「その日楓くんが寝坊して、私もずっと待ってたら二人とも遅刻しちゃって。……覚えてるかな?」
病室のベッドの傍の椅子に腰掛け、花音がこちらを覗き込む。その顔には少しばかり諦めの色も見えていた。
「……いや、ごめん。覚えてない」
「……そっか」
花音の沈痛な声が漂う。俺が目を覚ましてから実に一週間とちょっとが既に経っていた。花音は必死に俺が記憶を失う前の思い出なんかを語ってくれるのだが、残念ながら俺の記憶にはそのような出来事は全くなかったのだ。ここで覚えてる、なんて返しても糠喜びさせるだけであるし、俺は正直に伝えることが憚られる事実を告げるしかないのであった。
「ごめんね、覚えてないのにいっぱい話ばっかりしちゃって」
「いや、花音が謝ることじゃないから、いいよ」
今の花音の顔を見つめることなんて俺にはできなくて、視線を窓の外に動かす。部屋の中こそ冷房が効いているために空気が冷え切っているが、窓の外は熱気を感じさせるような、真夏の太陽に熱された空気ばかりに見える。今はどうしてだか、この冷え切った部屋にも、熱された外にもいたくなかった。
花音や千聖は俺が花音の恋人だとずっと言っているのだが、その事実自体はきっと間違いないことなのであろう。しかし、俺自身の感覚がその事実には追いついていなかった。むしろ、記憶の戻らない俺がいるせいで、花音のことを傷つけ続けているような気さえする。それはまるで花音を無意識の鎖に縛り付けているようで、記憶の戻らない己を責めることしかできないのだった。記憶を戻さなきゃいけないという焦燥感は、これ以上ないほどに味わいたくないものであった。だって、花音が必死に語ってくれる話は、記憶の全くない俺にとっては、どこか遠い話にしか聞こえなかったのだから。
お互い全くの無言の時間が続く。その無言の時間にいることが居心地悪いことこの上なくて、ベッドサイドに置かれたテレビのリモコンを手に取った。
『今を羽ばたく新人アイドルユニット! Pastel✽Palettesのみなさんでーす!』
控えめに設定されたテレビの音として聞こえてきたのは千聖のいるアイドルユニット、Pastel✽Palettesという名前。そしてその画面には華やかな衣装に着飾った少女が5人、映し出されていた。
「あっ千聖ちゃんたち、特番に出るって言ってたなぁ……」
それまで静かであり続けた部屋に突然音を持ち込んだテレビに、俺たち二人ともが視線を向けた。
『ここで絶望のドン底から大復活を遂げたPastel✽Palettesの皆さんの復活までの裏側を密着してみました! VTRをどうぞ!』
テレビでは意気揚々とPastel✽Palettesのあまりに華麗な復活劇が取り沙汰されており、その様はテレビの画面から観ている俺たちから考えても凄まじいものだった。
『白鷺さんはアイドル業をこなす傍ら、女優業でもご活躍なさっていますよね』
『ええ、そうですね。こんな私を使っていただけて本当にありがたい限りです』
『そんな白鷺さんの1日のスケージュールがこちらです!』
MCの掛け声と共にスタジオの画面に千聖の1日のスケージュールが書き込まれた長方形が出てくる。朝の5時に起床、平日は学校に登校しながらも放課後から夜遅くまでレッスンに取材対応など、さらには出演している舞台の撮影やらと、過労で倒れてもおかしくないぐらいに予定がぎっしりと詰まっていたのだった。そんなテレビの画面を眺めながら、花音はほうとため息をついていた。
「……ごめんね、今日は帰るね?」
「あぁ、次はいつ来るんだっけ?」
「えっと……こころちゃんから呼ばれてるから、結構先かな?」
「……そっか、花音もバンド、頑張れよ」
「うん、千聖ちゃんほど忙しいわけじゃないけど、頑張るね」
花音の背中が遠くなっていく。先程まで微かに温かかったこの部屋は、ドアが閉まった瞬間また寒くなってしまった。
「……暇だな」
どうやら俺は、別段見舞いに来てくれるほど親しい友人がいるというわけでもない寂しい野郎だったらしく、花音が学校の帰りなどに頻繁に寄ってくれるぐらいだった。しかし、そんな数少ない訪問も、花音の悲壮な顔を見てしまうと、申し訳なさと心苦しさに溢れてしまうのだった。……こんな状態が続くならいっそ。
ガラガラっ。
俺が暇を持て余して余計な思考に浸っていると、突然病室のドアが開いた。しかし、今回の訪問者は花音ではないらしかった。
「……千聖?」
「あら、元気かしら?」
先程までテレビに映っていた人間が今突然目の前に現れた違和感で、俺の視線は今は真っ黒になってしまったテレビ画面と千聖の顔を数度往復した。
「……何か私の顔についているの?」
「あ、いや、なんでもない」
「そう……それで、調子はどう? 体とか、記憶とか」
千聖からの質問に窮した俺はしばし押し黙った。正直に言って記憶がそんな突然戻るかなんて俺には分からないし、むしろ戻った方が良いのかすら分からない。体はまぁなんとかリハビリを始めて軽く動かせる程度には楽になったのだが、きっと千聖も本当に聞きたいのは記憶のことなのだろう。
「……芳しくないようね。……ごめんなさい」
「……なんで千聖が謝るんだ?」
「いえ、なんでもないの」
「それで、人気急上昇中のアイドルは仕事で忙しいんじゃないのか?」
先程のテレビ番組ではこんなところに来る余裕がない程度には忙しいようにしていたものだから、その辺りを問いただそうとしてみる。やけに嫌味な言い方になってしまったが、俺の感情が混沌としているせいでそんなところに構っている余裕はなかった。
「え? 先週まではたしかに寝る時間もないぐらい立て続けにお仕事があったけれど、少し時間が出来たからお見舞いにきただけなのだけれど」
まるで嫌味をそっくりそのまま返すかのような返事。しかし、ある意味記憶を取り戻そうと焦燥に駆られていた俺の気持ちはこんなやり取りで意外と静まったのであった。
「……ありがとう。まぁ、生憎見舞いに来てもらっても、多分面白い話は何も出来ないよ」
そりゃあこちとら病院に鮨詰め状態。それどころかその病院に至るまでの記憶は一切ゼロ。話せることなんて、花音のことぐらいしか。……こんな話、千聖にしたって仕方がないだろうに。そんな惨めな気持ちを隠すために、わざとさっきから俺は嫌味な言い方をしているのかもしれない。
「そう」
千聖は短く返すと、徐にさっきまで花音の腰掛けていた椅子に腰を下ろす。そこから見下ろされる千聖の目線は、どこか先程の花音の眼と同じような、悲しい色をしていた。
「……りんご剥いたら食べる?」
「えっ」
「りんご、食べられるかしら」
「あっ、あぁ……」
小さく会釈を返すと、千聖はりんごの皮を慣れた手つきで剥き始め、あっという間に小皿に切ったリンゴを盛り付けた。
「はい、好きな分だけ食べなさい」
「……ありがとう」
先程まで感じることのできなかった温かな優しさが妙に新鮮だった。しゃくりと音を立てて口の中で崩れるりんごのおかげで、心はひとときの安らぎを得たようだった。まだ夏の真ん中で旬よりも少し早いはずのりんごは、どこか爽やかな風味がした。
「忙しいのにわざわざ来てもらって、ありがとう」
まだ食べ終わらないうちに、ふと湧き上がってきた言葉を千聖に告げる。それまで黙っていた千聖は驚いたようにこちらを見たが、またその顔に翳を落とした。
「いいのよ、償いなのだから……」
「……償い?」
「……いいえ、なんでもないわ。ごめんなさい、りんご全部食べられそうかしら?」
「え、まぁ、うん」
千聖はまるでこれ以上の話を拒むように背後の窓に振り返り、外をぼんやりと眺めていた。そのどこか愁いを帯びた表情と、靡いて陽光を反射させた金の髪に見惚れてしまう自分がいたのだった。