マスカレード・ヴェネツィアン・ホテル 作:neo venetiatti
「あの、どうされたんですか?」
アガタは、能面のような顔で見返してくる女性従業員の様子に、少し恐怖を感じ始めていた。
「だから、なんでなの?あなたは、フロントクラークでしょ?なんでこんなところにいるの?」
その女の背後で、ドアノブを必死に回そうとしている音がしていた。
そして、ドアを叩きながら、外からアガタを呼ぶアールドの声が聞こえてきた。
「すみません。そのドア、開けてもらってもいいですか?」
「あなた、この状況がなんなのか、理解できないの?」
女はアガタから一切目を話さず言った。
よく見ると、女はほとんどまばたきをしていなかった。
アガタを見つめる目が、ガラス玉のように光っている。
「私の知り合いが、呼んでるんです。開けてください」
「だからぁ、なんで、あんたみたいな人が、こんなところで油を売ってるのかって聞いてるの!」
女の口調が一変した。
アガタはそれに押されるように、後退りしていた。
「油をって、なんなんですか?」
「そこ!?」
女は大きな笑い声を上げた。
「そんな大声で笑わなくても・・・」
「ここのホテルは、こんなのがフロントクラークをやってんの?だからあの女もバカをみるんだよ!」
「ちょっと、それどういうことなんですか?もしかして、先輩のことを言ってるんですか?」
「先輩?ああ、あんたあのバカ女の後輩かぁ」
「ちょっと!先輩を侮辱するなんて、許せません!」
「じゃあどうするんだい?」
アガタがその女を睨み付けている時、その部屋の奥にある、別のドアのノブをガチャガチャと回す音が聞こえた。
それに気がついた女が、ニヤッと笑った。
「あんたのお仲間は、いったい何人いるんだい?」
ドアの向こうでは、ドアを叩きながら誰かが何か叫んでいる声が聞こえた。
「さあ、そろそろ時間もなくなってきたようだし、終わりにしようか」
女は肩からかけていたショルダーバッグから、注射器を取り出した。
アガタは、その注射器に目を奪われた。
身体が震え始めていた。
「どっちにしたって、逃げられないですよ!」
アガタは、必死に声を振り絞って叫んだ。
女はそれには構わず、アガタに近づいていった。
アガタが壁に詰め寄られ、女が目の前まで近づいて来る。
その時、カチャリと静かにドアのロックが解錠される音がした。
廊下に面したドアが、音もなく静かに開いて行く。
その様子に気がついた女が、ゆっくりとドアの方へ振り返った。
開いてゆくドアの先には、ビジネスバッグを肩からかけたアールドが立っていた。
アールドは、アガタと目が合うとニヤリと笑ってみせた。
女が少し体を動かそうとしたとき、アールドが口を開いた。
「ちょ~っと、そのままでいてください」
女はその言葉で、動きを止めた。
アガタは、女が少し動いたことで、女の背後からアールドの姿が見えた。
女がなぜ言われるがまま、動かなくなったのかが、ようやくわかった。
アールドの手には拳銃が握られていた。
そのニヤケた顔と、緊張感のない風貌とは似つかわしくないものが、目の前の女性に向けられていた。
「アガタさん?」
「は、はい!」
「ちょっとそこのテーブルの方に移動してくれませんか?」
「テーブルですか?」
アガタは、テーブルの上に目を向けた。
部屋の中央付近にあるテーブルの上には、何冊かのファイルが重なって置かれている。
アガタは、慎重な面持ちで、カニ歩きでテーブルの方へ移動していった。
「おっと、そのままですよ」
アールドはアガタに指示を出しながらも、少し動こうと素振り見せた女から目を離さないでいた。
アガタはテーブルまで移動すると、さっとファイルを手に取った。
「おじさん?これですか?」
「アガタさん、ご苦労様」
「これは、なんか事件を解くカギかなんかですね!」
「それは特になんにも関係ありません」
「えっと、何ページ目を見ればいいのか・・・は、はい?」
ページを必死になってめくっていたアガタの手がピタッと止まった。
「じゃあ、なんで?」
「これで心置きなく撃てるようになったという訳です」
「えっ?」
アールドの目が鋭く光った。
「あなたがその女の後ろにいたでしょ?」
「はい」
「それじゃあ困るんです」
「困るんですか?」
「そうなんです。このまま撃つと、その女の身体を貫通してアガタさんにも当たってしまう」
「ええー!」
アガタは、大きく目を見開いた。
「でもおじさん?」
「なんですか?」
「そんなことしたら、犯罪ですよ!」
「犯罪?私が?」
「そうですよ!」
「アガタさん?一体私を誰だと思ってたんですか?」
「誰って、アロンソ刑事のお友達ですよね?」
「なるほど。お友達ねぇ。間違っちゃいない」
そう言って、アールドは笑いそうになるのをこらえた。
「違うんですか?」
「私はあいつと同じ職業なんですよ」
「そうだったんですかぁ?」
「はい。だから、この距離からだと外す自信がないんです」
その時、アールドのいる廊下から声が聞こえてきた。
「じゃあ、外す方に一杯」
声の主は姿を現すと、すぐさま部屋に入り、女の目の前に歩みよった。
女は注射器を持ったまま、アガタの方に向きを変えたが、そこまでだった。
女の手首を掴むと、その手にあった注射器を取り上げた。
「アロンソ、ちょっと格好良すぎるんじゃない?」
「じゃあ、撃っとくか?」
「それはムリ」
アールドは、女を取り押さえているアロンソに向かって、そのオートマチックのグリップの底を見せた。
マガジンが入ってなかった。
「なんだ、それは?」
「だって、危ないでしょ?」
アロンソは、テーブルのところでポカンと口を開けているアガタの方に向いた。
「どうだったんですか?」
「えっ?何がですか?」
「彼女」
「彼女?ああ!先輩ですか?」
「ええ」
「大事に至らなかったそうです」
「そうですか」
アガタには、アロンソの表情が少し和らいだように見えた。
取り押さえた女のバッグからは、刃物はひとつも出てこなかった。
そして、クリーニングされた洋服の山から見つかった黒い服は、女が着ていたと思われる痕跡はなかった。
だが、袖口付近からは、血痕らしきものがみつかった。
鑑識へ回し、アデリーナのDNAと一致すれば決定的となる。
アロンソは、捜査本部でアルフ捜査官からこっぴどく叱責されたが、状況を鑑み、とりあえず処分は保留となった。
逆にアールドが、なぜあんなところにいたのかが疑われた。
そこは、アガタが命の恩人だと訴え出たため、おおごとにはならないですみそうだった。
だが、結果としてアガタを危険な目に合わせたことは、二人に厳重注意が言い渡された。
「でもなんでアガタさんだったの?」
アールドは、会議室の外の廊下にある自動販売機のところで、アロンソとコーヒーを飲んでいた。
「犯人より先に受けとる必要があった。そのためには、犯人に気取られず、あの部屋に行く必要があった」
「だから、アガタさん?」
「彼女のケータイの番号は知らない。だが、あのタイミングで頼めるのは彼女しかいなかった」
「アガタさんにとって、大事な先輩が狙われたわけだしね。それで連絡係りに駆り出されたという訳か。でも、ショックを受けてるって思わなかったの?」
「そんなこと、言ってられない」
「へぇ~」
アールドは横目でチラッとアロンソを見た。
顔は疲れた表情だったが、目はギラついていた。
「あれだけのことをやっておきながら、犯人は逃走している。だが、そのまま従業員通用口や非常口から出ていけば、嫌でもカメラに映る。よっぽどのバカじゃなければ、わかりきったことだ」
「でもどこにも映ってなかった」
「手っ取り早いのは、着替えてしまうことだ。そもそも大きなマスクをしていて、顔を誰もはっきりとは見ていない。外見さえ変えてしまえば、わからなくすることができる」
「なるほどねぇ」
「ホテルで着替えることが容易にできて、それに違和感がなく、しかも証拠を回収することができる」
「だからクリーニングというわけか」
「別に本当にクリーニングをする必要などない。それを利用できればいい」
「そして、後でそれを回収しておけば証拠隠滅だ」
「でもこれはひとりではできない。受取に本人が現れたら、その場でアウトだ」
「じゃあ、あのリネン室の女は共犯者?」
「共犯といえるレベルなのかどうかはわからないが、犯人に協力しているのは間違いない。俺があの部屋に忍び込んだ時、あそこには誰もいなかった」
「そうだったの?早く言ってよ~!」
アールドはため息をもらすと、ゴクッとコーヒーを一口飲み込んだ。
「でも、俺が到着する前に部屋のドアが開いていたが、あれ、どうしたんだ?まさか、またやったのか?あんた、本当に刑事なのか?」
「なんか人聞きの悪い言い方するなぁ。アガタさんを助けたんだから、いいじゃないか」
「まあ、俺には関係ないことだけど」
「ああ、その言い方!」
アロンソは別の方を向いて知らん顔をした。
「これでとりあえず一歩前進てことかな」
「いや、まだだ」
「そうなの?」
「考えてみろ。じゃあ現れなかった犯人は、どこにいるんだ?」
「どこって・・・あっ、そうだった!」
「犯人は、まだこのホテルの中にいる」
「その通りだ」
「犯行を行っていながら、今頃堂々とどこかの部屋で高みの見物を決め込んでいる」
アロンソは飲み干したカップをギュッと握り潰した。
「ところでさぁ、肝心のロビーはどうなってるの?アデリーナさんが抜けて、アガタさんもこのままだと心配だし。あんたも今回のことで、またもや張り付けなんだろ?」
「人を増やすらしい」
「そうなるだろうけど、そんなところに、のこのこ犯人が現れるなんて考えにくいでしょ?」
「だから盲点だということもできる。今もって、犯人の真の目的はわかっていない。どう出るか、わからない」
「それじゃあ、尚更痛いね。アデリーナさんが抜けた穴は」
「ただ・・・」
「何?」
「こう手詰まりだと、違うアプローチが有効なときもある」
「なんだそれ?なんか手立てがるの?」
「アデリーナが気にしていたことが、最近引っ掛かりだしてきてね」
「なんだよ?教えてよ!」
アロンソはそれには反応せず、話を続けた。
「あの一件はどうなった?早朝のウンディーネ」
「ああ、あれね。有力な情報はまだないんだけど、結局その時のゴンドラは、どこに行ってしまったのか、わからないみたいだね」
「ゴンドラなんてどこにでもあるんじゃないのか?ここはネオ・ヴェネツィアだぞ!」
「それが以外と、管理にうるさいんだよ。ここは」
「管理ねぇ」
「聞いてみたらいいじゃない?」
「誰にだ?」
「ほら、あののんびりしてる目撃者さんに」
「ああ」
アロンソはなぜか返事を濁すように適当に答えた。
「もしかして引っ掛かってるって、あのウンディーネさんのこと?」
アールドが驚いて振り向いた。
「一番当てにしてなさそうに思ってたんだけど」
「あんた、どこでそんなこと・・・ほんとに油断できないなぁ」
「まあまあそんなことより、いつ復帰するの、あのウンディーネさん?」
「たぶん明日から」
「へぇーそうなんだぁ」
アールドはクセのある、にやけた顔でアールドを見て言った。
「なんか、おもしろくなりそうな気がするんだけど」