朝目覚めると、少しだけ複雑な思いで枕元のスマートフォンを開いた。
『楓くんといきたいところがあるの! 一緒にいこう!』
自ら招いた事態とはいえ、どんな顔をして花音に会えばいいのか分からないまま、そして、やはり千聖とのことを切り出すことが出来ぬまま家を出た。
外は夏の様相で、ジリジリと太陽が地上を焼き付けている。その暑さは不快感すら催すほどだった。地図アプリを見ながら辿り着いた、指定の場所で花音を待っている間も、周囲に日陰はなくて、そんな炎天下で立ち続けたのだが、こんなふうに待つという時間が続くと、考えたくもないことを考えざるを得なくて、やけに時間が長く感じられた。
「楓くん、お待たせ!」
遠くからそんな声がして、そちらの方を振り返る。そちらを見れば水色の涼しげな服を身に纏った花音がいた。いろいろと思うところはあるけれど、ここまで来たからにはもう逃げることなんてできない。そう自分に言い聞かせて腹を括った。
「よっ、久しぶり」
なんとか違和感のないように、と振る舞おうとするのだが、よそよそしい態度になっていないだろうか。そんなことを考えてもそれを指摘してくれる人なんているわけがないのでもう考えないことにした。
「それで、行きたいところってのは?」
「……うん! 色々あるから順番に回っていきたいなーって!」
「そっか。じゃあ行くか」
「うんっ」
自分が知らないはずなのに、どこかで見たことのあるような光景に違和感を覚えた。けれど、花音といる以上、そんな違和感を感じても戸惑っている余裕もなくて。
「……え」
「あっ、……えっと、手、繋いじゃ……だめかな?」
突如握られた掌にびくりと反応してしまう。こちらを見上げる花音の瞳は揺れていて、顔に暗い翳を落とし込んでいた。そんな状態の花音を見てしまっては断ることも出来ず。
「あっ」
「行こうか」
「うん」
自分の心を握りつぶしながら、その手を握り返した。
それから沢山のところを周った。最近まで入院していたために、全くその様相を知らなかった花咲川の街の中。住宅街ばかりだと思えば大きな河川沿いには木々が立ち並んでいて、整備された遊歩道のようになっている。遊具や藤棚の日陰のある公園や、住宅街のなんてことのない丁字路。そろそろ小腹が空いてきた頃かと思う時間になれば、学生らしくファストフード店に立ち寄り、軽くポテトを摘んだりもした。偶然にもそこは花音のバイト先らしく、花音も漸く落ち着いたように頬を緩ませていた。
どこもかしこも、来たことがないはずなのに、来た覚えがある場所であった。その違和感はその旅の途中ずっと抱いていたもので、そんなことに心が囚われていると、時間はあっという間に過ぎていった。花音と待ち合わせをしていた時は、時間の流れがとてつもなく遅く感じたのに、気がつけばもう日は暮れ始めていた。
「……ふぅ、今日は疲れたね」
「あぁ。体力落ちてるのかな……はは」
乾いた笑いが出た。入院していたために体力が落ちていたのだと思うが、最後だと言われて連れてきてもらったこの場所。俺の眼前には、都会には似つかわしくない小高い山が聳え立っている。いや、標高で言えば絶対に高いわけじゃないのだが、一日中歩き回った俺からするととても高い山に見えたというだけだ。
「……今から登るのか?」
「あはは……、体力保つかなぁ?」
「……頑張ります」
夏の暑さはまだこの日暮れの時間でも続いていて、花音とわずかながらに繋がれている右手も汗ばんでいた。そんなことも気に留める間もなく、何やら石段でできた階段を登り始めた。
「ふぅ……」
「手すりあるから持っていいんだよ?」
「……あぁ、そうする」
人が5、6人並んでも裕に歩くことのできる階段。その先はまだまだ遠く、ふと気を抜けば左右から迫ってくるような背の高い木々に呑み込まれそうな感覚すらおぼる。上の方から吹き下ろしてくる風は頬を撫でながら、何かを囁いているような気さえした。
「頑張って、もうちょっとで上まで着くから」
「……あぁ」
石段の隣に並べられた石柱には、何やら人の名前のようなものが連なって彫られている。なんとも独特な雰囲気を持つここは、上に近づくたびに背中を何かに摘まれているような気がした。まるで、そこへ行くことを止めるように。
てっきりこの夏の暑さでかいているのだとおもっていた汗は、本当は冷や汗だったことに気づいた。妙な悪寒が止まらないが、花音はズンズンと石段を登り続けている。その顔には決意が示されており、口がきっと結ばれていた。容易には話しかけられないような雰囲気を醸し出しながら、花音は足を休めることなく石段を登っていた。俺はその雰囲気に当てられ、軽口を叩くことなんてできるはずもなく、わずかに唇を震わせながら、花音についていくことしかできなかった。
石段の曲がり角にたどり着く。花音は俺の数段先を行っていて、その曲がり角を俺より先に曲がって登る。俺もそれに続くように曲がった。
曲がった先にあったのは、石でできた鳥居だった。そんな大きなものではない。収まらない動悸に困惑しながら頂上に辿り着いた。奥には社だって見えていた。
「……ここは」
途端に頭に鋭い痛みが走る。最近幾度となく感じたこの鋭い痛み。自分の中の何かがもがいている、そんな痛みだった。
「ここはね」
花音は登ってきた石段の方に振り返る。釣られて俺も振り返った。空気が凍る。
「楓くんが、記憶を喪った場所、だよ」
そんな花音の声が耳の奥に響いた。
刹那。
まるで今まで見たことのない景色が脳を駆け巡る。あまりに膨大すぎるその量に息が苦しくなる。
『私ね。幼馴染、やめたいな』
花音から言われて驚いた時。
『ひたむきな千聖がかっこよくてなんか好きだな』
夜に千聖を励ました時。
『……これが、私の気持ちだよ』
花音から告白された時。
『俺に、任せて』
千聖が道を踏み外すのを止めようとした時。
『俺には、花音がいるから』
俺が千聖を拒絶した時。
『俺、花音のこと、好きだ』
『楓くんっ、私も大好きっ!!』
俺が、花音を、愛していた時。
「う、あっ……あっ……」
「楓くん……?」
「ああぁぁぁぁぁっ?!」
流れ込んできた映像。それらはどれもが全て俺が俺であった時の姿だった。そこで、俺は……俺は。
俺が選んだのは、花音だったのに。
「楓くんっ?!」
震えが止まらない。心臓が叫んでいる。呼吸すら苦しくなって、俺の体は地に倒れんとしていた。
「大丈夫?! ねぇ、楓くん、落ち着いてっ!!」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
俺を優しく抱きとめた花音の温もりが途端に心に広がった。呼吸は荒いが、周りの音が聞こえるようになった。
ただ、落ち着けば落ち着くほど、頭は余計に混乱した。
なぜ俺は、忘れていたんだ。
なぜ俺は、見捨てたんだ。
なぜ俺は、間違えたんだ。
もう何も分からなくなって、気がついた時には、俺は鳥居の下に座っていた。
「あっ楓くん! 大丈夫?」
こちらを隣から覗き込む花音。苦しくなって、苦しくなって、俺は花音に抱きしめられていた。
「大丈夫だよ……大丈夫、大丈夫」
意識するまでもなく、俺は花音を抱きしめ返して、ただ無力な涙を流すのみだった。
「……全部、思い出したんだね」
「あぁっ……うぅ……花音」
「どうしたの?」
俺は顔も上げられず、花音に顔を埋めたまま、力なく言葉を吐き出した。
「本当に……本当に、ごめん」
「うん、うん、辛かったね……、しんどかったよね……」
ただただ体から力が抜けて、何も考えられないほどに頭はぐちゃぐちゃして。俺は花音に謝り続けることしかできなかった。
泣き疲れて、ただただ、只管に謝り続けた。
しかし時間は過ぎ去って夜になってしまった俺は、花音に諭されながら石段を降りて、下に着いた。
「本当に……花音、ごめん」
「……ううん。忘れてたんだから、仕方がないよ。気にしないでね」
「……ありがとう」
「うん、楓くんも今日のところは気持ちを落ち着けて?」
「……そうする。本当に……ありがとう」
そのまま俺は、向こうの道へと帰っていく花音を、力なく眺めていたのだった。
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今日の分の仕事も漸く終わり、家にたどり着く。本当ならばこのまま楓の家に行きたいぐらいだったけれど、2日連続で押しかけ続けるのも申し訳なくて、自室でゆっくりとしていた。
突然スマートフォンの画面が光った。着信だった。楓からだと思って飛びついた私は、楓ではなく花音がその相手であることを知って、少し気持ちを落ち着かせた。そして、その電話に応答した。
「もしもし、花音?」
『あっ千聖ちゃん!!』
「ど、どうしたの?」
未だ嘗てないほどに花音の大声を聞いた。おそらくこの先これより大きな花音の声など聞くことはないだろう。
『楓くんがっ、楓くんがっ』
楓が?
『記憶を取り戻したのっ!!』
えっ。
楓が、記憶を取り戻した? 一瞬花音の言っていることの意味がわからなかって惚けてしまった。けれど、花音と通話している以上、何も返さないわけにもいかず。
「そ、そう! おめでとう!」
『うん、ありがとう!』
心の片隅に僅かに残った心でそう返すと、電話は切れてしまった。いや、むしろ切れてくれてありがたかった。冷静に今の状況を考え直した。
楓が記憶を取り戻した? ということは、あの神社での出来事以前のことを思い出した、そういうこと。
「あっ……ああっ……」
途端に怖くなった。もしも、楓が記憶を取り戻したのだとしたら、私は……ワタシは……。
私はあくまでも楓が記憶を失くしてしまった後、その窪みを埋めるための後釜でしかなかったとしたら……。嫌な予感がして、身体中がガタガタと震え出す。
怖い。
恐ろしい。
「はぁっ、はぁっ……」
楓は、私を、捨てるのだろうか。
いや、そんなことはないはずだ。楓は私のことを愛してくれているんだ。私も楓を愛している。ずっと、ずっと、ずっと。
誰よりも楓のことを愛しているのは私だ。私なんだ。
楓を愛しているのは私。楓が愛しているのは……私だ。
「はぁっ……はぁっ……」
銀とドス黒い赤が混じり合って、静かに床を濡らして、己の心を慰めるのだった。