彼岸の響き   作:パパイヤZ

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1、煤に少女

 現代から遡ること千数百年前の日本。

 その時代、政治の中心は京の都にあった。

 

 平安京。

 帝が世の平安を願って名づけた名に相応しく、この都は以後千年にわたり日本の中心であり続ける。

 数多の権力者が京を目指し、その権威を独占することで政を行った。

 

 しかし、では京の都が本当にそこに暮らす民草にとって平安をもたらすものであったかと言われると、首をかしげることも多い。

 

 飢饉があれば人々は死に。 

 疫病があれば人々は死に。

 山が噴火すれば人々は死に。

 

 多くの人々がこの地で死んでいく。

 人の権威など、自然の厄災に対しては何の役にも立たない。

 力なき者は、ただ地に倒れ伏し、墓すら作ってもらえない。

 

 酷く命の軽い時代だ。

 その後の武士の時代のように、戦うための余裕すら、人々には存在しない。

 自分が生きるのに必死で、誰かを助けている暇など微塵もない。 

 

 だから恐らく、この時代の弱い人間が、千年後の人々に共感される精神を持っていることなど、決してないのだろう。

 それは生まれてから育まれてきた価値観の違いであり、そこから形成される自我には飽くなき生存本能が刻み込まれている。

 

 それはこの過酷な時代で生きるための祝福でもあり、また、淡々と心を潰していく呪いでもある。

 

 

 ―――これは、そんな呪いに飲み込まれてしまった一人の少女の、物語だ。

 

 

 

 

 京の都の一角。

 雅な平安貴族たちが決して立ち入らない通りがある。

 そこは、この都の最下層に位置する人々と、廃墟やゴミが溜まった場所だ。

 

 悪臭。

 死体。

 瓦礫。

 汚物。

 

 そしてそんなおよそ清潔さとはかけ離れたこの場所に、一人の少女がいた。

 年の頃は二桁に足を入れたか入れてない程度。その小さな身体を襤褸で包み、屋根もない路地で震えている。

 もっとも、瘦せこけた身体とその体についた汚れのせいで、少女の年齢を正確に推測することは難しい。

 故に、その少女が本当に十歳に至っているかどうかは、周りの人間は誰も知りようがなかった。

 また、彼女自身も自分の年は知らないので、既にこの世に少女が生まれた年を知っている者は一人もいなかった。

 或いは、かつての少女を知っている者であっても、今の彼女の様子では当時の姿を思い出す方が難しいだろう。

 

 少女は捨て子だった。

 理由も知らされず、何の前振りもなく、彼女は突然家から追い出された。

 まだ幼い少女が、死体の横で眠っていたと気づいたときの心境は、想像するに余りある。 これが現実のことかどうかすら、受け止められなかった筈だ。

 

 煌びやかな衣服は襤褸布に変えられ。

 化粧は落とされて、代わりに煤を塗りたくられ。

 いつもの布団ではなく汚物のまかれた地面に置いていかれ。

 

 病弱な少女を世話するものなど当然見当たらず、彼女は死にかけていた。

 既に屋根のない場所に身を置いて三日目。

 水も食べ物もなく、最早咳こむ余力すらない。

 いつもあれだけ止まってほしいと思っていた咳が止まったのを知って、少女は本能的にもう自分は長くないと悟った。

 

 座り込んでいるのも億劫で、ふらりと身体が倒れる。

 数日前まで美しく整えられていた黒髪が土と砂にまみれるが、もう少女はそんなこと何とも思わなかった。

 だんだんと暗くなっていく空の下、ただほんの少しだけ安らぎを得たくて、ただそれだけが少女の求めるものだった。

 

 ふと、視界の端に黒い羽根が映った。

 烏だ。

 何羽かが集まって、辺りの屍を啄んでいる。

 そして、死肉を喉の奥に飲み込む合間合間に、烏たちは少女の方にちらりと視線を送っていた。

『あれはいつ死ぬのか』

 そんなことを考えている、捕食者の瞳だった。

 

 その烏の一羽と目が合い、真っ黒な視線をその身に受けたとき、少女は心の底から吐き気がした。

 自分がもうすぐ死んで、あんな薄汚い死体漁りの鳥獣にその身を喰われると想像すると、本能がその未来を否定し、怒りを覚える。

 

 

「……し…にたく…ない」

 

 

 乾いた唇の端から言葉が漏れる。

 言葉にした途端、目頭が熱くなった。

 もう水なんて自分の体に残ってないと思っていたのに、涙が瞼から零れ落ちた。

 

「し……にたく…な…いよ」

 

 一体何が、自分の何が悪くてこんなことになっているのか。

 自分は両親の言いつけを守って、従順に生きていた。

 世話をしてくれる従者たちや、家を守る家臣たちにも、取り立てて悪い扱いをしたこともない。

 仏教の教えに背いたこともなく、陰陽師たちの語る悪い風習に手を出したこともない。

 

 

 勉学や芸の稽古にも、身体の関係で満足には出来なかったが、それでもやれるだけのことはやってきた。

 客観的に見ても、自分は頑張っていた。

 決して理不尽に捨てられるようなことが合っていい人間じゃない。

 

『……あれは駄目だな。あの体では、跡継ぎを産むことはおろか、まともな嫁ぎ先が見つかるとも思えん。替えが見つかり次第、始末する』

 

 自分を必死に正当化しようと記憶を漁る少女の耳に、かつて布団の中で夢見がちに聞いた父の言葉が蘇る。

 当時の自分には分からなかった。

 そもそも、あれが現実のことだとも思えなかったし、気に留めてもいなかった。

 恐らく父も、娘が起きているとも自分の言葉は聞こえているとも思っていなかったのだろう。

 彼はただ単に、配下の質問に答えただけ。

 医者の診断を聞いて決断した事柄を、配下に伝えただけ。

 

 だがそれでも、少女は覚えていた。

 記憶の底から、朧げな文章を引っ張り出して、自分が捨てられた理由に辿り着いた。

 

「……あ」

 

 間抜けな声が出る。

 そんなことだったのかと、そんな意味を込めた声だ。

 

 父は決して、少女を愛してはいなかった。

 父が関心を持っていたのは、娘が自分の権力拡大に役に立つかどうかだけ。

 父がかけてくれた言葉は、少女のやる気を途切れさせぬため。

 父が少女にかけていた金は、人は、時間は、全て父の欲望のため。

 娘を可能な限り高い地位の者に嫁がせ、自身の勢力を広げるため。

 

 別段、おかしな話ではない。

 姻戚関係によって自身の権力が左右されるこの時代において、不健康で子供を産むことすら出来ない女に、価値などない。

 だから捨てた。

 ただそれだけ。

 

「…ハ…ハ…ハ」

 

 笑えてしまう。

 病弱な身体に生まれついた時点で、少女の運命は決まっていたというのに、そうとも知らず頑張ってきた自分に対して、不思議と笑いがこみ上げる。

 

 だが、その笑いも結局は直ぐに収まった。

 あまりにも疲れていて、笑うことすら出来なくなった。

 相変わらず少女の周りには烏が群れていて、いつ少女が死ぬかと窺っている。

 それを見るのは苦しくて、少女はゆっくりと瞼を閉じた。

 

 何も見えない。

 何も聞こえない。

 鼻が馬鹿になったのか、立ち込める悪臭すら分からなくなってくる。

 まるで、意識だけそのままで、身体は死んだかのように何も感じなくなった。

 

 怖くはある。

 これから自分がどうなるのか、何もわからない。

 もしかしたら、浄土にも行けず地獄にも行けず、ずっとこのままかもしれない。

 知らないということに恐怖を覚え、酷く不気味に思った。

 そのままず―――と暗い世界の中にいて、ふと、光が見えた。

 

 暖かい光だ。

 何となく、安心できる光。

 流石に暗い世界の中にいると、光が恋しくもなる。

 そこに向かって歩き出そうとして、

 

 

―――また引き戻された。

 

 何か懐かしい人に会えるような、赤い花が咲き乱れる川岸を見たような気がしたが、今それらの名残は少女の中に何もなかった。

 代わりに、口に何か押し当てられていて、そこから水が流れ込んでいるような感覚がする。

 心はそうでなくても身体は求めていたのか、喉は自然と水を受け入れた。

 

 それと共に身体の感覚も戻ってきて、瞼が開かれる。

 時刻が遅いのもあってよく見えないが、誰かが自分を抱えているのだけは分かった。

 相手も此方の意識が戻ったのに気づいたのか、何やら声を必死な様子で声をかけてくる。

 だが、感覚が戻ったのと同時に酷い耳鳴りがしだし、何を言っているのかまではまるで聞こえない。

 

 ただ、誰かに助けてもらったという事実が信じがたく、そして嬉しかった。

 せめて後少しだけはっきりと顔を見たいと思うが、また意識が闇に落ちていく。

 先ほどと同じく、抗いようのない眠気だ。

 しかし先ほどとは違い、今度はそこまで虚しくはなかった。

 

 

 

 

 少女を助けたのは、都で流行った病に対処するべく、地方から呼び出された一人の医者だった。

 彼は善良だった。

 そして才能があった。

 だからこそ、日々人々が死んでいく都の状況は、彼にとって耐えがたいものがあった。

 

 いくら手を尽くしても、流行り病によって大勢が死んでいく生き地獄を一人で変えられるほど、彼は天才ではない。

 彼一人で、まだ未熟なこの時代の医療を変革する事が出来るのなら、それは最早人の所業ではない。

 個人の力では精々まだ軽症な一人二人を救うのが関の山だ。

 

 無論彼とてそんなことは分かっている。

 自分が神ではないことくらい、人間であれば誰しも知っている。

 しかし、如何に言い訳しても、彼が自分の患者を救えないこともまた事実。

 目の前で怨嗟の声をまき散らしながら死んでいく人々を看取っていくうちに、彼もまた心が荒んでいった。

 

 流行り病が収まったのちも、彼の気持ちは行き場を失い、結果彼は故郷に帰らず都に留まった。

 そして、日銭を稼ぐ傍ら、死にかけている人々を救おうと都中を走り回った。

 それが、彼の善意であったかどうかは分からない。

 ただ彼は、そうしないといけないという強迫観念に襲われていた。

 或いはもう彼は、誰かを救わなければ自分の心も救われないと、分かっていたのかもしれない。

 

 そしてその日、彼はいつもの習慣で夕暮れ時の人気のない路地を歩いていた。

 経験上、貴族たちが住まう主に使う通りには、病人怪我人はいない。

 というのも、貴族たちが死体を見るのを嫌うので、そういった場所からは検非違使などが死にそうな人間を追い払っているのだ。

 

 従って、医者が探索するのも貴族たちの使わない通りなどに限定される。

 治安が悪いところに自ら赴く医者。

 浮浪者に絡まれることもあるが、その日はそういったこともなかった。

 単純に生きている人間がいないので、絡まれる要素が最初からなかったのだ。

 あるのは、無造作に転がってる死体と、それを喰らう烏や野犬。

 

 見慣れているとはいえ、あまり気分の良い場所でもないため、早々に引き上げるかどうか医者は悩んだ。

 しかし、とある痕跡を見つけたことで、思考が切り替わる。

 

 地面に真新しい足跡がついていたのだ。

 見たところ裸足のようで、恐らく人数は一人。

 何か確固とした目的地を目指しているかのように、一度も横道に逸れず路地の奥へと足跡は続いている。

 

 他に同じような足跡は見当たらないことからも、この場に転がっている死体のどれかが生前につけたものとも思えない。

 人数と動きが、この場の者とは明らかに違うのだ。

 

 謎の足跡に違和感を覚えた医者は、それについていくことにした。

 人を助けるためではなく、本当に純粋な興味だ。

 そして、足跡の終着に至った時、そこには一人の少女が倒れていた。

 一瞬死んでいるのかと思うほど、その少女からは生気が感じられなかったが、脈に触れるとまだ動いている。

 大慌てで手持ちの水筒から水をやり、意識を取り戻した少女にホッとしたものの、このままではすぐに死んでしまう。

 こけた頬や煤の下にある青白い肌からそう判断した医者は、急いで少女を抱えて自宅へと走った。

 

 医者の看病により命を取り留めた少女が再び意識を取り戻したのは、それから五日後のことだった。

 少女は見ず知らずの自分を助けてくれた医者に感謝し、医者も自分の重荷を少しだけ軽くしてくれた少女に感謝した。 

 ただ、医者が少女の出自を疑問に思っていたことも事実だ。

 発見したときの不自然さもそうだが、煤の下の肌が、普通の民草とは考えにくいほどに青白かったり、少女の言葉遣いが宮廷の貴族たちを思わせたりするなど、理由は幾つもある。

 そしてそうした疑念をそれとなく問うても、少女は何一つ語らなかった。

 能面のように表情が無くなった少女を見て、医者もそれ以上の追及を止めた。

 

 正直に言って、厄介ごとを抱えた気はした。

 しかし、最終的に医者は己の信念に従うことに決めた。

 生来の病弱さから、目の前で血を吐く少女を見捨てることは、彼には出来なかったのだ。

 

 そこから医者と少女の闘病生活が始まった。

 医者は持てる限りの知識と伝手、技術を駆使して少女の病を治そうとし、少女は嫌な顔一つせず様々な治療に粛々と従った。

 いい人間関係であったと言える。

 実際医者にとって、少女は極めて優秀な患者だった。

 自らの命が死の淵に立っているというのに、冷静で、聞き分けが良く、医者に好意的であった。

 

 通常、迷信のまかり通る時代において、モグリの医者というのは信用しがたい存在だ。

 何が正しくて何が正しくないか分からない。

 自分たちの知らない特異な技術を扱う胡散臭い連中。

 世間一般からの評価はそんなものだろう。

 一般民衆や貴族たちが信用できるのは、陰陽寮に所属する陰陽師たちのみ。

 

 助けようとした相手から拒絶された回数も二回や三回どころではない。

 だから、少女の存在は医者にとって得難いものであり、そして失いたくないものであった。

 

 執着。

 そう言ってしまえばそうなのだろう。

 じわじわと少女の存在が自分の中に占める量が大きくなっていったことを、医者は自覚していた。

 

 だが、如何にこの時間が続くことを祈っても、彼の医者としての経験が、少女が長くないことを伝えている。

 この身体では、もって二十歳ほど。

 それ以降の生を彼女が生きる見込みは、零に近い。

 医者にとって到底受け入れがたい結論だが、何度検証してもその未来が、血を吐いた少女が物言わぬ骸と化す光景が脳裏に浮かぶ。

 

 医者は人の死に慣れている。

 かつての疫病で道に溢れかえった死体は、山ほど見ている。

 だが、一緒に暮らした人間の死には、慣れていなかった。

 いや、むしろ病で死んだ家族を治したいがために医者を目指した彼にとって、身近な者の死は、精神的損傷だ。

 

 医者は一心不乱に研究を重ねた。

 この時代で主流の、陰陽師たちの治療を、彼は信じていなかった。

 呪いや人の祈りなど、病の直接的な原因にはなりえない。

 彼は、極めて科学的な思考の持ち主だった。

 

 日々新しい薬の調合を試し、少女に与えた。

 薬は必ず自分でも飲んで安全を確認し、それでも足りない場合は一般大衆の治療の際にも試した。無論相手の了解をとった上だが。

 

 薬を売り、

 少女の看病をし、

 薬を売り、

 少女の看病をし、

 薬を売り、

 少女の看病をし、

 薬を売り、

 少女の看病をし、

 薬を売り、

 少女の看病をし、

 薬を売り、

 少女の看病をし、

 

 

 そして、数年が過ぎ、彼は遂に少女の病を解決する薬を生み出した。

 治験によれば、十分な効果が見込まれている。

 彼は逸る心を押さえ、少女に薬を煎じた。

 万が一があってはならないと、念のためとある材料の量を抑えて調合した薬だったが、飲み続けることにより効果は現れた。

 

 頻繁な高熱は止み、

 蒼白だった肌は血色がよくなり、

 常に少女を悩ましていた咳は止まり、

 寝たきりだった身体は起き上がれるようになり、

 

 少女は順調に快復へと向かっていった。

 

 医者の宿願が成就した瞬間だ。

 二人は互いを讃え合い、喜び、これから先の未来を語った。

 

 だが、直ぐにまた新たな異変が少女の身に起こる。

 彼女は、病が治っていくと同時に、自分の中で何か別の本能が芽生え始めるのを感じた。

 最初は、気のせいだと言い聞かせていた。

 しかし、欲求は段々と強まっていった。

 

 終いには、医者がよそってくれる食事以上に、医者の方が美味しそうに感じだした。

 それは彼女の身体が新たな形へと変貌している以上、仕方のないことであったが、少女は自分の変化に怯え、再び心を閉ざし始めた。

 

 

――――もし、時間があれば、まだ医者は何か出来たかもしれない。

 だが、現実は無情にも、彼らの準備を待たずに流動し、そして最悪の形で少女は弾けた。 

 

 

 

 血の色とは一体何色なのだろうか。

 

 最もありふれている表現は、当然のように赤だが、しかしそれだけでは表現しきれない深みのようなものが、血液にはある。

 

 確かに、傷口から溢れる鮮血は、純粋な赤色だ。

 しかし、わざわざ『鮮血』という通り、この赤色は皮膚が裂けた直後の僅かな時間にしか見られない。

 そのあと空気に晒され続けた血は、段々と黒みを帯びていき、最後にはドス黒く粘着質な液体へと変貌する。

 

 他にも、日光にあてられ続けた血痕が茶色く変化したり、虫の血の色は透明だったり、そもそも地球上の生物でなければ元が赤である必要もないなどと、血の色というのは存外奥深いものだ。

 

 しかしまあ、二十一世紀に住む一般人では、血の色の変化など滅多に気にはしないだろうし、そもそも自分が出血する機会すらあまりない。

 

 

 ――――だが、こと千年の時を遡れば、案外血の色というのも身近なものだ。

 

 それこそ、赤い血の鮮やかさをその眼に焼き付ける機会があるほどには。

 

 

「……あ」

 

 そう、今この瞬間に喉から血を噴き出す男を凝視しているこの少女のように。

 

 

 室内は暗かった。

 まだ照明設備の希少なこの時代。

 夕刻を過ぎれば、人々の営みは夜の帳に包まれ、肉眼には何も映らない。

 だが、そういった肉体的な視覚とは別に、室内の様子が見るものの心に不安と怖れを抱かせ、感覚的な暗闇を増大させていた。

 

 部屋の様相は、この時代の一般的な民家とさして変わらない。

 しかしその中に少し異様なものが潜んでいる。

 

 まず目につくのは、部屋の一角で倒れる男。

 この家の家主である医者だ。

 もう夜だというのに、未だ作業着のまま床に伏せているその男は、身じろぎ一つしない。

 よく見ると、男の周りには何か液体が広がっているのが分かる。

 光がないため、色までは判別できないが、状況から考えて血液。

 この出血量では、致命傷だろう。

 倒れこんでいるため傷口は分からないが、男が自分の喉を庇っているところを見ると、恐らくは頸動脈を一振りで切り裂かれたらしい。

 

 そして倒れた医者を見下ろすように、また一人男が立っていた。

 しかし、体格から男と判断したものの、外見的特徴の全てを黒装束で覆っているので、年齢や顔つきもまるで分からない。

 その手に握る血に濡れた刀が、男の行いを暗に示しているのみである。

 

 最後に、少女が一人。

 布団に入ったまま上半身のみを起こして室内の惨状を眺めてる。

 驚くほど無機質な表情からは、彼女の内心を欠片も窺えなかった。

 

 手に刀を持つ男への憎しみも、怒りも、

 今まで助けてくれた恩人が死んでしまう悲しみも、

 恩人を殺した相手が自分の目の前にいるという焦燥も、

 

 何もない。

 

 ……いや、遅れて一つだけ少女の瞳に宿った感情がある。

 それは、獲物を見つけた捕食者が感じる、抗いようのない感情。

 

 ――――食欲。

 

 

 しかし、少女が今すぐその衝動に任せて動くことはなかった。

 その前に襲撃者が語りだしたことで、少女の興味が一時的に逸れたのだ。

 

「……哀れな男よな。貴様のような娘を拾ったばかりに」

 

 襲撃者は少女に語りかけてはいたが、その視線は自分が今しがた殺害した医者へと向かっている。

 

 

 襲撃者は少女の父に仕える配下の一人だった。

 表向きは幼き頃から側仕えとして当主の公務に付き従う身だが、こうして裏の仕事を任されることもある。

 長い付き合い故、用心深い当主が信頼する側近と言ってもいいだろう。

 そんな彼だったが、しかし少女の父への敬愛とは裏腹に、少女に対しては悪感情を抱いていた。

 彼の世界の中心には常に自らの主君があり、そして世界の全ては主君の役に立つか立たないかで判断される。

 合理的と言えば聞こえはいいが、その実極端な差別思想を持つ狂人だ。

 そして、主君の娘でありながら、病弱で、主君に心労をかけてばかりの少女は、彼にとって無用な存在として判定されていた。

 

 だからこそ、主君が自らの娘を捨てる決断をしたときは歓喜した。

 主君を苛む膿を抹消できる好機。

 本当なら直接手を下したいところだったが、主君の心情を踏まえて断念し、可能な限り穏便に処理することにした。

 そうして立案されたのが、路地裏に放置して餓死させる計画。

 死んでしまえば、辺りをうろついている烏や犬に屍は喰われて痕跡は消えるので、死体の始末を考える必要はない。

 彼は即座に計画を進言し、自ら少女を人気のない道に放り捨てた。

 あんな場所で病弱な娘が生き残れる筈がない。

 彼にはその自信があった。 

 

 しかし娘は生きていた。

 お人好しの医者に助けられ、生き汚く命を繋いでいた。

 彼女の生存が敵対する勢力に発覚すれば、主君は窮地に追いやられる。

 激怒した彼は、主君に報告せず一人、今度こそ少女を抹殺する決意を固めた。

 直接刃で首を刎ね、家もろとも消し炭にすることで、完全に少女の痕跡を消す算段をつけ、襲撃。

 

「さらば」

 

 男は少女の傍へと近づくと、刀を振りかぶり―――そこで動きを止める。

 少女の、恐ろしく無表情な顔に、戸惑いを覚えたのだ。

 いや、恐怖と言い換えてもいい。

 

 襲撃者がこれまで殺してきた相手の中に、自分の死を恐れないものはいなかった。

 刃を突きつけると、必ず瞳に恐怖が浮かんだ。

 しかし、少女にはそれがない。

 そもそも、襲撃者のことを見てすらいない。

 少女の視線は、襲撃者の足元に倒れる医者へと向かっている。

 自分の命が脅かされている状況だというのに、そちらには欠片も注意を払っていない。

 

 ―――気味が悪い。

 

「……貴様、耳が聞こえておらぬのか」

 

 襲撃者の問いに対し、少女は数泊置いて言葉を紡いだ。

 

「……おいし…そう」

「……ハ?」

 

 直後に少女の首が勢いよく角度を変え、襲撃者を見やる。

 その瞳の中に宿る何かが、男の背筋を震わせた。

 不味い。

 まるで説明できないが、何か途轍もなく不味いことが起こる気がする。

 

 瞬きもせず、少女と襲撃者は視線を交わした。

 ―――そして、

 

「ヌゥッ」

 

 少女の瞳の奥に潜む感情が動いたのを本能で察知した男は、咄嗟に背後へと跳ぶ。

 一瞬遅れて、男の立っていた場所に声一つ上げず少女が移動していた。

 熟練の暗殺者である男でも、捉え切れない速度。

 到底死にかけの病人の動きとは思えない。

 

 だが少女は、襲撃者に追撃を掛けることはなかった。

 代わりに彼女は床に倒れている医者をその小さな手で掴み、

 

「なっ!」

 

 ―――一切の躊躇いなしに喉へ齧り付いた。

 

 目の前の光景にまるで現実味を持てぬまま、男は硬直する。

 何が起こっているのか、彼の脳は理解を拒んでいた。

 

 しかしその間にも、少女の歯は容赦なく医者の喉を喰い破っている。

 決して聞いてはいけないような音が、室内に響いていた。

 裏の世界に身を置いている男ですら、聞いたことがない音だ。

 一体自分が何を見ているのか、分からなくなる。

 どんな理由があって、人が人を喰らうというのか。

 

「……まさか」 

 

 紅い瞳に猫のような瞳孔。

 血に濡れたやけに長い犬歯。

 皮膚に食い込んでいる鋭利な爪。

 

 先ほどよりも距離が近づいたことで、確信する。

 これは、人間ではない。

 人間であってはならない。

 

「……化け物。いや、……鬼か」

 

 刀を持つ手が震える。

 この惨状に、吐き気と恐怖が止まらない。

 逃げるべきだと頭の中で必死になる自分がいる。

 今は一心不乱に医者だった男を貪り喰っているが、いつまでそうしているかは分からない。

 もしあれで腹が満たされなければ自分も……。

 いやしかし、ここまで来て今更引き返すわけにも……。

 

「……おい…しい」

 

 ビクッと肩が震える。

 男が悩んでいる間に、少女だった化け物は肉から口を離し、語りだした。

 

「……もっと食べ…たい。……でも…これは…もう飽き…た」

 

 ゴミでも捨てるように、医者の遺体がポイと放り捨てられる。

 体格差から考えると信じがたい。

 だが、冷静な指摘をしている暇は、襲撃者にはなかった。

 

「……じゃあ…こっちの味はどうだ…ろう」

 

 来る。

 

「クッ」

 

 咄嗟に男は刀で前方を横なぎに払った。

 獣のように真っすぐに接近してきた少女は、男の刃を躱せない。

 突き出されていた少女の右腕が切断され、―――しかしそのまま突っ込んでくる。

 まるで痛みなどないような動きだ。

 

「馬鹿なっ」

 

 男はその様子に目を剥き、致命的な隙を晒した。

 間近にまで近づいていた少女の左手が男の右肩を掴み、潰す。

 

「グァッ」

 

 力の抜けた手から刀が落ちる。

 そのまま勢いのままにのしかかってくる少女を、男は振り払えないでいた。

 

  

 紅梅色の瞳が襲撃者の目を覗き込む。

 そこには、かつて少女が嫌悪した捕食者の欲望が映っていた。

 刀もない今、男に抵抗する手段はない。

 

 心臓が早鐘を打っている。

 顔を覆っている布が汗で張り付き、呼吸がしづらい。

 何かこの状況を打破する術がないかと、必死になって考えるが、何も思いつかない。

 恐怖によって、思考が止まっているようだ。

 

 ガタガタとなる歯の間から、言葉を絞り出す。

 

「や…めろ」

「……いただき…ます」

 

「ンンンンンガアアーーーーー!!!」

 

 喉が喰い破られ、大量の血液が外へ溢れていく。

 痛みは、思ったよりもなかった。

 ただ、自分の命が、自分という存在が、薄れていくような感覚に襲われている。

 

「ああ…やっぱり……おい…しい」

 

 恍惚とした声を最期に、男の意識は途絶えた。

 

 

 ◆

 

 

 鬼舞辻家。

 産屋敷家の分家筋にあたり、本家の命に従ってその勢力の拡大に尽くしてきた一族だ。

 しかし、貴族の中にあっても、彼らは決して大貴族と呼べるような家ではない。

 本家とは違い、鬼舞辻家は平安貴族の中でも末席に位置する弱小勢力。

 そんな家が勢力を拡大するために出来る手段は限られている。

 

 それこそ、要人の暗殺や恫喝、裏取引に賄賂。

 乏しい手札を駆使して彼らは必死に上位者たちに取り入り、切り崩そうと長きに渡って動いていた。

 そして現当主も、はっきりとその家風に染まった人物だった。

 彼にとって、一族の全ては自身の権力拡大に従うべきであり、そうでない者に用はない。

 悉く家から追い出し、地盤を強化するのみだ。

 

 しかし、あるとき冷酷非情を形にしたような男にも、変化が訪れた。

 原因となったのは、第一子『淋』の存在だ。

 病弱ながらも懸命に努力するその姿を見ているうちに、彼の心の中にも情けという感情が生まれてきた。

 確かに、病弱で将来性はないに等しいが、それでも我が子を切り捨てていいものか、男は悩みに悩んだ。

 もし娘が男であれば、或いは鬼舞辻家がもっと裕福であれば、他にも取れる手段はあっただろう。

 だが、実際には娘は女であり、鬼舞辻家に厄介者を置いておく余裕もない。

 そして娘の年が二桁に近づいたころ、男は決断した。

 

 配下の献策に従い、娘を人気のない路地に放置するよう指示。

 毒や水、炎に刃などを使わないのは、男にとって最後の親としての意地だったが、それでも殺してしまったことは事実だ。

 男は外に出さないように気落ちし、されど立ち止まらなかった。

 

 娘がまだ幼いころに死んでしまった妻に代わり、新たな女性を迎え入れ、子供も用意し、彼は再び己の道を歩みだした。

 過去は変わらない。

 ならせめて、未来を視ようと、彼は努力した。

 

 

 ―――だが、記憶が薄まりだしたころに、過去は今に追いついてくる。

 

 

 

 

 グチャリと音がした。

 同時に、右足の裏からヌメヌメした感触が伝わり、少女―――鬼舞辻淋は顔をしかめる。

 床から足を上げると、案の定赤い血で汚れていた。 

 何も履いていないから仕方はないが、次に人を殺すときに裸足はやめようと心に決める。

 

 もっとも、今彼女が裸足なのは、裸足のまま飢餓状態になり、そこから意識が冷静になったばかりだということもあるので、彼女に全責任があるというわけではない。

 飢餓状態の鬼というのは、本当に見境なく人を喰う。

 彼女の場合は何故か意識はあったが、それでも頭の中にあったのはとにかく空腹を満たすことだけ。

 言葉は喋れても、それは自分の独り言として発しているだけで、相手の言葉に反応することはないようだ。

 

「……不思議な感覚……。自分が自分じゃない……みたいな」

 

 ぼんやりと思い返してみても、あの時の自分の状態には現実味がない。

 それまで一度も体験したことのない感覚だった。

 まるで、自分の身体が別のものに変わったような……。

 

「……あれ……斬られた腕……」

 

 切断されていたはずの右腕を動かし、状態を観察する。

 袖の途中で千切れている白い寝間着の下には、いつもと変わらない、いやいつもより肉付きの良い腕が無傷でそこにあった。

 しかし足元を見回してみると、先ほど襲撃者の刀で失った右腕も、ちゃんと落ちている。

 拾ってみて見比べても、二つの腕に相違点はない。

 ほくろの位置までぴったり同じだ。

 

「……斬られた腕が……斬られていなくて……二つに……増えた?」

 

 既に、少女は自分がおかしくなっていることを自覚している。

 例の薬を飲み始めてから薄々と察してはいたが、今日二人の人間を食べてはっきりとした。

 あの感覚は、明らかに人間ではない。

 異常な食欲もそうだが、他にも人の血の匂いを判別するなど嗅覚にも変化が起きていた。

 そして駄目押しで欠損した四肢の再生。

 

「……鬼…か」

 

 襲撃者が自分に向かって呟いた言葉。

 言われたときはそれどころではなかったので気に留めていなかったが、振り返ってみると確かに当てはまる気がする。

 

 平安の世において、『鬼』とは怪異の総称。

 自分のような怪異を他に聞いた覚えもないので、襲撃者が咄嗟に言った『鬼』という名称が、今の自分を指すことにしてもいいだろう。

 それに少なくとも、世話になった恩人を殺して何とも思っていない自分が人間だなんて、口が裂けても言えない。

 

 床に転がる二つの死体を見て、困ったように眉を寄せる。

 

「……しかし……どうしよう。折角病気が治ったのに……人間じゃなくなってる。

 誰も……頼れない」

 

 仲良くするどころか、存在が知れれば討伐を目指す人間たちが大挙して押し寄せてくる怖れもある。

 そうなれば厄介だ。

 幾らこの身体になった少女が並の人間よりは強いと言っても、相手の数が増えればまた話は別。

 正面からやり合っていれば、遠からず仕留められてしまうだろう。

 

 かといって、このまま尻尾をまいて逃げればいいというものでもない。

 この襲撃者は父の指示でを襲いに来たようなので、少なくとも父は少女の生存を知っているということ。

 襲撃の目的が口封じならば、失敗を悟った父は次々と増援を送ってくるはずだ。

 ただでさえ、自分の体質が変化してしまい、不安定な立ち位置にいるというのに、さらに追手を相手にするのもまた面倒。

 

 それに逃げるにせよ戦うにせよ、食事の問題はついて回る。

 飢餓感がどの程度の頻度で襲ってくるのかは分からないが、どっちにしろ食べるのが必要なのは事実だ。

 もしかしたら、人間の食事でもいいのかもしれないが、段々と普通の料理に食欲が湧かなくなっていたし、食べれないと考えたほうがいいだろう。

 しかし、人間を殺して食べるとなると、発見される危険性は高い。

 同じ場所で複数人食べると警戒されるし、無暗に移動を重ねるのもまた失敗する可能性を上げてしまう。

 

「……地方に逃げれば……人が少なくなるし……都にいるよりかは……安全。でも……この姿で一人旅というのも……不審。なら……都の警戒が緩んでくれたら……良い」

 

 このまま都に留まるという選択肢はない。

 しかし都を離れるためには、都周辺の警備をかいくぐる必要がある。

 道なき道を行けば人に見つかる恐れはないが、そうなると食料の捜索に難儀するだろう。

 ほどほどに人間と距離を保ちつつ地方に逃げるのが当面の目標だが、そう上手くいくだろうか。

 

 ……いやそれにしても、

 

「……妙に冷静……」

 

 こんなに色々考えている自分が不思議だ。

 世間知らずで臆病で、優柔不断な自分は何処に行ったのか。

 今の自分は、自分で違和感を覚えるほどかつての自分と違う。

 

「……身体が人間じゃなくなったし……今更か」

 

 首を傾げながら呟く。

 そうでないような気もしたが、あまり考えている時間もないので、少女は取りあえず疑問を引っ込め、再度今後のことに関して頭を悩ました。

 

 

「……そう。私は都の外に出たい。……でもこのまま逃げるのは……少し厳しい。つまり……都の警備が緩んだり……父が私に追手を放たない状況になれば……。あっ」

 

 閃いた。

 この二つを両立できる一石二鳥の計画が。

 父が追手を放たない状況にするんじゃない。

 放てない状況にすればいいんだ。未来永劫に。

 

「……アハッ」

 

 唇に手をあて、少女は笑った。

 

 

 

 

 ―――この日、京の都に住まう一人の貴族の命が、無惨にも断たれることとなる。

 そして、その惨劇を成した少女の形の悪鬼は、これ以後千年に渡って夜の闇に紛れ、人々に恐怖と怒りを植え続けた。

 一度たりとも、決別した父の真意を図ることなく。

 

 

 

 

 

 

 

 




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