コクのある匂いがカウンターの奥から漂ってくる。始業式から2週間ほどが経って、なんとなくクラスも落ち着いてきた頃、私は千聖ちゃんに誘われて商店街の喫茶店にやってきていた。この間千聖ちゃんが急なお仕事で約束をドタキャンしてしまったお詫びということらしい。千聖ちゃんは律儀だなぁ……なんて漠然と考えていたけど、でもやっぱり千聖ちゃんとカフェを巡るのは楽しくて、そんな考えがすぐ泡沫となって消えてしまうほどに私の心は踊っていた。
……踊っていたのだが、自分でも理由がよく分からないのにぼうっとしている。羽沢珈琲店と書かれたエプロンが慌ただしく翻っているのを、コーヒーカップを口に傾けながらぼんやりと眺めていた。
──────────────────────────
三日前のことだった。放課後、その日はバイトも何もない日で、千聖ちゃんもお仕事で学校に来ていなかったので、いつもよりもゆっくりとした足取りで帰宅の途についていた。時間があるからと言って変な寄り道をしたりはしない。そんなことをすると私は迷子になってしまうという過去の経験を忘れ去ってしまうほど私は愚かではない……と信じている。幼い頃家の近所だというのに迷子になって楓くんに迷惑をかけたことだってよく覚えている。思えばあの頃の方が幸せだったのかもしれない……。
そんな懐古はともかく、そういうわけで帰りの道のりを変えたりはしないのだが、その分いつもよりも通学路の周りに何があるのか、風景を眺めながら帰った。
丁度川沿いの道に辿り着いた頃だろうか。ついこないだ歩いた時には満開だった桜の木々もすっかり葉桜になっており、川沿いの風景は一変していた。なんだか胸が一気にざわついて辺りをキョロキョロ見回しながら帰り道を歩いていた。我ながらあの様子は不審者と思われても致し方ないような、そんな有様だったと記憶している。
ゆっくり歩いていたはずが、いつのまにか足早に歩いており、ちょっと一息つこうと周りの風景を見ようと土手の下の方の道を見下ろした時だった。
「あっ」
私が目にしたのはずっと私が恋慕を抱き続けている楓くんの姿だった。それだけなら私の心はさほどざわつかなかっただろう。楓くんの隣には制服を着た私たちと同じくらいの女子生徒がいたのだった。花咲川の制服でないことは分かるけれど、私の知り合いというわけでもなく、ただ私の知らない女の子が楓くんの隣で親しげに歩いている。その事実だけが私を串刺しにしたのだ。別に私は楓くんの彼女でもなんでもない、腐れ縁となってしまった一人の幼馴染でしかないというのにこのような気持ちを抱くのは間違えているのかもしれない。しかし、そんなことを冷静に分析できるほど私の心は穏やかではなかった。
「————」
「————」
ふと我に返った瞬間、なんだかその光景を見ているのが申し訳ないような、何より辛くて辛くて仕方がなくて、楓くんに見つからないようにさっとその場を離れてしまった。
あの子は誰だったのか、今日の朝も楓くんに聞くことは出来なかったのであいも変わらず私の心は川辺の一件以来ざわつきが収まらないのであった。
──────────────────────────
「……花音?」
「……ふぇっ?! なっ、何かな千聖ちゃん?」
千聖ちゃんの声が耳に届いてふと意識が元に戻る。どうやら私は千聖ちゃんとカフェにいながら完全に話が上の空だったらしい。それほどまでに私の心は楓くんに囚われていた。
「ずっと向こうの方を見つめて焦点があってなかったから声をかけたのだけれど。何かあったの?」
千聖ちゃんの淡い桃紫色の瞳は私の心をひっくり返して観察するかのように透き通っている。『何かあった』と聞かれても、原因こそ分かれど、私にもこの感情はよく分かっていなかった。
「ううん、何でもないよ。心配してくれてありがとう」
「そう……なら良いのだけれど」
手に持ったカップに視線を移して、波立つ茶色の水面を眺める。カランコロンという小気味好い音が右耳から左耳へと流れていって、けれどその音の在り方を確かめることもなく私はその茶色い波間を見つめ続けていた。
「……やっぱり花音、何か悩みでもあるでしょう? 私には話せない悩みかしら?」
「うーん……。私にも何でこんなに悩んでるかあんまり分からなくって」
いや、正確に言えば何について悩んでいるかは明確だ。島崎楓くん。彼以外のことで悩んでいるわけではなく、もっと言えば彼の恋愛事情で悩んでいるのは確かなのだが、彼についての何で悩んでいるかが分からないのだ。いや、分かりたくないと言った方が正しいのかもしれない。コトリとカップをコースターに戻して、何と返せば良いかをずっと考えていた。
「楓のことかしら?」
「……ふぇっ?!」
そんな思案は一瞬でかき消されて、思わず飛び出たひょうきんな声に驚き口を押さえて周りをキョロキョロと見回す。ああ、やってしまった。みんなの目線がこちらを向いてしまっている。けれど千聖ちゃんは何も気にすることなく上品に笑みを浮かべていた。
「その反応は当たりみたいね。それで、楓がどうかしたのかしら」
「えっえっ、な、なんで楓くんのことって分かったのぉ……?」
「ふふっ、テーブルにずっと楓って文字をなぞってるじゃない。すぐ分かったわよ?」
「ふぇ〜……」
考えていたことはどうやらすぐに出てしまっていたらしい。千聖ちゃんの前で隠し事なんて無理だったかな。きっと心の奥底まで見抜かれてしまっている、それはきっと私のとんでもなく臆病な部分まで、そんな気がした。
「別に何かがあったわけじゃないんだよ? ただその……」
嘘だ。けど、こんなの説明なんかできないよ。
「その?」
「えっと……ふぇ〜! 無理だよぉ!」
「……ふふっ、花音ったら、可愛いわね♪」
「もぉ千聖ちゃんっ!」
どうやら私は千聖ちゃんの掌の上で踊り続けていたらしい。そのまま私は千聖ちゃんに質問責めに遭うばかりで、しかも何も答えることが出来ずにどこか甘ったるいコーヒーをいっきに飲み干してはお代わりしてと繰り返したのだった。でもなんとかそのことは言わずに済んだのであった。
私が三杯目のコーヒーを飲み干した辺りで、千聖ちゃんが時計の方にチラッと視線を動かした。時計はもう6時過ぎを指しており、気がつけばあたりはそこそこに暗くなっている。
「そろそろ出ましょうか」
「うん……そうだね」
私がレジの方へ向かおうとすると千聖ちゃんは腕で私を遮って、しーと口に人差し指を当てて意味深な目線を向けた。今日の私は千聖ちゃんに勝てそうにないらしいので、大人しく店の外に出ておく。
1分ほどして店から出てきた千聖ちゃんと一緒に帰り道につく。夕日はとうに半分以上山の向こうに隠れていた。なんとなくさっきから熱かった頬も、少し冷めたような気がした。
「ねぇ千聖ちゃん……」
「んっ、何かしら花音?」
「……千聖ちゃんなら、何か行動を起こしたいけど怖くて仕方がない時はどうする?」
私が聞きたかった質問を、これ以上ないほどに遠回しに、オブラートに何重にも包んで尋ねてしまった。
「行動を起こしたいけれど、それが怖い時ということかしら?」
「うん……」
千聖ちゃんは少しだけ顎にグーを当てていたが、すぐにこちらを向いた。
「もし自分が、本当にその行動を起こしたいなら、怖くても行動すべきじゃないかしら。もしもその行動以外の策があるならば話は別だけれど」
「……そっか」
その行動以外の策か……。私の本当の願いを叶えるためには、その行動以外の策なんてものは何一つ存在しないように思えた。……やっぱり、行動しないと変わらないんだよね。
「……顔が少し赤いけれど、何かあったの?」
「……えっ?」
「ふふっ、何を考えていたのかしら?」
「ふぇっ、ゆ、夕日のせいだよっ!」
「本当に?」
「うぅ本当だよぉ〜」
あぁダメだ、恥ずかしくて顔を手で覆い隠さずにはいられなかった。どうして千聖ちゃんはこんなにも的確に私の心を見抜いてくるのか、本当に謎で仕方がなかった。
「……花音、後悔だけはしないようにね」
「……うん」
そんな細々と私の耳に入ってきたわずかな声の震えは、左耳に流れることなく私の頭の中をグルグル回り続けた。
西日はさらに沈んで辺りはさらに暗くなったけど、私の頬は誤魔化せないほどにまだ赤みを帯び続けていたのだった。