「……千聖、待って」
「え……?」
考えが何もまとまっていないまま、呼び止められた千聖はゆっくりとこちらを振り返る。いやまぁ、俺が呼び止めたのだから立ち止まるのは当たり前っちゃ当たり前なんだけど。
俺が特に何かをすぐに口走るわけでもないので、千聖は首を傾げながらも一旦こちらに戻ってきた。千聖の靴と病室の床が鳴らすコツコツという音がやたらと耳に残るような気がした。頭の中は余計に混乱した。
「えっと、何か用かしら?」
この想いを打ち明けるのはきっと不誠実極まりないことなのだろうということは重々承知している。しかし、この狭い病室という中で押し込められ続けた気持ちは時が経つほどに大きくなって、そんな想いと現実、枷となっていたかつての俺の遺産の乖離は余りにも大きくなってしまっていた。自分ではまるで居所の感じられない過去を理由に抑え込むのは、どうやらもう限界のようだった。
きっと俺はこれを口走ったことを後悔することになるだろう。けれど限界だったと諦めをつけて、それを自分を許す口実にしているんだ、きっと。
「……今度のお見舞いの時にでも何か欲しいものでもあるの?」
「いや、ごめん。そんなんじゃないんだ」
呼び止めたっきり、ずっと反応を見せない千聖がこちらを訝しげに覗き込むが、千聖の見当のついていないような反応のあたり、今から俺が千聖に告げるのは突拍子もないことなのだろう。だからこそのクズ野郎なんだから。そう自分に言い聞かせると、俺は千聖の方を向き直った。
「千聖に、言いたいことがある」
「……改まって何かしら?」
心臓の動悸が一層激しくなる。自分自身では抑えられなかった、吐露の欲に恐れをなしていたのだ。
空気が水を打ったように静まり返る。千聖の菫色の瞳が、俺の姿をくっきりと映していた。その透き通るような目線はまるで俺の心を遍く照らして遠くから眺めているようだった。妖のような、意識するだけでこちらが狂ってしまいそうな、そんな視線に釘付けにされながら、俺の口は言葉を紡ぐ。ひどく震えさせながら。
「俺、千聖のことが、好きだ」
「……え」
言ってしまった、という事実への後悔より、伝えたいという欲望が勝ってしまった。千聖は目に見えて戸惑っている。当たり前だった。
「それって……どういう」
「もちろん人としても好きだけど、それ以上に……」
「え? ちょ、ちょっと待っ」
千聖は声で静止してくれるけれど、そんな静止など何の役にもたたなかった。
「千聖は、どんなに忙しい時でも、俺のことを静かに見守ってくれて、優しさで包んでくれる」
「待ってってば」
「そんな千聖のことが好きだ」
「待ってって言ってるでしょう?!」
刹那、千聖の声が耳を劈いた。その声にハッとさせられて、顔を上げれば、目の前にあった千聖の透き通る瞳には、薄らと涙が溜まっていた。
考えは一切まとまっていなかったはずなのに、自分でも驚くほどに流れるように出てきた告白の言葉。きっと道徳だとか、モラルだとかそういう言葉のフィルターで見たら、すぐ弾き出されるに決まっているはずなんてことは分かっていた。分かっていたはずであるし、千聖はきっとこんなものを求めていないということも理解していた。けれども、それを抑え切ることはできなかった。
「あなた、自分の言っていることの意味がわかっているの?!」
今まで、といってもそんな長い期間ではないし、俺と千聖の関係はこの真っ白な病室だけの関係なのだけれど、かつて聞いたこともなかったような千聖の大声。普段の千聖、それはテレビの向こう以外にはこうしてお見舞いに来てもらえるときぐらいしか見れないのだが、そんな普段見る淑やかな姿やよく聞く落ち着いた口調からは想像もできないほどの様態に、俺は酷く狼狽した。
「……まぁ」
そんな俺には返事を濁すことが精一杯で、深く考えもせずにそんな言葉を口走ったことを激しく後悔した。後悔すると分かっていたはずなのに言ってしまった、ほんな軽率さにすら後悔していたのである。
「私は……私は、白鷺千聖なの。Pastel✽Palettesの……白鷺千聖なのよっ。私に……そんな気持ちを向けられても困るだけよ」
千聖の声も、酷く震えていて、その元凶は火を見るよりも明らかであった。必死に涙を流すのを堪える顔を見れば、一目瞭然であった。けれど、千聖には俺にも分からないようなとても大きな葛藤を抱えているように見えた。千聖はまるで自分に言い聞かせるように言葉を紡いでいた。だからこそ、余計に俺は、何と千聖に返して良いのか、分からなくなった。
「それは、分かるけど」
「分かってるなら、どうしてっ……どうしてそんなこというのよっ!!」
心まで貫くような鋭い千聖の視線は、そんな声とともに俺を貫いていった。それを酷く悔いても最早そんな吐露を取り消して帳消しにすることなんて出来なくて、千聖の言葉には反論することすらできなかった。
千聖は暫く俯いていたが、やがて顔を上げると、こちらをまじまじと睨み、呼吸を整えて、叫んだ。
「……あなたには、あなたにはっ、花音がいるんでしょう?!」
「あっ……」
その言葉を聞いた瞬間、脳内に激痛が走った。脳の神経の回路という回路全てに雷が落ちたかのように電流が流れた。決して自分が触れてはならなかった部分、タブーに触れてしまったのだと、直感的に理解した。直感的には理解しつつも、それが恐ろしくて、目を背けた。いつのまにか過去の俺がそこにいたような気がしたのだ。それが恐ろしくて、恐ろしくて、とても向き合うことなんて、できなかった。
千聖はひどく泣き崩れ、そこにアイドルとしての面影はない。しかし、それを招いたのは紛うことなく俺なのであった。千聖からかつて聞いたことのないような悲痛な顔に、俺は何も言うことができなくなってしまった。
「ふざけないでよおっ……、私は……私はっ、なんのためにっ」
「……ごめん」
「謝るぐらいなら最初から言わないでよッッ!! バカッッ!!」
千聖の瞳から溢れそうだった涙は千聖が踵を返して振り向く髪と共に宙に消えて行った。とんでもないことをしてしまったという後悔の念は、どうしても消えることはなかった。そもそもそういった自責の気持ちすら見ないふりをしようとするのは、千聖に対しても、そして花音に対しても不誠実なのかもしれない。
馬鹿か。そんな罵倒の言葉ですら今の俺には生温いだろう。
そんな不誠実でクソ野郎な俺は、ただ自分の行いを悔いて、そんな中途半端な気持ちでしてしまった告白で、千聖を辛い目に遭わせてしまったことを只管に詫びることしかできないのだった。そんなことしても意味もなく、千聖に届くわけもないというのに。
もうすでに外はすっかり暗くなっており、病院の窓から見えるのは、高遠に広がる宵闇の世界。闇に落ちた町並みは微かに文明の明かりが点されているだけで、ここから近くに見えるのは、せいぜいこの白い無機質な箱庭から出るための道にか細く灯る、頼りない数本の街灯の灯りだけだった。そんな僅かな灯りに照らされた道に僅かながら影が見えた。走るようなスピードでこの箱庭から逃げ去っていくその人は、どんどん遠くに消えていく。咄嗟に追わなければ、そう思った。けれども、俺にその人影を追い求めることは、少なくとも、今の俺には、できなかった。どうすれば良いのか、細く、細く伸びていた一筋の糸すら見えなくなった俺の意識は、全てを忘れて、その夢幻の闇に溶けるように消えて行った。
「千聖……、本当に、本当に、ごめん」
伝わるわけもない、無力な謝罪を呟きながら。
Shun1114様、評価していただきありがとうございました。