「本番入りまーす! 3,2,1!」
バラエティ番組の収録が始まる景気の良い声。わずか数ヶ月前、芸能界から干されそうになっていた私がこんな番組に出させてもらっているだなんて、この上ない幸運なのだろう。ならばその運と恩に報いて、事務所のために、局のために、そして、ファンのために全力で活動するのが、望ましいアイドルというべきものだろう。
しかし、実際の私の心境は、そんなどころではなかった。
「あはははは!!」
番組でスタジオ中が爆笑の渦に飲まれている時も。
「わっ、わたちは!」
彩ちゃんが緊張で噛んでいる時も。
「また来週〜!!」
番組の締めとなる時も。
まるで何も頭に入ってこない。自分が受け答えしたのかすら覚えていない。完全に意識はそんな収録のことになんか向いてなくて。私の頭はただ同じ思考をぐるぐると回り続けていた。
収録が終わってもう時間は晩御飯を食べていてもおかしくない時間になっていた。テレビ局の楽屋は誰もおらず、不気味なぐらい静かで、より一層私の思考回路を狂わせていた。
『俺、千聖のことが、好きだ』
つい2日ほど前に聞いた楓の声が脳に無限に反芻した。悍ましい毒が身体中を蝕んでいるような、そんな感覚すら覚えた。数ヶ月前に忘れようとして、無理やり押し込められたはずの感情がまた沸々と湧き上がってくるのが分かった。分かったからこそ、二度と同じ轍を踏むまいと、同じ台詞で楓に反駁したのだ。
「はぁ……はぁっ……」
思い返せば思い返すほど、身体中の震えが止まらない。最早何に対する恐れなのかすら分からない。花音に対してなのか、楓に対してなのか、それとも、己自身に対してなのか。
そもそも、私が楓の見舞いに精を出していたのは、間違いなく己の過去の過ちへの償いであった。許されることのない罪への贖罪として、そのやり場に迷い、見出した贖いが、まさにそれだったのだ。詰まるところ楓の記憶を奪ってしまったという罪悪感が私を突き動かしていたのだ。それで苦しむことならば、甘んじて受け入れることこそ、自分が受ける至極当然の報いであると思っていたのだ。
だから、だからこそ、自分が恐ろしい。そのようなしょうもない、楓から中途半端な好意を見せられただけで、憎むべき恋心をまた燃やしかけている自分が悍ましいのだ。真に中途半端なのは、私なんだ。
「なんで……」
あんなことを言ってきたのだ。最早やり場を失った恋心の抑えどころは、楓の言動、ひいては楓自身への恨言でしか最早抑えられそうになかったのだ。叶うはずのなかった恋心が燃やされかけたとなれば、それを消すためには、楓のことを嫌うしかなかったのだ。
なんて、残酷なんだ。いつか感じた、そんな感情が喚び起こされて、私の目からはいとも容易く涙が溢れ落ちた。
「もう……どうすればいいのかっ、分からないのにっ……」
ただただ、抑え込むしかなかったドロドロとした感情は茹で上げられて溢れ出しそうになっている。私は必死に蓋をするように、楽屋のドアを思い切り閉めた。
惨めな葛藤のうちに、あの日のような夜がやってきた。本当に、あれから夜の時間なんて碌なことがなかった。ずっとずっと、苦しい思いをしてばかりだった。そんな私は夜が嫌いになった。
「えっ」
急にポケットに入れていたはずのスマートフォンが振動する。嫌な予感がした。したけれど、見ずにはいられなかった。恐る恐るポケットから振動し続けるスマートフォンを取り出した。
画面にあった名前は、『松原花音』。私は一度安堵した、しかし、その安堵は仮初のものでしかなかったことに気がついた。それでもまだ振動を続けるスマートフォンに、私には通話に応じるという選択肢しかなくて、画面をスライドした。
「……もしもし?」
『あっ千聖ちゃん、ごめんね? こんな夜に』
あぁ、よかった。花音は普通だ、そんな風に思えた。いや、思い込むことができた。けど、まるで自分は普通じゃなかった。息が荒い気がした。
「それで、えっと、どうかしたの?」
『うん……その、相談があって』
「……相談?」
花音からの相談。まるで数ヶ月前の自分達を見ているようだった。私がかつて狂い始めたあの時。今でも忘れることはなかった。私の鼓動はかつてないほどに速まっていたに違いない。
『楓くんが、記憶戻すの、どうしたらいいかなぁ……』
花音からきた相談は、かつて受けたことのあるような相談だった。そもそも楓が記憶を無くした原因ははっきり言って私にあるに違いなかった。だから、私がこの問いから逃げることは許されないことだった。けれど、どうしたって戻らないものは戻らなくて、私にはどうすればいいかなんて見当もつかないことであった。
「……さぁ」
『……やっぱり、思い浮かばないよね』
「ごめんなさい……」
『ううん、千聖ちゃんは、悪くないから……』
花音からそんな言葉がかけられるたびに、私の中の罪悪感は大きくなっていった。なぜ私は親友をこんな目に遭わせているのかと。そんな後悔をしていると、ひどく悲しい通話は、静寂を迎えていた。
『早くしなきゃ……、早くしないと……』
「えっと……花音? ……大丈夫?」
『とられちゃう……から』
「……えっ?」
静寂はこちらだけのようで、耳を澄ませば、花音が小さく呟いている声が聞こえてきた。それは明瞭ではなく、はっきりとは聞き取れなかったけれど、どことなく、怖さをも孕んでいた。そして、私の思考は、そこではっきりと止まってしまった。
『ううん、……ひぐっ、ごめんね? 楓くん確か今日退院だったよね? 今度3人でご飯食べよう?』
「えっ、ええ。そうね、今度休みが取れそうなら伝えるわね」
『……うんっ! ありがとう千聖ちゃん!』
ピッ、という音とともに通話が切れた。最後の方では花音の声はなんとか明るく保たれていた。通話が切れるとともに、はぁとひとつため息をついた。
また辺りは静寂に支配された。夜も遅い閑静な住宅街では、生活音すらあまり聞こえることはなかった。だからだろうか、妙なほどに思考が繰り返されていた。
花音は一体何にそこまで怯えているのか。勿論楓の記憶が戻る方法について何度も助言を求める以上は、記憶を戻すと言うことは至上命題であるには違いなかった。
そして、花音がそうも怯える理由は、理由は。
頭の中を駆け巡る回路が繋がってしまった。もし、花音が楓を私に取られることを怯えているのだったら。無論、かつての、ずっと前の私であればそんなことは杞憂だと、何の躊躇いもなく花音に言えるはずだった。
しかし、今の私にはそんなことを言えるはずがなかった。だってたった今、楓に沸き立つ恋心に揺れてしまったのだから。
ああ、自分が悍ましい。消えてしまいたい。
『今がチャンスなんだぞ』
私の中の悪魔が惑わせる。
『あの時は酷く拒絶されたのに、だ』
私の中の悪魔が嘲笑う。
『その恋が、叶うんだぞ?』
私の中の悪魔が囁いた。
かつては一縷の希望すらなかった状態だったのに今は楓の記憶が消えた以上、私にもこの淡い恋心を叶える余地があるのだと、私の中の悪い心がそう囁いていた。それがひどく穢らわしい。けれど楓の記憶を消したのは私であった。そんなもの、冷静に見れば、私がそこでその想いを叶えるのは、あまりに卑劣であった。
いやだ、いやだ、いやだ。なぜ神様は私にこんな分かりやすく罠だらけの蜘蛛の糸を垂らしたのだ。良心に従うならば、楓の教えてくれた心に従うならば、そんなもの掴むどころか触ってはいけない。けれど、そんなもの掴みたくなってしまって当然じゃないか。だって、だって。
今の楓が、好きなのは、私なのだから。
この糸を掴めと叫んだのは、楓だった。
『楓を奪え』
違う!!!!
そんな邪悪な考えが思い浮かんだ瞬間、頭を思いっきり揺さぶった。
違う。
違う。
違う。
私は、誓ったんだ。
己のなした罪に向き合うと。
死ぬまで、私はこの罪を贖わなければならないのだと。
一つ息をつく。そうだ。そうなんだ。
楓の隣にいるのは、私じゃない。
私じゃないんだ。
目の前はぼやけて何も見えていない。そんなもの人生と一緒なんだ。私だって、まさかあの喫茶店で花音から相談を受けた時だとか、もっと遡れば、あんな新学期の始まりの時だなんて、こんなことになるなんて想像のつくはずがなかった。
だから、これで、これで、いいんだ。
そう思った瞬間。頭に衝撃が走った。
「え」
私の掠れた情けない声が漏れた。頭が、熱い。まるで地獄の釜で湯掻かれたように。痛い。痛い。
気がつけば私の体はアスファルトに伏していた。横たわった体をなんとかしようと、辛うじて顔を上げた。
私の眼前に立つ、そいつは、狂気を孕んでいた。何の因果か分からない。もしかするとバチが当たったのかもしれない。
「あぐっ……」
「白鷺千聖……、こんなに上手くいくやつが世の中にはいるのに俺は……」
恐ろしい。私は、間近に死の恐怖というものを感じた。そいつが手に握りしめる鈍器は、まるで死神の鎌のように映った。
どこの誰とも知らないやつに恨まれ、そして死ぬ。親友を裏切り、最愛の人を裏切ったやつには相応の末路なのかもしれない。
死が近づいてくる。
嗚呼、こんなことなら。こんなことなら。
最期に、楓に、『好き』ってちゃんと、言えたら良かったのにな。
私って、本当にバカね。