部屋は何も見えないぐらいに真っ暗だ。天井にある電気は点いておらず、分厚いカーテンによって日光は完全に遮られて、まだ時間は昼間だというのに夜のように真っ暗だ。
そんな真っ暗闇の静寂の中、俺はただ後悔の海に溺れていた。
俺は一体どこで道を踏み間違えたのか。
花音の告白を受けたことか?
千聖を応援したことか?
千聖をあの日あの場所に呼び出したことか?
それとも、千聖の告白を受けてしまったことか?
何一つわからない。この部屋に光が一筋も見えぬように、哀れでクソな俺のことを導いてくれる光なんて一筋もなかった。至極当然のことだった。
俺には、花音か、千聖かなんて、選べない。選ぶ資格すらない。けれど選ばなくちゃいけない。両方だなんて、そんな馬のいい話はないし、きっと花音も千聖も認めないだろう。俺だってそんなのは嫌だ。
……けど、どっちかを選んで、どっちかを捨てるのはもっと嫌だ。
「どうすりゃいいんだよ……」
そんな泣き言を言ったところで、間違いなく自業自得であるし、答えてくれる人間もいなかった。それに、きっと答えなんてものはなかった。
そもそも、俺に選択肢なんてあるのだろうか? 花音を選んで千聖を捨てるのも、千聖を選んで花音を捨てるのも、どっちも間違いなんじゃないのか?
あの神社で千聖とともに落ちた夜、あの、かつての俺が選んだのは花音だった。
そして記憶を無くしていた頃の夜、あの、かつての俺が選んだのは千聖だった。
ならば、今の俺という人格は誰を選ぶべきなのか。最初の記憶のままに花音を選ぶのか? それとも時間の移り変わりとともに変わった千聖を選ぶのか?
花音のことも、千聖のことも、好きだ。でもその好きはどちらも紛れもない好きで、どちらがより大きなものかすら分からない。どちらかを選んで、もう片方を嫌いになるなんてこともできない。八方塞がりだった。
「はぁ……、……ん?」
最早時間の流れすら感じられない、光の失われたこの部屋に急に光が現れた。ベッドに投げられていたスマートフォン、それが通知の音が鳴るとともに光ったのだ。ゆっくりと手を伸ばしてその画面を見る。画面には『松原花音』という文字とともに、メッセージが表示されていて、ただ無心で、その画面を開いた。
画面が開いたら数秒のラグがあって、メッセージが表示された。とても長い文章だった。思わず息が止まった。
『楓くん、まずは記憶が戻っておめでとう。楓くんが私のことを思い出してくれて、本当に嬉しかったよ。でもそれだけじゃなくって、言いたいことがあります。
楓くん、ごめんなさい。記憶をなくしている時の楓くんに酷いことをいっぱいしてしまいました。記憶喪失の楓くんはまるで小さい頃からずっと一緒だった楓くんとは違うようですぐには受け入れられない私がいました。それで楓くんの記憶が早く戻れと思って、きっとすごい苦労をかけてしまったと思います。本当にごめんなさい』
「花音……」
花音の真意が聞けて俺も嬉しかった。だが、それ以上に俺は溢れ出る涙を止めることができなかった。俺は、なんてことをしてしまったんだ。
俺は一体、いつまで大切な人を裏切り続けるんだ。
気がついたら、体は動き出していた。さっきまで暗闇の部屋の中にいたはずだったのに、あっという間に家を飛び出していた。涙を流しながら街を駆ける俺の姿はたいそう滑稽だっただろう。きっとひどく愚かだったに違いない。
少し走って、街中の一軒家の前に着く。その家の表札には『松原』と書かれて、掲げられていた。俺は迷わず、その黒いインターホンを押した。
「はーい……って楓くん?」
部屋着で現れた花音は、俺が来たことにとても驚いていたが、そんな驚きに構う心の余裕すらなかった。早く、早く伝えなくちゃいけない。
「俺も、話があって」
「えっと、上がって?」
静かなリビングに流れるように通され、すぐさま俺は頭を下げた。
「花音……本当に……本当に、今までごめん……っ!」
「えっえっ?」
今までの自分の行いの全てが罪悪感となって俺に滝のように流れ落ちてきた。俺は、裏切り者の烙印を押されようが、仕方がない人間だった。浮ついた考えに流され、自分の考えを正当化して、花音を、見捨てたんだ。
「俺……花音がいるのにっ……千聖と付き合って……花音のこと見ないフリしてっ」
「……うん」
涙が止まらない。泣いてちゃダメだ。泣きたいのは花音の方だろう。そんなふうに自分を鼓舞させても、自分が重ねてきた罪はあまりに重すぎて、懺悔の涙は止まることを知らなかった。きっと俺の言葉自体もぐちゃぐちゃで何を言ってるか分からないだろう。考えすら全部ぐちゃぐちゃなのに。
「本当にっ、本当にごめん、ごめん花音っ……!」
「……うん、大丈夫だよ……」
泣き崩れる俺を花音は優しく慰めていた。
どれぐらいの時間が経ったか分からないが、漸く落ち着いてきた俺の頭を、花音はただ黙って撫でていてくれた。泣いていても仕方がないと思い立った俺は、涙を拭い、花音の方を改めて向き直った。花音もその双眸を赤く腫らしていたが、ただ真っ直ぐにこちらを温かく見てくれていた。
「……本当に、ごめん」
「うん。……千聖ちゃんと付き合ってたんだね」
「……ごめん」
「謝ることじゃないよ。私だって……楓くんに辛い思いさせたから……」
「そんなこと……」
ないと否定しようとしたけれど、それはまるで今までの自分を全て裏切るような気がして言い淀んだ。それに、花音の反応を見れば、それは何かがありそうだった。
「……気づいてたのか?」
「……うん、なんとなく、分かってたよ。だからこそ、千聖ちゃんに取られるのが怖くなって……楓くんの記憶を早く取り戻そうとしてたから」
「そっか。……そうだよな、本当に、ごめん」
深々と頭を下げた。きっと俺の言葉にそんな価値すらないのかもしれないが、けれどこうする他はなかったのだ。
「ううん……、でもせめて私との関係を決着つけてからにしてほしかったかな」
「……ごめん」
もはや返す言葉もなかった。
……けれど、その言葉は過去の自分だけでなく、今の自分の背中も押していた。
ただ、静寂がこの空間を支配する。普段はわずかばかりでも聞こえてくるはずの街の喧騒すら、全く聞こえてはこなかった。
「……それで、楓くんはどうするのかな?」
どうする、それが何のことかなんて、聞き返すまでもなかった。花音の薄紫の瞳は揺れていた。それは強い覚悟を秘めた、真剣な眼差しだった。
「私はね、楓くんがどんな選択をしても、怒らないから……」
自分の中で、答えは出ていた。ゆっくりと、とてもゆっくりと口を開く。
「……俺は、——」
「……うん。千聖ちゃんにはもちろん、言うんだよね?」
「……あぁ。これが、せめてものけじめ、だから」
それでしか、もう俺は誠実さを表すことが出来なくなってしまったから。俺には、その手段しか残されてないんだ。
「……不安なんだね」
「まぁ、な」
俺の表情を見るだけで俺の考えていることを見抜いてくるらしい、流石は付き合いの長い幼なじみと言ったところだろうか。
「……きっと、千聖ちゃんも許してくれるよ」
「そう……かな」
花音の後押しは凍えそうな心を溶かしてくれるほどに温かかった。
「楓くんはいい人だもん。私が保証するよ」
「……いい人か」
「うん、だってその証拠に、あの夜だって、千聖ちゃんのことを、庇って助けたじゃない」
……あの夜か。俺が思い出したくもない忌々しい夜。俺が選択肢を間違えた愚かしい夜。あの夜さえなければ、こんなにみんな狂わなくて済んだのかもしれない。……全部、俺のせいなんだ。だからこそ、千聖に伝えなくちゃならないんだ。
「……俺、そんなに、……花音たちが思うほどに、いいやつじゃないから」
「……えっ?」
短く言葉を残して、俺は花音の家を後にした。
ふぅと小さく息を吐く。さぁ、伝えにいかなくちゃ。それが俺に出来る精一杯の誠意だから。
だから、待っててくれ。千聖。
次回、最終回です。