マスカレード・ヴェネツィアン・ホテル 作:neo venetiatti
アガタはうつむいたまま、捜査本部のある会議室を出ていった。
アデリーナはアルフ捜査官の前に立っていたが、心配そうにその後ろ姿を見送った。
「あんまり落ち込まないように言ってくれ。いくらホテルの従業員とはいえ、こんなこと、そうそう経験することはないだろうしな」
「すみません、捜査官。後で私からも言っておきます」
「総支配人には?」
「まだです。少し事態が落ち着いてから話そうかと思っています」
「その方がいいな。私からも改めて話をする必要もある」
「はい。それは当然かと」
「状況は変わりつつあるということだ」
アルフはパイプ椅子の並んだミーティングルームの、ホワイトボードを背にして座っていた。
前には長テーブルがひとつ置かれている。そこにはアガタが受け取った小さな箱が置いてあった。
アルフは、その眼前に並んだパイプ椅子に座るよう、アデリーナに手で合図した。
アデリーナは一番前のひとつに腰かけた。
「アガタの言ったひと言によって、捜査員が張り付いていることがハッキリとわかってしまったわけだが、それを犯人が見てなかったことを祈りたいところだ。だが、この箱の一件が、そうでないことを物語っている」
アルフはその箱を持ち上げた。
そして、アガタを真似するようにカタカタと振ってみせた。
「結局それはなんだったんですか?」
「これはだな」
そう言ってアルフは蓋を開けた。
中にはキラキラ光る石がひとつ入っていた。
「宝石ですか?」
「ああ。もちろん、よく出来た偽物だがな」
「つまりわざと、ということなんですか?」
「おそらく。様子を見るためのものだろう。黒づくめの男も同じことだ」
「そこまで・・・」
「こちらの手の内を探るためだ。相手はなかなかの手練れとみるべきだろう」
アデリーナの顔に少し緊張が走った。
「そこでなんだが・・・」
アルフは、腕時計にチラッと目をやった。
アデリーナはその素振りを不思議そうに見つめた。
「おお、来た来た。丁度いい時間だ」
その会議室の入り口には、水無灯里が立っていた。
だが、振り返ったアデリーナは、灯里のその出で立ちに呆気にとられた表情で見つめていた。
「あの~、よろしくお願いしますぅ」
灯里は、フロントクラークの制服姿になっていた。
「とにかくこうゆうことだ」
「ええ・・・見ればわかりますけど」
「まあ、早いにこしたことはないと思ったんだがね」
アルフは灯里に入るように手招きした。
灯里は遠慮がちに部屋に入ってきた。
そして、アデリーナから少し離れたところに腰かけた。
「実はこの時間に来るように言ったのは私なんだ」
「そうなんですか。でもこの時間と言いますと?」
「あいつがいなくなってからの方がいいと思ってね」
「あいつ?・・・ああ、なるほど」
「相変わらず察しがよくて助かる」
灯里はふたりの会話にキョトンとしていた。
「灯里くん?君には聞いておかなくてはいけないことがある」
「はい。ですが、いったい、どういったことなんでしょうか?」
「先程のロビーでの件よ」
アデリーナが思わず割って入った。
「アデリーナ?悪いが捜査に関わってくる内容だ」
「すみません」
アデリーナは前屈みになっていた姿勢をまっすぐに戻した。
「君にも話しているとおり、このホテルは深刻な事態を迎えている。そのため、ホテルのあちらこちらには、監視カメラが取り付けてある。そのカメラ映像には先程君が老婆と一緒にロビーに入ってきた時の様子も映っていた」
「そうだったんですか?」
「そうなんだ」
「だとすると・・・」
「どうした?何かあったのか?」
灯里は怪訝な表情でアルフを見返した。
「実は私、先程なんですけど」
「どうしたんだ?」
「廊下の花瓶を落としそうになったんですぅ~」
「はぁ?」
リアクションをしたのはアデリーナで、アルフはそのまま固まっていた。
「灯里さん?」
「はぃ~」
「どのあたり?」
「五階ですぅ~。あのご婦人の部屋まで送っていった時なんですぅ~」
「で、大丈夫だったの?」
「はい~。なんとか掴んで落とさずにすみましたぁ~」
「それなら別に」
「ご婦人が〈ナイスキャッチ!〉と言ってくれました!」
「えっと・・・捜査官?」
アルフは背もたれによりかかると、咳払いをして自分を取り戻そうとした。
「それはよかった。その辺は後でホテルの方と相談してくれたまえ。いいね、アデリーナ?」
「ええ、結構です」
アデリーナはため息をひとつ漏らして答えた。
「他に何かあるのでしょうか?」
「ある。とても重要なことだ」
「はい・・・」
灯里は安堵の表情と不安な気持ちの、複雑な顔になっていた。
「先程話した老婆とロビーに入ってきた時の話だ。君はそこで少しの間、その老婆と話していたね?」
「はい。そのご婦人が足下が不安だから、一緒に来てもらってもいいかとおっしゃったので、構いませんと答えました」
「その時、すぐそばのソファーに座っている人には、何も気づかなかったのか?」
「ソファーのひと?」
そこからは、3人でとなりのモニタールームに移動して、その時の映像を見ながら話を進めた。
「見てくれ。君が老婆と話す視線の先に、黒づくめの男が座っているだろ?」
「確かに。ほんとですね」
「それを見て、何も思わなかったのか?」
「何もって言われても・・・」
灯里は少し焦った顔になっていた。
「つまり、あなたが先日、ゴンドラに乗せたという人物のことよ」
アデリーナは思わず話に割って入っていた。
「ああ、そのことですか・・・」
「どうなの?」
真剣の顔のアデリーナとは対照的に、灯里はうーんと考え込んでいた。
「違います」
「違うの?」
「ええ」
「ホントに?」
「はい」
「どういうこと?」
アデリーナとアルフは、思わず顔を見合わせていた。
「灯里くん?なぜそう言いきれるんだ?」
「だって、ぜんぜん雰囲気が違うんです」
「雰囲気?」
「はい。あの時の感じとは違うんです。何て言ったらいいか、こう、うまく言えないんですけど」
灯里はうまく言えない歯がゆさが顔に現れていた。
その様子に、アルフとアデリーナはため息をつくしかなかった。
「多分なんですが・・・」
「何かわかったのか?」
「あの方、ネオ・ヴェネツィアには、何度も来られてるような気がします」
「どっちが?」
「私がゴンドラにお乗せした、あの方です」
灯里は遠くを見るような、考え込む表情をしていたが、その後、何か納得したかのように、少し笑みを浮かべていた。