マスカレード・ヴェネツィアン・ホテル 作:neo venetiatti
その日の予約をすべて無事終わらせたARIAカンパニーのプリマ・ウンディーネ、水無灯里は、沈みかけている夕日をふと振り返り、目を細めた。
「明日も晴れるといいなぁ」
このままゴンドラを進めれば、暗くなる前にARIAカンパニーに到着しそうだと、灯里は少しの安堵を抱えていた。
少し前方に見える船着き場のそばに、誰かひとり、人が立っていた。
黒いジャンパーに黒いズボン、黒いニット帽を被っていた。
その上、近づくことでわかったのだが、黒い大きなマスクを着けていた。
まさに全身黒ずくめだった。
灯里のゴンドラが近づくと、うつむいていた顔をあげた。
視線が灯里に向けられる。
灯里は、その目に魅入られたように見つめ返していた。
オールを漕ぐ手は止まり、ゴンドラがゆっくりと進んで行く。
そして、そのままその男の前を通りすぎようとした。
「ちょっと」
「はひっ」
「そこの」
「はぁ」
「ウンディーネさん」
「はぁ」
「ちょ、ちょっと!」
ゴンドラは、その黒ずくめの男の前を完全に通りすぎようとしていた。
「ああ~スミマセン~~。ついうっかりしてしまいました~」
灯里は、急いでゴンドラをその男の前まで戻した。
「ウンディーネさん、こんな時間に悪いけど、乗せてもらえないだろうか?」
その言葉は、見た目の印象とは違い、優しく丁寧な口調だった。
「そうですねぇ。このあとは特に用事もありませんので、構いませんけど」
「よかった。助かる」
「ちなみに、行き先はどちらですか?」
「サンミケーレ島」
灯里はギクッと固くなっていた。
灯里の脳裏に過去の記憶が甦ってくる。
こんな時間に、なんで墓地の島へ?
「ウンディーネさん?僕は幽霊でもなんでもないから心配いらないよ」
「えっ?」
まるで灯里の心の中を見透かしたようだった。
「いいかな?」
「は、はい。それでは、お手をどうぞ」
灯里の差し出した手の上に重ねられた手は、黒の皮の手袋がつけられていた。
夜風のせいなのか、その男の冷えた指先が、まるで灯里のからだの芯まで凍らせるようだった。
ゴンドラに乗り込んだ背中は、最初の印象よりも痩せた感じに見えた。
だが、静かに座るその後ろ姿は、なぜかとても存在感が感じられ、気になってしまい、目が話せない。
すっかり暗くなった海を進む灯里には、水を漕ぐオールの音だけが聞こえてくる。
進路を知らせる誘導灯が点滅し、その唯一の道しるべが心の頼りとなっていた。
まるであの時のよう・・・
不安な気持ちのまま、前方に船着き場を知らせる灯りが見えてきた。
ゆっくりとゴンドラを寄せた灯里は、安堵のため息をついた。
「お客様、サンミケーレ島に到着です」
「ああ、そうだね」
灯里の手を借りて船着き場に降りた男は、スッとその場に姿勢よく立った。
「ありがとう、ウンディーネんさん。ご苦労さま」
そう言った男は、ズボンのポケットから、折り畳んだ数枚の紙幣を取り出すと、そのうちの一枚を灯里に渡した。
「お客様、これは頂きすぎです」
「別に構わない。無理を聞いてくれたお礼だと思ってくれたらいい」
灯里は手にした高額紙幣と男を交互に見つめていた。
「それとウンディーネさん?」
男は灯里の手首をぐっと掴んだ。
「えっ?」
灯里の脳裏に悪夢が甦る。
「明日の朝、迎えに来てもらえないだろうか?」
「はひっ」
「今日はこのままお墓の前で夜を明かすつもりなんだ」
「そ、そうなんですか・・・」
翌朝迎えに来る約束をして、灯里はサンミケーレ島を離れた。
ゴンドラの上で、安堵のため息をついた。
だが、約束通りに翌朝サンミケーレ島に来た時には、男の姿はどこにも見当たらなかった。