マスカレード・ヴェネツィアン・ホテル 作:neo venetiatti
フロントクラークの制服を身にまとった水無灯里は、そのトランクから伸びた取手を持って、アレッサンドラ・テスタロッサの少し前を歩いていた。
フロントのそばでアレッサンドラに挨拶した時、軽く会釈だけ返してきた彼女の姿に、灯里は改めてそのオーラを感じずにはいられなかった。
エレベーターが到着すると、アレッサンドラに続いて灯里も乗り込んだ。
近づいた時から気になっていた香りが、二人っきりになったエレベーターの中に一気に充満した。
〈ああ~いい香りぃ~!やっぱり女優さんて違うんですねぇ~〉
心の中で思わず呟いていた灯里は、一瞬口から漏れていたのではないかと気になっていた。
「あの」
「は、はい!」
押しボタンの方に向いて立っていた灯里は、背後から声をかけられ、不意を突かれたように驚いていた。
〈やっぱり聞かれてたのかも・・・〉
灯里は振り返ると、とてもいい印象の笑顔で答えた。
「いかがなさいましたでしょうか?」
「ちょっと気になることがあるのだけど」
「はい。えっと、どのような件でしょう・・・」
アレッサンドラは、おもむろにその顔の半分を隠していた大きなサングラスを外した。
灯里に向けられたその瞳はとても大きく、輝きに満ちていて、相手を圧倒する力強さがあった。
「あなた、ARIAカンパニーの方よね?」
その一言に、灯里の身体は固まってしまった。
思わずクルリと反転し、押しボタンの列に額をぶつけた。
「あ、いえ、そのぉ、人違いではないかと・・・」
「先日は、アリスさんに大変お世話になって。ちゃんとお礼も出来てないの」
「はぁ」
アレッサンドラは、一生に一度しか手にすることができない、ネオ・ヴェネツィア国際映画祭の新人賞を獲得していた。
その時のプレゼンターが、ウンディーネの歴史で初の大役を担うことになった、オレンジぷらねっとのアリス・キャロルだった。
授賞式の後で、アレッサンドラは過去ウンディーネを目指していたことを明かしていた。
そして、残念ながらそのウンディーネにはなれなかったアレッサンドラが憧れていたのが、アリスだった。
そのアリスから受賞のトロフィーを受けとる。
アレッサンドラがアリスを、半分無理矢理ハグした時の写真が、その当時、かなりの話題となっていた。
「あなた、アリスさんとお親しいのよね?」
「ええ、まあ、親しいといいますか、なんといいますか・・・あっ!」
「違うの?」
「私はただのフロント係で・・・」
「あのARIAカンパニーの水無灯里さんでしょ?」
「まあ、そんな名前だったでしょうか・・・」
「てっきりそうだと思ったのだけど・・・」
アレッサンドラは、手に持っていたサングラスを再びかけ直した。
灯里はアレッサンドラに背をむけたまま、ゆっくりと息を吐き出した。
エレベーターが最上階のスイートルームに到着した。
カードキーを差し込み、ドアを開けると、ストッパーで固定して中に入っていった。
アデリーナにレクチャーを受けた通り、部屋の中を一通り見回し、異状がないかを確認した。
後に続いて入ってきたアレッサンドラは、サングラスを外し、中の様子をぐるりと見渡した。
「いいお部屋ね」
「ありがとうございます。お荷物はこちらに置いておきます」
「ありがとう。ご苦労様。これ、気持ちだけなんだけど」
アレッサンドラは灯里にチップを渡そうと、そのすらりとした白い手を差し出した。
「えっと、これは受け取ってもいいのでしょうか・・・」
戸惑っている灯里を前に、アレッサンドラはじっと灯里を見つめたまま、身じろぎもせずに立っていた。
「それでは遠慮なく、ちょうだいします」
灯里は丁寧な口調で、遠慮がちに両手を差し出した。
その手の上に、アレッサンドラはそっと数枚のコインを置いた。
その瞬間、アレッサンドラの指先が灯里の手に触れた。
灯里は、そのほんの指先ひとつの感触に表情が変わった。
「ありがとう。もういいわ」
アレッサンドラの言葉に、灯里は、はっと我に返った。
「失礼します」
灯里は、ドアのストッパーを外し、振り返って一礼しながら、ドアを閉じようとした。
すると、ドアが閉じるその寸前、その隙間からアレッサンドラの声が聞こえた。
「アリスさんによろしく」
灯里は、一階のロビーに戻ってきた。
そこで「ふぅ~」と大きく息をついた。
「灯里さん、お疲れ様。どうだった?」
アデリーナがそばまで来ていた。
少し心配そうにしている表情だったが、灯里の顔を見て、安堵しているようだった。
「少し緊張しました」
「そうね。アレッサンドラ・テスタロッサ様のような、著名なお客様は、これからもお越しになる機会があると思うの」
「そうなんですねぇ~」
「そうね。でもいつも通りやっていれば大丈夫だから」
アデリーナの言葉を聞いてはいたが、灯里はどこか上の空といった顔をしていた。
「ほんとに大丈夫?何かあったの?」
「あった、というほどではないのですが・・・」
「どういこと?」
「指が」
「指?」
「はい。チップを渡そうとされたのですが、受け取ろうとして手を出した時に、アレッサンドラ様の指が私の手に触れて、それで・・・」
「それでどうしたの?」
「いえ、別に何もなかったのですが、緊張したと言ったらいいか、なんていうか・・・」
灯里は、どう言えば上手くアデリーナに伝わるのか、言葉が見つからなかった。
「でも、灯里さんもプリマ・ウンディーネとして、いろんなお客様と接してきたわけでしょ?」
「それはそうなんですが」
「まあ、アレッサンドラ様のような方は、そう滅多に遭遇することはないかもだけど」
アデリーナはそんなこともあると言いたげな顔をしていた。
「冷たかったんです」
灯里は、アデリーナが続けようとした言葉を遮るように呟いた。
「冷たいって、アレッサンドラ様が?」
「指です」
「さっきの指のこと?」
「はい」
「それがどういう・・・」
「心の底まで見透かされたような、と言ったらいいでしょうか」
アデリーナは少し困惑している灯里の顔を、まじまじと見つめた。
「灯里さんて、詩人ね」
「わ、わたしがですか?」
「そうよ。いくらアレッサンドラ・テスタロッサが目の前に現れたからといって、そんなふうに表現しないわよ。私なら尚更だけど」
「そう言われれば、そうかもしれませんが・・・」
灯里はアデリーナに言われた言葉に、苦笑いの表情を浮かべていた。
「でも、灯里さんがそう感じたのなら、何かあるのかもしれないわね」
「何か、ですか?」
「だって、灯里さんがなぜここにいるのかという理由。それがあるわけでしょ?」
「はぁ。それはそうですけど」
その時、アデリーナが何かに気付いて、ロビーの中央付近に目を向けた。
「あの人、また!」
「はひっ!」
アデリーナの目線の先には、アロンソがいた。
アロンソのそばには、にこやかに微笑んだ中年の男性がひとり立っていた。
だが当のアロンソは、その男性に背を向けて、無愛想な表情をしている。
なのにその男性は、そのアロンソの背中にむかって、にこやかな表情のまま話しかけていた。
「ちょっと、行ってくる」
アデリーナは、まるでヒールで床を蹴るように、つかつかとアロンソ目掛けて進んで行った。