人に出逢いを感じさせる春がやってきた。窓から外を見渡せば、まだわずかに薄暗い街の中で煌々と赤く燃える朝日に照らされて、濃いピンクの桜がどっしりと構えて佇んでいる様子がうかがえる。
今日は二年生最初の登校日ということで、花音と一緒に学校まで行こうと約束をしていた。でも一緒に行くのは花音だけではなく、花音には言っていないけれどあいつも連れて行こうとして、玄関から靴を履いて表に出る。レオンだってまだ眠っているような朝の時間。あいつは、楓は起きているだろうか、起きてるわけないわよね。
まだ人通りもない住宅街の細い道を数十メートル歩いて呼び鈴を鳴らす。鳴らしても人が出てくるわけがなくて、いつも通り、ブロック塀の上に置かれた鉢植えを持ち上げて鍵を手に取る。朝の空気の冷たさに当てられた鍵はやはりヒンヤリとしており、朝の眠気がさらに醒めさせられるようだった。
家に入って階段を登りノックすることもなく部屋のドアを開ける。……やっぱり起きてもなかった。それどころか起きる気配もなさそうなぐらいに健やかな寝息を立てて熟睡モードらしい。
「おはよう楓。起きなさい」
名前を何度呼びかけても全く起きる気配はなく、揺すっても同様だった。多分だけど経験上、本気で揺すって大声で呼びかけないと、この状態の楓は起きないだろう。
……。はぁ、馬鹿らしい。何より情けない。こうやって
情けないとは思いつつも、卑怯だとは思いつつも、惨めだとは思いつつも。
私は、何度目かすら分からない口づけをした。
暫くぼーっとしてしまっていた。どうやらこいつの寝顔をぼんやりと眺めていたらしい。でも、起きている様子は全くと言っていいほど見られないので、そんな姿は見られていることもないだろう。さて、そろそろ本当に起こしましょうか。
「楓、起きなさい」
「……んんぅ」
掛け布団をめくる。きっとこの寒い時期にこれをされるのは嫌なのだろう、体を捩って、しかし起き上がろうとはしない。
「もう……起きなさいっ!」
「……ん、寒っ」
バサァッ、という音とともに掛け布団を完全に剥ぎ取った。流石にこれには堪らず楓も起きようという気になったようだ。
「……おはよ千聖」
「えぇおはよう。下で待ってるから早く準備して降りてきなさい」
「……はい」
やりとりだけ見ればまるで自分が楓のお母さんみたいに見えてしまうだろう。それでも、こんな関係性もいいなと思えてしまう自分は、それはそれで情けなかった。
数分経って降りてきた楓に無理やり朝食を食べさせ、朝の準備を粗方させると、花音と約束した時間に遅れないように楓と二人、家を出たのだった。
「おはよう千聖ちゃん! 楓くんもおはよう!」
「えぇ、おはよう花音」
「ん、おはよ……ふぁ〜……」
「あはは……楓くんなんだかとっても眠そうだね……」
花音は元気よく挨拶を返しているというのに、楓はやっぱり未だに眠気と闘い続けているらしい。いつも、去年からずっと朝の時間帯で登校時間がかぶる時はさっきのように起こしにいっているわけだが、やはり楓の朝の弱さは尋常ではない。
「ってもう……こんなところにも寝癖ついてるじゃない……」
「ん……」
ブロック塀に気怠そうな体を預けていたからか、私がさっきまでは見えなかった角度に楓のぴょんとまとまった寝癖を発見する。さっき楓が朝ごはんを食べている間に寝癖は全て直せていたはずなのに、また何かの拍子に跳ねてしまったのだろうか。この茶色の跳ね毛はなかなかの曲者のようで、何度抑えつけも跳ね上がってくる。……これはもう無理そうね。
よくよく見ると、寝癖だけではなく、制服の襟の部分も立っている。……全く、楓は本当にダメなんだから……。
「もっとシャキッとする! そんなんだから高校生にもなって彼女の一人も出来ないのよ?」
「……余計なお世話だっての」
ついつい強めに刺さるような事実を突きつけてしまったが、楓にとってはそんなことどこ吹く風のようで、軽く受け流すとまた朝の睡魔に負けそうになっている様子だった。そんな自由な風に、なんの柵もなしに居られる事が少しだけ、ほんの少しだけ羨ましかった。
「あはは……千聖ちゃんもそこまでにしてあげよう?」
「……花音がそう言うなら」
花音はこのやり取りに呆れているような反応でさりげなく私を止めてくれる。花音が居てくれると、私の心がこうもすぐに穏やかになるのだから、本当に花音の存在はありがたかった。けれど、その場が落ち着いたら、花音は何か考え事をしているように難しい顔をして、どこか宙をぼんやりと眺めていた。
「……花音? どうかしたか?」
楓はそういうところにはなぜか無駄に鋭く気づいてしまう。暗い顔をしていた花音の目線は、急に覗き込んだ楓の顔の方を向いて。
「……ふぇっ?! な、な、何もないよ?!」
素っ頓狂な声を上げて、思いっきり仰け反る。でもそんな反応もどこか小動物じみていて可愛らしい。どこか守ってあげたくなるような愛嬌がある。
「ふふっ、びっくりする花音も可愛いわね」
「か、からかわないでよ〜」
「おー、可愛いぞー?」
「楓くんまで……」
花音をからかう流れはそのまま花音の家の前で続き、花音が若干拗ね気味に可愛らしくぷりぷり怒りながら歩き出したのを見て、楓と二人、向き合って微笑みあったのだった。
何でもないことが、幸せに思える。そんな幸せに浸らないと心の安寧が得られそうにもなかった私は、一体全体、何か思い通りにいかない世の有象無象に疲弊しきっていたのかもしれない。私は一体何に不安を、窮屈を、そして嫉妬を抱いているのだろうか。それすらもはっきりしない。
私のそんなマイナスの感情を他所に、世間は春の訪れだの桜が満開だのゴールデンウィークだのと騒いでいるが、憂鬱に塗れている私にとってはそういう流行りの文句全てが煩わしかった。……タレント、芸能人としてはそれはある意味失格なのかもしれないが、そういう煩雑な情報はただただ無情な言い方ではあるけれど無駄なものだった。私の心の安寧には何ら利するものではない。儚いほどに……こんな言い方をすると、あの厄介な幼馴染を思い出すから使わないようにしているのだけれど、散ってしまう桜は儚いのだが、季節が過ぎればその幽玄を忘れてしまう。私はそれが嫌だった。ずっとただ
こんな冗長な思惟も、ただ一時の安寧には資するけれど、ずっと続けられるものではないし、少し寒々しかった。
だからだろうか、隣を歩く楓の、赤みがかった手が少しだけ触れた時、そこから熱がぱっと全身に広がる錯覚を覚えた。隣の小川に投げ込まれた石が同心円を数度描くように、私の手の甲を中心とした同心円の熱がほわりと広がる。委ねるというよりも、溺れそうなその温かみが少し肌寒い春の日の下の私を包んだ。