私の心の動揺は収まらない。積もりに積もった心の澱みは、私の思考を混沌とさせていた。
楓が記憶を取り戻したこと、それは本来であれば喜ばしいはずだった。楓が病室で長い眠りから醒めた時、そして記憶喪失になっていることが分かった時、私は酷く落胆したはずだった。かつての楓はもういない。楓は私のことを覚えていない。そのことがわかった瞬間、まるで今自分の立っている地面が崩れ落ちていくかのような錯覚を覚えた。
けれど、楓の記憶喪失は、後々になってその意味を変えた。楓の葛藤は私の、楓への態度を変えることになった。
そして、私は誓ったのだ。私はこの楓を、今のままの楓を大切にしようと。だから、私は楓からの愛に、至高の愛で返すことを決意した。真に楓の恋人になると決心したんだ。
楓からの連絡は来ていない。楓が記憶を取り戻したと言うことを花音から聞いてから、楓とは話をしていない。だから、私は怖くなって、己の身を削ることでその恐怖を忘れることしか出来なかった。そして、私は自分に必死に言い聞かせる。
『楓は私だけのモノ』、それはまるで呪詛のように。
「……えっ」
突如、枕元のスマートフォンが反応する。私はそれに飛びつくように画面を見た。
楓だ。楓から、連絡が来たのだ。来ていたのは、『今から会えないか?』と、そんな短いメッセージだった。もちろん断ることなんてなく、是が非でも会いたかった。会いたくなかったけど、会いたかった。だから、『もちろん』と返した。楓はどうやら家にまで来てくれるらしい。もうじき外も暗くなるからだろう。
「……ふぅ」
リビングに降りて、ソファに腰掛けて一息つく。インスタントで作った紅茶からは湯気が立ち、口をつけるのだが、どうしようもなく苦かった。
鼓動の音は全く止む様子を見せない。今更ながらに、会うことを約束した自分を恨んだ。
ピンポーン、という高い、無機質な音が響いた。楓だ。すぐに分かった。いじっていたスマートフォンを投げ捨てて、玄関に走った。
ガチャリとドアを開けた。
「……よっ」
「……楓。いらっしゃい、上がって?」
「……ああ」
楓は何も言わずに私の後をついてきた。バタンとドアの閉まる音がする。階段を登って楓を私の部屋に通すと、楓は押し黙ったまま、クッションのところに腰を下ろした。
「今お茶淹れてくるわね」
「……あぁ。ありがとう」
一旦下に降りて、お茶を注いだ湯呑みと先ほど入れた紅茶を取ってくる。そして机にことりと置いた。私は少しだけ隙間を開けて、楓の隣に腰を下ろす。
「……そういえば私の家にくるのって、初めてかしら?」
「あぁ。そういえば、そうだな」
話がまるで弾まない。楓の雰囲気が、どこか恐ろしくて、なかなか私も話を踏み込めずにいた。けれど、聞かずにもいられなくて、一息ついて、楓の顔を見た。
「……記憶、戻ったのね」
「あぁ。戻ったよ」
「……おめでとう、でいいのかしら?」
「……ありがとう、それで、話がある」
息が詰まった。うんともすんとも言えなくて、辛うじてギリギリでうなづいた。楓の口から出てきたのは、意外な言葉だった。
「まずは、ごめん。……千聖は俺の花音の関係分かってたはずなのに、俺は記憶がないことを免罪符にして、千聖に惹かれて、そして、告白したんだ」
「……謝ることじゃ、ないから」
震えが止まらなかった。この話だけは、したくなかった。でも、私だってそれが分かって、楓に縋り、愛を伝えたのだから、逃げるわけにはいかなかった。
「……俺、記憶戻って、花音に謝ったんだ。謝って、許してもらえるような話でもないけど、でも……俺、千聖にも謝らなきゃいけないから」
「謝る……?」
「……きっと、俺、千聖のこと一杯傷つけて、これからも傷つけることになるから」
どうして……? どうして、楓が私を傷つけることになるの? 言葉の意味が分からなくて、混乱した。身体中が震えていた。怯えなのだろうか。フラッシュバックのように、過去の楓との思い出が流れてきた。それはとても温かいもので、心に安寧をもたしてくれたが、どんどん薄く消えていった。
怖い。
この先の、楓の言葉を、聞きたくなかった。……だって、これ以上、これ以上聞いたら、私。
壊れちゃうから。
「千聖、……俺たち、友達に戻ろう」
「……えっ」
時が止まる。世界の万物にヒビが入って崩れる音がした。バクンバクンという心臓の鼓動すら聞こえなくなった。
楓と……友達に戻る? 言っていることの意味が何も分からない。だって楓は私の恋人で。私だけが、楓のことを本当の意味で愛せるのに。
どうして……?
どうしてそんなことを言うの……?
「……ごめんなさい、意味がよく分からないわ。……もう一度、言ってくれるかしら」
きっと私の声は酷く震えている。……だめだ。そんなこと言わないで。楓、貴方は私の全てなの。貴方が居なければ、私は私で居られないの。
分かってしまった。
私は、壊れるのだと。
「……千聖、俺と、別れてくれ」
「なんで……?」
「え?」
「なんで、そんなこと言うのよ?! 私だけがっ、私だけが貴方のことを愛せるのに!!」
もう私は止まらない。止まれなかった。この世の全てが黒く染まっていく。
「……ごめん。俺は……俺は千聖だけを愛せないよ」
「あっ」
ああ、違うんだ。あはは……、そういうことだったのね。
「違う……」
「えっ?」
「そんなことを言う楓は……楓じゃない!!」
「ぐうっ」
目の前の男を壁際に追い詰めた。そして、その首を思いっきり絞めた。
返せ。
楓を返せ。
ワタシだけの。とても愛しくて大切な、たった1人の愛する人を返せ。
楓を返せ。ワタシの楓を返せ。
「ワタシの楓を返せぇぇッッ!!」
そんな呪詛が響き渡った。私の華奢な体では、そんな長く絞めることなどできず、振り解かれた。しかし、そいつは肩で息をしていた。
「……ち、さと……。ごめん……」
「……え」
ふと、耳に届いたその声、その声は紛れもなく、私の愛した楓だった。けれど、今更自分で犯した大罪を訂正できることなどなく。
「千聖は……俺のこと、本気で……愛、してくれたのに……ごめん」
「あっ……ああ」
あぁ。全て、無駄、だったのだ。私が、真剣に楓を愛そうと決心したことは。楓を私のものにすることなど、出来なかったんだ。
ああ。ああ。
「あああぁぁぁぁぁっっ!?!?」
私は、狂った。壊れちゃったんだ。
遠くに見えた、私を守る、楓からの愛の印。どうせ叶わない恋なら……いっそ、このまま。
細く長いプラチナブランドは、深紅の赤に染められた。
人間の心など弱いもので、私の自我なんて簡単に崩れてしまった。芸能界を長く生き延びてきた分強いだなんて自惚れていたけれど、実際は私はたった一人の男に狂わされ、その男を狂わせた。
あぁ、楓、愛しているわ。けれど、ごめんなさい。貴方のくれる愛の形じゃ、私はもう満足できなくなってしまったの。
私は、もう、壊れちゃったから。
楓の体が、力が抜けたように倒れていく。私はそんな楓を抱きとめた。最後に楓が見せたその顔は、微笑んでいるように見えた。
アイシテル。
私の歪んだ微かな声は、この世で一番愛する人に届いただろうか。
「……何、してるの」
茫然と立ち尽くして、どれぐらいの時間が経ったのだろうか。いや、実際はそんなに経っていないのかもしれない。
「……花音?」
後ろから声がして、振り向いた。なぜここにいるのか、そういえば玄関のドアの鍵だなんて閉めてなかったような気がする。そんなどうでもいいことばかりが頭に浮かんだ。
「何してるって……え……」
私の目線は部屋に戻された。私の足元にはドロドロとした赤黒い液体と、かつて愛した恋人が動かなくなって、横たわっていた。
「え、あ……かえ、で……」
「何してるのって聞いてるんだよ?!」
「あ……あ……」
私の手には血塗れのナイフがあって、何が起きたかなんて明白だった。私が……楓を……ナイフで……。
「なんでっ……なんでっ……」
胸ぐらが掴まれて揺さぶられる。視界がぐにゃりと曲がって、暗くなっていく。
「みんなで戻ろうって……ううっ」
「うあ……あ」
息が出来ない。視界が真っ白に染まっていく。
「どうしてっ、どうして千聖ちゃんは二度も楓くんを殺したの?!」
「え……あ」
「あの夜……楓くんを突き落としたのは千聖ちゃんなんでしょ……?!」
「……え」
溢れ落ちた雫とともに掴み上げられた手が離されて、なんとか呼吸ができるようになった。そんな花音の声を聞いた瞬間、頭の中をあの日の夜の光景が駆け巡った。
『俺には、花音がいるから。だから、……ごめん』
『いやあぁぁぁぁっっ!!』
私は理解した。この瞬間、全てを失ったことを。ならいっそ楓とこのまま二人で。
『あっ……』
『え……』
ほんの一瞬の気の狂いだった。気がつけば私と楓は二人で宙を飛んでいた。
そうか、今まさに神社の石段から落ちているのだった。数秒続いたその浮遊の後に、強い衝撃が身体中に走ったのだった。
あれが……全部私のせいで。そして、今も。私が全て、
あぁ。
「あっ……あっ……」
あぁ、全部。もう、手遅れなんだ。楓への私の愛も。私たち3人の、あの日常も。全部……全部。
はは……。
「あははははははは!!!!」
狂った笑いが虚空に響く。
赤く染まった銀の刃が私に突き立てられた。
あぁ……、全部、全部終わったんだ。
ごめんなさい。花音、楓。
そんな想いは届くはずもなく消えていった。
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気がつくと私は血だらけのナイフを握りしめ、千聖ちゃんに突き立てていた。
……一体どこで道を間違えたのだろう。……でもこれで良かったのかもしれない。
足元では、楓くんと、千聖ちゃんが力なく横たわっていた。私の愛は、どこで間違えたのだろう。
「あはは……」
全ての力が抜けて、床に座り込む。床は血溜まりになっていて、とても座れるような場所じゃなかったが、ただ茫然とするしかなかったのだ。
「……あはは」
そっか、今なら自暴自棄になった千聖ちゃんの気持ち、よく分かるなぁ。結局のところ、きっと楓くんも、千聖ちゃんも、私も、誰一人として悪い人は居なかったんだもん。私が千聖ちゃんの立場でも、きっと何一つ変わらなかった。だから、私には千聖ちゃんを恨むことなんてできない。
「あはははは……」
時の流れが感じられないほどに、部屋は静かで、無機質に感じられた。雫が一滴、また一滴と滴るように落ちていく音だけが響く。
私たちの複雑に絡まった運命の糸は、こうして全て事切れる運命だったんだ。
「……千聖ちゃんも、居なくなっちゃった……」
そもそも手を下したのは、自分だと言うのに。
全てが全て、後悔しても、もう遅い。……そして。
「楓くんも居なくなったのに……私が、私だけがっ、生きている意味なんて……ないよね」
……私は、全てに終止符を打った。
ごめんね、千聖ちゃん。……楓くん。
長い間のご愛読、ありがとうございました。
また他の作品でもお会いできることを心よりお待ちしております。