どこか遠くから私を呼ぶ声が脳内に響く。どこか愛らしさを感じさせるその声の反芻が私の頭から体ごと揺すったように、自分の意識が戻ってくることを実感した。
「……あれ、ここは」
白い天井、少しだけくすんだ白いカーテン。私が今いるのは病室らしい。そんな周囲の状況認識とほぼ同時に先ほどまで響いていた声が具現化した。
「千聖ちゃん!!」
「あ、彩ちゃん? それに……花音?」
「よかった……目を覚ましてくれてぇ……」
私のベッドのそばにいた二人は目を涙でいっぱいにしており、すでに目尻から溢れ出してすらいる。まるで隠そうともしない涙声。……ああ、きっと私はこの状況から察するに、長い間病院のベッドで寝ていたのだろう。たしかに言われてみれば自分の足などに違和感を感じる。きっとその怪我らしき感覚もそれに関連することなのだろう。
……そう考えた瞬間に、急に脳内の神経が全て一瞬で回路を組み上げたように私の頭に映像が流れ込んできた。思わず頭を抱える。周囲からまた私を呼ぶ声がするが、そんな声よりも私がまず感じたのは謎の浮遊感だった。
『あっ……』
『え……』
足が地面から離れて、視界が星の溢れる暗い夜空でいっぱいになったと思えば、薄汚れた鳥居の石柱が視界の端でくるりと回った。……いや、そんなわけはなく、回っているのは私だった。落ちていく私の体は動かず、辛うじて動いた首を捻じると、やけにスローモーションで地面に、それも足の階段に近づいていた。けれど、私の体とその石段の間には……楓がいた。やがて私の体が地面に近づくまでの間にドサリと音がして、何か柔らかい感触がした。
……流れてきた映像はそれだけだった。少し呆然としてしまったが、ハッと気づき、この部屋を見回した。といってもいるのはあわあわとしている彩ちゃんと花音の2人だけ。
「ねぇ!! 楓は?! 大丈夫なの?!」
「わわわ落ち着いてよ千聖ちゃん! 楓くんは……」
急に表情に影を落とす彩ちゃん。花音は固く口を結んでいた。
「……まだ目を覚ましてない。頭を打ってるから、いつ目を覚ますか分からない……だって」
「そん、な……」
ああ、私の、私のせいだ。あの夜の神社で、私が、あんなことを聞いて、何もかも嫌になって、逃げ出そうとして、階段から落ちて、楓は身を挺して、私を庇ってくれたのだ。ああ、私があのとき。
「大丈夫だよ千聖ちゃん、千聖ちゃんは悪くないよ……」
急に私の冷たかったはずの手が温められる。視線を落とすと、小さくて温かい花音の両手が私の両手を包み込んでいた。
「……花音、ありがとう」
私は花音に精一杯の笑顔を返す。それ以上に返す言葉が見つからないし、そもそも私が花音にそんな言葉を返す資格があるのすら分からなかった。
「何があったのか私には分からないけど、何より私は二人が無事で良かった……良かったよぉ……」
「花音、ええ……私は大丈夫よ」
全く説得力がないかもしれないが、私を励ましてくれる私の大切な友人に報いるために励まし返したくなったのだ。なぜ、なぜ私はこんな純粋な少女に醜い嫉妬の炎を燃やし、挙句の果てに孤独を嘆き、その炎に自らの身を投じてしまおうとしてしまったのか。……あの時、楓が励ましてくれた言葉が、どれも今の私の頭の中に響いていた。
「花音、ごめんなさい。……私、あなたのことを心の底から信頼出来ていなかったみたい。本当に……ごめんなさい」
「え、えぇっ? 大丈夫だよ千聖ちゃん!」
無垢な太陽が弾けている。それだけで私の荒んだ心は潤いを取り戻していくようだった。……そして、私が謝るべき相手がまだ他にもいた。
「それから彩ちゃん。……ごめんなさい。私、今までPastel✽Palettesのこと、何も考えていなかったわ……」
「……うん」
彩ちゃんは神妙な面持ちで私の顔を捉えていた。……正直、彩ちゃんに対してどう謝ればいいのかも、分からなかった。どう言葉を紡ごうか、悩んでいると、彩ちゃんがゆっくりと口を開いた。
「千聖ちゃん、それじゃあまたこれから、……これから私たちと一緒にPastel✽Palettesを頑張ってくれないかな? 私……Pastel✽Palettesを諦めたくない……。けど……何も良くなんなくでぇ……ひぐっ」
「彩ちゃん……」
ああ、そうやって言ってくれる存在がいてくれるだけでとても嬉しかった。なぜ今までの私はこんな大切な人たちのことを見ることができなかったのだろうか。
なんとか動きそうな足を動かして、ベッドに腰掛けた状態になる。彩ちゃんがよくわからなさそうに目を拭う腕をどけた瞬間に。
「彩ちゃん……ありがとう。私、もう一回、Pastel✽Palettesの1人になってもいいのかしら?」
「……うんっ! 勿論だよっ!! うぅ……千聖ぢゃん〜……」
「ふふっ、ありがとう。もう、そんなに泣かないの」
「だってぇだってぇ〜」
泣き虫な彩ちゃんは私の胸元でわんわん泣いている。私にはこんなに大切な仲間がそばにいたのに。そんな大切なことを気づかせてくれた3人に心の中でもう一度感謝の言葉を考えると視線を上げた。
すると、隣に立っている花音と目が合う。花音は柔らかく、とても温かな眼差しで微笑んでくれた。
ついさっきまで冷たく、寒かったはずの部屋が、どこか温かみを感じる安らぎの空間になったのだった。
彩ちゃんが泣き止んだあと、2人のお見舞いの労を労って見送ると、急にまた部屋は静かになった。私の身分のこともあってのことか、完全に個室の病室となっており、自分の身に起きたことを整理するには、逆にありがたかった。
楓はどうやら同じ病院に入院しているらしく、すぐ近くの病室にいるらしい。先程2人がお見舞いに行った時には楓は目を覚ます気配すらまるでなかったらしく、その話を聞いた私の心は、まるで太い捻れた縄できつく限界まで締め上げられているようだった。
ベッドサイドには申し訳程度の松葉杖が置かれている。といっても痛むのは右足ぐらいで、左足に体重をかければ痛みも特になく立てるほどだった。
「……病室、行こうかしら」
楓が眠っている病室。自分の体が怪我しているということを差し引いても、やはり一番心配なのは楓のことであった。私のことを庇ってくれた楓。庇ってくれただけでなく、私をここまで前向きな気持ちにさせてくれたのだった。
細くて頼り甲斐のない松葉杖をついて、部屋から出る。やけに静かな病棟のリノリウムが松葉杖と触れて鳴る音が両耳を不気味に通り抜けた。幸い階段を昇り降りすることもなく、少し歩いて件の病室の前に着いた。どうやら私の関係していることだったせいで、ありがたいことに楓も個室の病室が与えられているらしかった。
「ふぅ……」
少し、あの時のように息を吐いて、ガラガラと引き戸を開ける。窓のカーテンが開け放たれており、沈みかけの夕陽が部屋に差し込んでいた。そして、部屋の奥に無機質な白いベッド、そして。
「……楓」
話を聞く分には大怪我をしているはずなのに、楓の顔はまるで毎朝起こしに行った時のように静かに眠っているだけのように見えた。差し込んでいる夕陽は微かに楓の顔を照らし、まるで淡い光に包まれているようにさえ感じられる。そんな楓の顔を見て、安心するわけもなく、私がまず発した言葉は……。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
届くわけもない、そして、許されることのないにも関わらず抱いてしまう、そんな言葉だった。もちろんその言葉を聞いてピクリとも楓が反応するはずはなく、静かな部屋には反響することもなく私の声は消える。心の底から湧き上がってくる罪の意識はかつて体感したことのないようなものであった。
もはや自分の感情が一言で述べることはできないほどに私の心は混沌としていて、けれどあの時のように自棄になることもなく、なぜか冷たい空気に当てられて、やけに自分が冷静でいるような気がした。まるで空の上から自分とは違う自分を見ているかのような、そんな気持ちだった。
「……ありがとう」
そして……、本当であれば、もっと早くに伝えたかった、そんな言葉が不意に口をついて出た。今となってからでは遅かったのに。そんな後悔の念も、霧散させるしかないのであった。
どれほどの時間が経っただろうか。先程まで部屋に差し込んでいた陽光は消え、部屋の静けさが一層増した。時計を見ても、先ほどから時間はそう経っていなかったが、けれど、私にとってはもっともっと長く感じられた。
なぜだろうか。さっきまで混沌にいたはずの私の心は、根拠なんてない自信に満ちていた。そうだ、これは楓がくれた、チャンスだったんだ。……だから。
「ありがとう、楓」
決して届かない言葉を口にして、改めて楓の凛として、澄ました顔を眺めた。
「私、頑張るから」
何かに背中を押されるように、部屋を出た。コツコツと言う足跡は、遠くまで響いていたのだった。
猪俣小次郎様、評価いただきありがとうございました。