もう日付はとっくに変わっており、物静かな住宅街は歩く人すらいない。月明かりとゆらめく街灯でしか照らされることのない道はどこか幻想的だった。
「……と、送ってくれて、ありがとう」
「……いいんだよ、あんなことがあったわけだし、心配にもなる」
私の中の果実が実ったその晩。楓は危ないからとわざわざ私の家まで送ってくれた。といってもまぁ数時間前にはああやって名も知らぬ誰かに襲われかけたわけだから、楓が心配をしてくれるのも無理のない話だ。
「まぁ、今日は色々あったけど、お疲れさま」
「ふふ、楓こそ」
口数は不思議と少ない。でも、道中ではいっぱい話したし、それで私が不満を垂れることなどない。
「……ねぇ、少し屈んでくれないかしら?」
「ん?」
そう言って私よりも背の高い楓を少し屈ませる。少し屈んだぐらいでもまだ私より背が高い。でも、そういうところも安心感があって良いのかもしれない。
「……なぁ、腰痛いんだけど」
「ふふっ、そのまま目を瞑りなさい?」
「ん」
何が起こるか知ってか知らずか、呑気に目を瞑って待つ楓。そんなとこも愛おしくて仕方がなかった。
「んっ……」
背伸びをしながら、プルプルと震えながらも、その端正な口を塞ぐ。瑞々しさも感じられるその唇をほんのちょっとだけ味わって、その唇を離した。
「……ん、そゆことか」
「……えぇ、びっくりしてるわね」
「何のことだか」
「貴方は嘘ついてる時いつも右手をポケットに入れてるのよ」
「……そうかよ」
ズバズバと心の中身を言い当てられるのが面白くないのかそっぽを向く楓の体に倒れ込む。意外とがっちりしていて、触れているだけでやっぱり、心が温かくなった。余韻も冷め切らぬうちにそんな抱擁を解いて、踵を返した。
「ふふっ、おやすみなさい」
「ん、おやすみ」
私が扉を閉める最後の最後までこちらに手を振ってくれる楓。そんな仔犬のような可愛さと唇に触れていた繊細さを確かめながら、暗い玄関に上がったのだった。
翌日、今日は幸い仕事の予定も夜までなく、日中は何も予定のない日だった。所謂半日オフというやつだ。私がすること、そんなの決まっている。きっと私の立場にあるどんな人でもそう答えるだろう。まぁ、
「……楓のところに遊び行こうかしら」
アポ無しだけれど、楓だって予定がないことは昨晩とうに確認済みだった。意気揚々と私は家を飛び出す。どうせこんな朝早くなんて、楓が起きてるわけはなくって。私が住宅街を少し歩いて楓の部屋に辿り着くと、案の定楓はぐっすりと眠っていた。
「……起きなさい、というのはちょっと悪いわね」
昨晩私を絶望から救い出したばかりの英雄。そんなヒーローはその勇敢さが見出せないほどにあどけない表情で目を瞑っている。私はそんなヒーローに、かつての日常のような秘事の口付けだけでは飽き足らず、自分がようやく得た安息の地を堪能すべく、まだ目覚めぬ楓の隣に潜り込んだ。
「ふふふ……楓、貴方は私だけのモノ……」
強く強く抱きしめる。もう二度と離さない。
楓は渡さない。誰にも、絶対に。
……とても温かく、馥郁としたこの空間。昇天しそうな幸福感に溢れたその場所にいると、私はすぐに意識が落ちてしまったのだった。
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「んん……」
何かが隣で動くような感じがしてぼんやりと目が開く。眠っているのはあまり見慣れない天井の……、そういえば俺はこの間漸くあの白い牢獄から抜け出せたのだった。そんな頭の整理をしてふと隣に視線を移した。
「すぅ……、すぅ……」
とても安らかな寝息を立てて俺の右腕にしがみついている千聖の姿。一体いつの間に家にいたんだ。というかなぜ俺の家にいるのか。そんな謎を問い詰めようかとも思ったが、正直眠気とか、そういうのが勝って、起こさなくてもいいやという結論に至る。というかこんなに幸せそうに寝てる千聖をどうして起こすことができようか。
今までまるで見たことのないよう笑みを浮かべながら眠る千聖。そんな顔を見れば見るほど、昨晩の千聖の真剣な顔が思い起こされた。
「『花音は、どうするの?』……か」
昨晩の千聖の、まるで俺の心の中の覚悟を確かめるような、そんな問いかけ。そんな問いかけがなされた瞬間俺の脳はまた、あの痛みを起こした。考えれば考えるほど苦しくなって、そして、結局逃げ続けてきた。
「……どうすればいいんだよ」
逆ギレをするような答えしか出てこない自分が情けない。詰まるところ、あんなに必死になって俺を追い求める花音にこの事実を切り出す勇気がないのだ。チャンスはきっとあった。昨晩の寝る直前、花音からメッセージアプリで明後日の予定を聞かれ、悩んだ末に正直に暇だとは返したものの、そこで言うことも出来たはずだった。もちろん、対面で言わないというのは不誠実なのかもしれないけど。だからといって、明後日会うのだとしてもこれを告げる勇気があるかと言われたら、自信を持って首肯することはできなかった。
俺は、まさに、醜く臆病な人間だった。そして、俺は一緒にいるのが楽だった千聖を選んだ。選んだことは後悔していない。俺が千聖のことを好きだと思う気持ちはきっと本物だと思う。けれど、俺が今こうして得ている時間は、全て俺の臆病さが産んだものだった。後ろめたさを感じるようだった。
「はぁ、……ん?」
俺が思考をクリアにするために息をついて、起き上がろうとすると、俄に千聖の掴む力が大きくなる。これじゃ起きれないなと思っていると、ぶつぶつと寝言が聞こえた。
「……えへへ、楓……すき……」
俺があれこれ悩んでいる間も、千聖は柔和な笑みを浮かべている。俺はきっとこれを守るために、その言葉を口にしたのだろう。そんな風に考えると、何故だか分からないが腑に落ちた、そんな気がした。
意味もなく無機質な天井を憂いながら眺めることなんてやめてしまって、隣で眠る千聖の微笑みを眺めた。もう起きなくても良いや、そんな風に考えてまた体をベッドに戻す。どうせ明日と同じで今日も用事はない。ならちょっとぐらいこんな穏やかな時間を享受してもいいだろう。そんな考えと睡魔に呑み込まれるように、俺の意識はまた落ちていった。
「……ふふ、貴方は誰にも渡さない……から」
何かが聞こえたけど、それが何なのか分からないまま、俺の意識は闇に落ちた。
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ハロハピの活動がなんとか落ち着いた。私の心は気が気じゃなかったけど、なんとかやり切った。きっと悟られることもなかった、そう思っていた。
「あの、花音さん」
「どうしたの? 美咲ちゃん」
そんな私に後ろから声をかけてきたのは美咲ちゃんだった。もう自宅への帰り道についていて、もうじき別れ道というところだった。
「その……言いにくいんですけど、悩んでることとかないですか?」
「……えっ、悩んでること?」
「花音さんが、時々すっごく辛そうな顔してる時があって……だから何かあったのかなって」
美咲ちゃんにはどうやら私の心の内が全てとはいかないまでも悟られてしまったらしい。けれど、こんなに濁った醜い心を伝えられるほど、私は大人ではなかった。
「……ううん、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
だから、嘘をつくことにした。こうすればきっと、バレることなんてないから。
美咲ちゃんとはそのまま別れて一人帰り道を歩く。さっきのやり取りの中で速くなった鼓動の音は収まりそうにはなかった。楓くんが退院してから1日経った。退院には立ち会えなかったし、千聖ちゃんに聞いても何も良い案は出てこなかった。きっと楓くんの記憶が戻ることなんて、そんな望みは決して大きいものではないのだろう。言葉にすれば悲しくなって泣いてしまうから、もう考えるのはやめてしまいたかった。けれど、そうすれば、全てが終わってしまうような、そんな気がしたから。楓くんとの繋がりが、全て消えちゃうような気がしたから。
考えに考え抜いた私は、今までしてこなかったことをしてみることにした。今まではただかつての思い出を語り、そうして楓くんの記憶がどこかで引っかかってくれないかと、そんな風に信じて病室で楓くんと対話を続けてきただけだった。
けれど楓くんももう退院したし、怪我ももう治っている。なら、折角だから、と考えついた。明日は楓くんも予定がないらしい。ならば、きっと良いだろう。暴れ回る心を抑えながらメッセージアプリのチャット欄を開いた。これがもう最後のチャンスだと、自分に言い聞かせながら。
『楓くんといきたいところがあるの! 一緒にいこう!』
Shun1114様、感想をいただき、ありがとうございました。とても参考になります。自分でも執筆のモチベーションが上がっているのを感じます。
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