マスカレード・ヴェネツィアン・ホテル 作:neo venetiatti
少し焦げ臭い匂いが漂う5階の廊下で、灯里は黒ずくめの男と遭遇していた。
502号室に宿泊しているはずの老婆を、ボヤ騒ぎの中、心配してやって来た灯里だったが、部屋の中からは何の反応もなく、ドアの前で立ち尽くしているときだった。
黒ずくめの男は、手に持っていたカードキーを灯里に見えるようにちらつかせると、そのまま廊下を歩きだした。
灯里は、その姿に魅入られたように、そに場にじっと立ち尽くしていた。
黒ずくめの男は、落ち着き払った様子でゆっくりと近づいてくる。
すると、階段をかけ上がってくる音が聞こえてきた
灯里はその音を聞いて、ハッと我に返った。
反射的に顔を階段の方に向ける。
だが、黒ずくめの男は、灯里の想像をはるかに越えて、いつの間にか灯里のそばに立っていた。
驚きで声も出せない灯里。
だがそこで、意外な言葉を耳にすることになった。
「この辺で手を引いてくれませんか?」
「えっ」
男の口調は、その場には似つかわしくないぼど、穏やかでやさしかった。
「あなたには関係のないこと。だから罪はこちら側にあると理解している。その上でお願いしたい」
灯里には何を言われているのか、皆目見当がつかない話だった。
「あの、何をおっしゃっているのか、わからないのですが・・・」
「君がここまで献身的な人だとは思わなかった。ホテルにまでやってくるとはね」
「私はただ、このネオ・ヴェネツィアがこれまでと変わらない、いつでも安心して来られる場所にしたかっただけです。そのために協力できることがあればと」
「そういうことだったんだね」
黒ずくめの男の目は灯里を凝視した。
それはまるで、灯里の真意を確かめているようだった。
「灯里さん!離れて!」
階段をあがったところにアヴェリーノが立っていた。
その姿を見た男は、意外な言葉を呟いた。
「総支配人には気をつけるんだ。その親近者も」
アヴェリーノが動き出そうとした瞬間、黒ずくめの男は灯里の前から消えていた。
「灯里さん、大丈夫ですか?」
「私は大丈夫です」
廊下の角を曲がる男の姿が、チラッと見えた。
「灯里さんはロビーに戻っていて下さい」
そう言い残してアヴェリーノは黒ずくめの男のあとを追いかけた。
「どういうことですか?」
灯里は走り去るアヴェリーノの後ろ姿を見送りながら、ポツリと呟いていた。
一旦ロビーに戻ったあと、502号室のカードキーをフロントで受け取った灯里は、戻ってきたアヴェリーノと一緒に502号室へと入った。
中には誰もいなかった。
部屋の中はきれいに片付けられていて、いつでも出立できるような感じだった。
「アルビーナ婦人は、どこに行かれたんだろう?」
「あの方のお名前、アルビーナさんておっしゃるんですか?」
「そうですけど。灯里さん、知らなかったのですか?」
「ええ、実は・・・」
灯里は気まずそうに、うつむき加減に答えた。
「なんだか気があってしまって、そのままになっちゃったんです」
アヴェリーノは難しい表情で腕を組んだ。
「アルビーナ婦人も見当たらない。黒ずくめの男も逃げられてしまった。一体どういうことなんだろう」
「あの、黒ずくめの人」
「何?心当たりがあるんですか?」
「いえ、なんとなくそう感じただけなんですけど」
「どういうこと?」
「私が最初に目撃した・・・」
「灯里さん、おしゃべりはそこまでだ」
二人が振り返ると、アロンソがそこに立っていた。
「それは今後の捜査に重要な証言となる。訳のわからない男と軽はずみに話さないで欲しい」
「訳のわからない・・・」
「いくら刑事さんでもその言い方はないでしょ?」
アロンソはアヴェリーノの言葉を無視するように、灯里に一緒にくるよう促した。
「アヴェリーノさん、すみません。私は協力するとお約束したので」
「わかってます。灯里さんは気にしないで下さい。それよりも、そいつ・・・」
気まずそうに振り返る灯里の背中を押すようにして、アロンソは振り返ることなく歩き出していた。
「灯里くん、ご苦労だったね」
アルフ捜査官は、アロンソと一緒にやって来た灯里にそう言葉をかけると、いつものパイプ椅子に腰かけるよう言った。
少し離れた椅子にアロンソは座った。
「さっそくだが、灯里くんが見たこと、話してくれないかな?」
「はい」
灯里はボヤ騒ぎをロビーで知ってから、黒ずくめの男と遭遇したところまで、出来るだけ思い出せるところまで詳しく話した。
「つまりその黒ずくめの男は、はっきりと総支配人と言ったんだね?」
「はい」
「そして親近者にも、と」
「それと気になるのが〈こちら側〉と言っていたことだ」
「複数犯ということか」
「見当はしていたが、そういうことだな」
「あと・・・」
「どうした?」
「あの黒ずくめの人なんですが、あの時の人だと思うんです」
「あの時の?」
「はい。あの時、あの夕暮れの時間にゴンドラにお乗せしたあの人」
「つまり、一番最初に灯里くんが目撃した、黒ずくめの男だな?」
「はい、そうです」
「どんな印象だった?詳しく話してくれ」
灯里は、ゆっくりと、その時の印象を思い出すように話していった。
「とても紳士的な方でした。人を傷つけるようには思えない、優しくて穏やかな印象でした。それは最初に会ったときと同じ印象でした」
「だが、身体ひとつであんたの前に現れた。話を聞いていると、とても大胆な登場の仕方だ」
アロンソは灯里の話が信じられないといった口調だった。
確かに廊下に現れた時の印象は、高級ホテルの廊下には似つかわしくない姿に、脅威すら感じるくらいだった。
だが、近づいた男は意外にもそんな最初の印象とはまったく正反対といってもいい、紳士的だった。
「というか、そもそも何が目的だったんだ?考えたら、そんな現れた方はリスクが大きすぎる。下手をしたら捕まってしまう」
「ということは、何か特別な理由があった?」
二人が考え込んでいるとき、灯里はふと上の方に向いた。
「あっ、それと」
「まだあるのか?」
「すみません。少しずつになってしまって」
「いや、かまわないですよ。何でも言ってくれたまえ」
「アルビーナ婦人がいなかったんです」
「アルビーナ婦人?誰だ?」
「例の老婆です」
「あの、ロビーで一緒になった、灯里くんが部屋までつれていった、あの老婆だな?」
「そうです」
「それが?」
「あのボヤ騒ぎのとき、わたし、ロビーにずっといたんですけど、全然みかけることなかったんです。それで心配になってお部屋まで確かめに行ったんです」
「そのアルビーナ婦人はおらず、代わりに黒ずくめの男と遭遇することになったと」
「それと、カードキー」
「カードキーとは?」
「その黒ずくめの人が私にわかるように見せたんです」
「その部屋の、ということか?」
「そこまではわからないですけど」
アルフは「うーん」と唸るように苦い顔になった。
「確かにタイミングが良すぎる。この前、ロビーに黒ずくめの男が現れた時も、そのアルビーナ婦人はいた。しかもその時も灯里くん、君もいた。」
アルフは灯里に、無理をせず、一旦帰るようにと告げた。
だが、灯里はホテルがまだ大変な状況にあるからと、もう少し様子を見てからと答えた。
だが実際は、灯里が事件そのものに深く関わり始めていると感じたアルフが、その危険性を心配していたからだった。
なぜ黒ずくめの男は、灯里に総支配人のことを告げる必要があったのか。
それは、灯里と総支配人を接触させたくない何かがあるからなのか。
「これで大分と見えてきたな」
「アデルモ総支配人には、過去に何か恨みを買うようなことがあって、その報復としてホテルが狙われた。残念だが、アデリーナはその巻き添えを食らった可能性がある」
「巻き添えですか?」
「アデリーナは、アデルモ総支配人の肝いりで抜擢された逸材だ。それにアデリーナは、若いが優秀で様々なことに気配りができる。もしかしたら、わからないうちに地雷を踏んでいたのかもしれない」
「それではつじつまが合わない」
「どこがだ?」
「犯人の動機が総支配人への恨みで、それでホテルをターゲットにしているのなら、なぜ犯人捜しに協力している灯里さんにあんなことを言ったんだ?」
「確かにそこは引っ掛かるな。それじゃあまるで、総支配人こそが犯人だと言わんばかりだ」
「総支配人が犯人・・・」
アロンソの何か思い付いたような表情にアルフは不安を感じていた。
「バカなことを考えてないだろうな」
「もう一言付け加えてましたよね?」
「親近者か?」
「それと、あのリネン室の」
「能面注射器女」
「気に入ってるんですか、捜査官?」
「アガタくんのワードセンスはいい線いってると思う」
アルフはニヤリと笑ってみせた。
「アデルモ総支配人が過去にいたホテルで接点があった」
「あれはかなり恨みを買っているな」
「でも犯人との接点がまだはっきりとしてない。しかもホテルの従業員として正式に登録されている」
「でも注射器を持ち出したのは確かだ」
「また、そこですか?」
「いやいやそこは冗談ではなく、アガタくんが危険な目に遭ったという事実だ」
「まあ、それは確かにそうですけど・・・」
「とにかくだ。犯人も含めて、このホテルに関わる人物たちには、まだまだ裏がありそうだ」
「裏か・・・」
「おい、何を思いついたんだ?」
消防や警察の現場検証が終わり、騒然としていたホテル内も、少しづつだが落ち着きを取り戻していた。
当然、ボヤ騒ぎとホテルの脅迫事件とは関連付けられずに終了した。
さすがにアデルモ総支配人は、まさに火消しに回っていた。そして、従業員たちにも戒厳令を強いた。
だが従業員たちの中に不安が広がり始めていた。
それは情報が外に漏れるのも時間の問題だと言えた。
灯里は、アデルモ総支配人から無理せず帰るように声をかけられていた。
アルフ捜査官からも同様のことを言われていたこともあったが、ホテルの現状を考えると自分だけ帰ることは、灯里にはできなかった。
それにアデリーナが抜け、アガタもすでに帰宅してしまっている。
アヴェリーノは二人が抜けたフロントをカバーするのに必死だった。
灯里は、自分の顔を両手でパンと叩くと、「よし!」と気合いを入れ直した。
その時、玄関の扉が開き、エントランスにサングラスをかけた女性客が姿を現した。
しかし、その女性は回りをキョロキョロ見回し、誰が見ても挙動不審に見える姿をしていた。
灯里は、何か困っているのかと思い、その女性客の方に近づいて行った。
だが近づいてくる灯里の姿を見るや、ロビーの端の方へと離れて行く。
「なんだろう、あの人」
立ち止まりドギマギしているところに灯里は声をかけた。
「あのー、お客様?」
「は、はい?」
明らかに驚いたその客は、その勢いで思わずサングラスを床に落としてしまった。
「あっ、サングラスが」
「あ、いや、その、えーと」
両腕を動かして、顔を見られまいと必死に隠そうとしている。
それを横から覗きこんだ灯里は、目を大きく見開いて、まじまじと見つめた。
「わちゃ~見っかっちゃったぁ!」
「どうしたんですか?」
「いや、どうしたんですかと聞かれても。まあ、これには色々と事情と言うものがありましてですね?」
「事情?」
「ええ、まあ」
「もしかして」
「はい?」
「休暇ですか?」
「えっ?」
「あゆみさん!」
あゆみ・K・ジャスミンは、赤いニット帽にボーダーのセーターという出で立ちで、気まずそうに、頭をかいていた。
「うちって、そんな感じに見えるっすか?」