安定して冷気を作れる装置とは言い難いのだ。
しかし、氷点下に満たない冷風であっても涼しい風には違いが無い。
それだけでも価値を持ちえないとは言えまい。だが、
「この道具、術式も構造も簡単な癖に必要な魔力が中級魔法クラスなんですよね。短時間使うだけならそんなに魔力はいらないですけど、継続して冷風を当て続けないと物質なんてほとんど冷えませんからね」
エルがこう言う様に、この装置は魔力を大量に食い散らかすものであった。
氷点下以下の冷風であっても、水を冷やして氷を作りたいなら1時間ぐらいは当て続けないといけない。これが空気をそのまま冷媒にすることの限界だ。
このクラスの魔法を1時間もぶっ続けで使用できる人間なんて限られる。これだけで、実用性を発揮できる使い手は一気に少なくなる。
エヴァがあまりに簡単に使用して見せたため、ボルトも勘違いしてしまったのかもしれない。
これは女子供でも簡単に使える便利な道具だと。
しかし、彼女は
「だから、性急な商品化には反対したんですよ、私は!もうちょっと、じっくりと市場調査や運用ノウハウを蓄積してからがいいってあれほど言ったのに!」
言い出しっぺのエヴァもこれがそのまま大ヒット商品になるなどとは考えていなかった。
渦流空気管は地球においても、ヒートポンプや冷凍機に比べて効率が悪いと考えられていて、ピンポイント冷却のために工場の加工機や成形品を冷やす用途ぐらいにしか使われていなかった。
いくら他の冷却技術が存在しない
だが、それ以上に不足していたのは
どういう売り方をするか?販路はどうやって形成するか?そういう経営者としての経験はボルトにもエヴァにもエルにも無かったのである。
魅力的な新技術であっても、それだけでは海千山千の商人達が形成する“市場”という環境において無双できるわけは無い。
そして、ボルト自身も“物を冷やす魔法を創造する”という夢に酔っていた部分があったのかもしれない。冷静な判断力が失われていたのだ。
いずれにしても、経営者として決断をしたのは彼だ。この判断が大量の不良在庫を造り出したとしても、発明者である子供達に当たり散らすほど、ボルトも分別の付かない人物ではない。
「けど悔しいぜ、畜生!ヤケ酒でも飲まんとやってられねぇ!」
「まぁ、これでも飲んで頭を冷やしてください。ほら、工員の皆さんも」
そう言って、エヴァは用意していたとある飲料を差し出す。
それは
「……プハァ!!うめぇ!冷たぇ麦酒はこれ以上ないぐらいうめぇぜ!」
ドワーフは酒が好きな種族だ。どんな嫌な事があったとしても、仕事終わりにおいしい酒を飲めば、笑顔になれる。
「この瞬間だけはこの発明をした二人にキスしちまいたいぐらい感謝するよ。本当に!」
仕事終わりにキンキンに冷えたビールでのどを潤す。地球ではありふれた幸せかもしれないが、この世界では王侯貴族でも簡単には味わえない至上の贅沢だ。
こうして、エヴァは経営上の失敗によって発生しかけた自分達に対する
本当は今年は例年以上に猛暑が続いた8月~9月に仕上げたかった話でしたが、技術設定の考証において二転三転あったため、10月にまでずれ込んでしまいました。我ながらバルト君以上に詰めが甘い……