Resets   作:敷き布団

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第16話 千聖の淪落

眼前に迫ってくる狂気。私は死を覚悟して、視界に暗闇を灯した、はずだった。

 

騒ぎ立てるような人の声、直後に聞こえてきたのは怯み、苦しんだ声。まるで私が先程吐き出したような。

慎重に目を開けた。恐怖と混乱で涙に打ち震えた瞳は、すぐには外界の様子を映さなかった。辛うじて映し出されたのは、先程私を襲ったばかりの暴漢が走り去る姿。ちょうどその時、地に臥していた私の体が抱え上げられた。

 

「おい千聖!! 大丈夫か、返事しろって!!」

 

「あ……」

 

何故だろうか。その声を聞いた私はひどく安心して。何か心が温かいもので満たされていくような感じがして、私を抱き抱える楓を一瞥した。その優しげな瞳から零れ落ちてくる涙は真実の味がして、ふと力が抜けた私はそのまま意識を失った。

 

何かが壊れた音がした。

 

 

 

何かに包まれているような感覚がして、目が覚めた。ベッドサイドに置かれた勉強机の電気だけが部屋をぼんやりと照らしている。カーテンは閉められていたが、僅かな隙間からは何も見えことを考えると、どうやらまだ夜の時間帯らしい。

私はベッドに寝転がっていたらしく、ゆっくりとその身を起こした。少しだけその体は気怠さを感じるものの、起き上がれないほどに重傷、というわけでもないらしい。

 

「……楓」

 

その体を起こした瞬間、薄暗い椅子の上に座り、眠りこけている人物が目に入った。それは紛れもなく、私を死の淵から救い出した楓の姿だった。

私の微かな声が聞こえたのか、楓が反応を見せた。とても小さなその声。しかし不思議とか細いわけでもなく、その声だけで安心感が私を包んだ。

 

「……よ、起きたのか、千聖」

 

「えぇ……、その……ありがとう」

 

けれど、その安心感もほんの一瞬のこと、落ち着いてみれば、今の楓は最も会いたい人物であり、会いたくない人物であった。まだ私の心は揺らぎに揺れている。冷静に考えると今の私の心はほんの少しも落ち着いていないのかもしれない。

 

「いいんだよ。無事で良かった」

 

「……うん」

 

ベッドの横に転がっていたスマートフォンの画面がぽっと光る。別に何でもない通知だったのだが、その画面を見るに、今は日付も変わる間際らしい。それを考えれば私はきっと2時間近く眠っていたのだろう。

……これ以上楓に迷惑はかけられない。それに僅かながらでも踏ん切りがついた自分の決心を揺らがせたくない。今も私の心は崖っぷちを彷徨っているのに。

 

「……ごめんなさい。もう帰るわね」

 

「待てよ、まだフラフラしてるじゃねぇか」

 

だから、逃げようとした。

 

「あっ……」

 

けど、楓は、逃がしては、くれなかったんだ。

楓は、立とうとしてもまだ立ち眩みがする私の手を掴んだ。そんな言葉に甘える形で、またベッドにへたりと座り込んだ。

でも、力が抜けたのは、頭部をやられたせいだけではないだろう。怖かった、しかしそれ以上に嬉しくて、まだここから離れたくなかった。ここにいれば全てが救われるような気がして。勘違いかもしれないけれど、この安息の地の傍に居続けたかったのだ。

 

「……私、襲われてたのね」

 

だからこそ、どうでもいいことで話を伸ばしてしまう。そんなこと確認せずとも、明らかであった。

 

「あぁ、よく分かんないけどな」

 

「ここまで連れてきてくれてありがとう」

 

改めて部屋を見渡せば、ここはかつての私が足繁く通っていた場所。楓の自室だった。日課のように楓を起こし、私が楓に決して悟られぬよう、密かに淡い恋心を隠し続けてきた場所だった。

 

「……なぁ、千聖。言いたいことがある」

 

「何、かしら」

 

「……その、この間はごめん」

 

きっと楓は病室での一件を謝っているのだろう。けれど、謝るべきは私であるはずだった。だから、ゆっくりと首を振った。

 

「……俺、中途半端な気持ちで、千聖に告白しちゃってた」

 

「うん……」

 

「でもさ、冷静になって考えて、それでわかった」

 

「……うん」

 

空気が静まり返る。薄暗い部屋は、私に浮遊感すら与えていた。私の冷たく、凍った手に、楓の手が添えられた。温かかった。

 

「今日、千聖が襲われてるの見かけて、本気で分かったんだ」

 

「うん……」

 

楓の手に力がこもった。私はそれに釣られて隣に腰かけた楓の顔を見上げた。楓の目は真剣だった。

 

 

その酷く温かく、酷く鋭い視線に、私は、堕ちた。

 

 

「俺、千聖のこと、本気で好きだ」

 

「うんっ」

 

温かい涙がこぼれ落ちてくる。もう、私の心は限界だった。

楓の温かい抱擁が私を包む。ずっと求めていた抱擁。私は、堕ちてしまった。堕ちるしかなかった。もう伝えずに後悔したくなかったから。

 

「私も、私も貴方のことが好き、ずっと好きだった……。けど全部抑えつけてっ」

 

「……うん」

 

「愛してるの、貴方のこと。もう離したくない……離したくないっ……!」

 

「千聖……」

 

すぐに壊れてしまいそうなほどに脆い楓の声が響いた。脆いのは私の心も同じことで、つい先刻まで保てていたはずの良心は、私の作り出す虚像、仮初のものでしかなかった。

自分がどこまでも堕ちていくのが分かった。これまで、どれだけの葛藤を繰り返しても手に入れることの出来なかった多幸感が私を支配していた。かつては望むことが許されないと思い込んで、望むことを自らに諦めさせていた。けれど、今はただ自分が後悔しないために、それを望むのだ。望まなければ後悔するのは自分だから。その後悔は、あの時、痛いほどに理解していたんだ。

 

恋は盲目。よく聞く言葉であるが、今の己がまさにそうであった。まさに盲目だ。だってそうだろう。今の私は楓さえいれば、それでもう構わない。私にそう言わせるまでに私を狂わせたのは、楓なのだから。酷く甘い蜜の味は過去の自分を犠牲にして漸く辿り着いた末であった。

 

狂うことが、幸せだった。

 

恋心を抑えつける自分はもういない。そんな倫理だとか、体裁だとか、どうでもいい。今は再び燃やされたこの炎に溺れることしか考えることが、出来ないんだ。

 

「千聖っ……」

 

いつかは'私'を慰める抱擁だった。これは、私を縛り付ける抱擁だった。痛みすら感じるほどの強い束縛。しかし、その束縛すら愛おしい。

 

「楓ぇ……」

 

だから私も、己の枷の先を結びつける。二度とその枷が外れぬように。二度とこの檻から脱獄しないように。この檻は、私たちの愛の檻だから。

予定調和のように。私たちはこの檻に閉じ込められた。そして互いを受容れて貪りあう。

 

 

誓いのキスは、背徳の味がした。

 

 

 

 

 

長すぎて息が出来なくなるほどの口づけだった。けれどまさにそれこそ溺れているようで、私の心の中は快感の渦に塗れていた。

 

「……ぷはっ……はぁっ、はぁ……」

 

ほんのり上気して、痙攣のような息を吐く楓は扇情的であった。けれど、そこでその興奮に身を落とせるほど私とて余裕はなくて、ただ二人で重なり合うように、ベッドに倒れた。

 

「……楓」

 

「……ん」

 

言葉を交わさずとも、きっと私の言わんとすることは伝わっているだろう。楓の僅かな微笑みがそれを物語っていた。

ただただ温かくて、今まで決して得ることの出来なかった温もりを享受するので精一杯だった。

何も二人の間の言葉などないのに、途轍もない落ち着く空間だった。少しだけ浸った余韻を楽しみ終わり、二人とも体を起こしてもなお、この心は満たされ続けていた。一度幸せを味わうと、もっと欲しくなった。

この幸せを永遠に。密かに心の中に誓ったんだ。

 

 

 

街頭が僅かに照らす道を歩く。アスファルトの地面は夏の湿気を吸い込んでやけに熱くて不快なはずだった。けれど、そんなこと、今の私にはどうでも良かったのだ。だって、私の隣には楓がいるから。

 

「そういえば、それどころじゃなくって忘れていたけれど、退院おめでとう」

 

「あぁ、ありがとう。無事元気になったよ」

 

「えぇ、病室の時の楓は陸に打ち上げられた魚みたいだったものね」

 

「なんだそれ」

 

くだらない話でくすりと笑う。こんな日常を感じたのはいつぶりだろうか。

 

「それにしても、千聖も災難だったな」

 

「まぁ、まさか襲われるなんて思っていなかったけれど」

 

その時の私は、それどころじゃなかった、なんて言えば楓は怒るだろうか。

 

「まぁ、今度も俺が守るよ」

 

「……ふふっ、心強いわね」

 

「……まぁ、といっても限界はあるけどさ」

 

「あら、守ってくれないの?」

 

「ずるい言い方だな」

 

それはもちろんずるいやつだから、なんて無粋なことを言いはしない。少し茶化したつもりだけど。茶化された楓は渋そうな顔でうんうん唸っていた。

 

「……まぁでも、俺がいつでも守れるとかそんなわけではないから、なんとかして欲しいけどな」

 

「なんとかって何よ」

 

「その、護身用の武器とか?」

 

「ふふっ……なにそれ」

 

楓からそんな言葉が聞けるなんて思わなかったから、思わず笑ってしまう。けど、楓の顔を見るに真剣な物言いだったらしかった。

 

「……千聖のこと、二度と失いたくないから」

 

「……うん」

 

そんな言い方はずるいだろう。そんなこと言われたら、楓の言うことなんてどんなことでも聞いてしまう自分がいた。きっと私は理性だとか、そんなものが可笑しくなってしまったのだろう。

どんどん自分が狂っていく感覚がした。もう完全に心は楓に堕ちてしまっているのだろう。

 

「ねぇ、楓」

 

「ん?」

 

だから、だから最後に、楓を試すことにした。

 

「花音は、どうするの?」

 

「……」

 

罰の悪そうな顔を浮かべる楓。そりゃそうだろう。むしろその顔を浮かべるべきは私かもしれないが、そんなことを考えられない私はやはりどうやら狂ってしまっているらしい。

 

「……質問が悪かったわね。どうして楓は花音じゃなくて、私を選んだの?」

 

聞きたいのはそこだったのかもしれない。私は怖かったんだ、花音に楓を取られることが。私も花音も、それはきっと一緒だったんだ。だから最後に問うたのだ。花音じゃなくて、私である理由を。

 

「……花音が好きなのは、俺じゃない。前の島崎楓なんだよ」

 

「あっ……」

 

だから、その答えを聞いて私は誓ったんだ。

今の楓に真正面から向き合おうと。そのままに愛そうと。ありのままの、今の楓を愛するのが、私の使命なんだ。

 

だから、愛してる。楓。

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