マスカレード・ヴェネツィアン・ホテル   作:neo venetiatti

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第三十一話 カフェラテのある風景

 

正面玄関から入ってきたその女性は、車椅子だった。

 

ホテルへ来ることを意識してのことだろうか、メイクをしっかりと施し、服装もきちっとしたジャケットを着こなしていた。

膝丈のスカートから伸びた二本の綺麗な脚はそろえられ、少し斜めに傾けられている。

 

灯里の横で、いつものように話しかけていたアガタは、その目線の先にその姿を捉えていた。

 

「私、行ってきます」

 

アガタはそう言って、灯里の前を通って玄関の方に向かって歩きだした。

 

「いらっしゃいませ、お客様。ようこそ、ネオ・ヴェネツィアーティーへ」

 

アガタは少し斜めの位置からその車椅子の客に話しかけた。

 

だが、その客は、その先に見えるフロントの方を見据えたままだった。

 

「あの、お客様?いかがされましたでしょうか?」

 

その言葉にやっと気づいたように、アガタの顔を見上げた。

 

「あっ、そうね。ごめんなさい。ぼーっとしちゃって」

 

「お身体の具合は大丈夫ですか?」

 

「大丈夫。それより、あそこで聞けばいいのかしら?」

 

「えーと、ご宿泊の手続きですか?それなら、ご案内いたします」

 

「あの人が泊まってるかどうか・・・」

 

「えっ?」

 

アガタはその客の言葉に戸惑ってしまった。

 

「調べてほしいの。できるでしょ?あなた、ホテルの従業員よね?」

 

「わ、わたしは確かにこのホテルの従業員ですが、その辺はちょっと無理だと思うんです」

 

「どうして?」

 

「ホテルには守秘義務がございましてですね、みだりにお客様の情報を話したりは出来ないことになってまして。個人情報の点からもですね・・・」

 

「いいわ。結構よ。あなた以外の人に聞くから」

 

「と申されますと?」

 

その客は、アガタを無視してフロントに向けて進み始めた。

 

「ああー、ちょっと、お客様!」

 

口をぼぉーっと開けている灯里の前を悠然と車椅子が進んで行く。

 

その後ろをあたふたとついてゆくアガタ。

 

その客はカウンター越しにそこに立つフロントクラークに毅然とした態度でこう言った。

 

「調べてちょうだい!泊まってるはずなの!」

 

「申し訳ありませんが・・・」

 

「どういうこと?客が頼んでるのよ?そんなことも出来ないの?」

 

灯里は、カウンター越しにいっさい怯むことなく声を上げるその女性と、その後ろで、あたふたするしかないアガタの姿を、茫然と見ていた。

 

「なんか、大変そう・・・」

 

すると、その女性客の発した言葉を聞くや否や、アガタが氷ついたように動かなくなった。

 

そして、二、三歩後退りし始めた。

 

カウンターから表に出てきたフロントクラークが、必死に説明を繰り返している。

 

「もういいわ!」

 

灯里には、そう言って車椅子の向きを変えようとしている女性の声が聞こえた。

 

そして勢いよく、車椅子を動かし始めた。

 

だが、灯里の前を通貨しようとした時、憤慨したその女性の顔に、なぜか悲しそうな表情が浮かんでいるように見えた。

 

それは、先ほどまでの女性の態度とは全く真逆の印象だった。

 

「あ、あの」

 

灯里の声は全く耳に届いていない様子で、その車椅子の女性は、ベルボーイが両側からタイミングよく開けた玄関の扉から外へ出ていった。

 

カウンターの前では、動かなくなってしまったアガタのそばでフロントクラークが心配そうにしていた。

 

その様子を見た灯里は、もう一度玄関の先にかすかに見える車椅子の姿を目で追った。

 

そしてその後を追うように、自然とそのまま歩き出していた。

 

 

 

 

「あのー、お客様?」

 

灯里のかけた声には気づかないまま、その女性は車椅子の車輪を動かし続けていた。

 

「大丈夫ですか?」

 

やっと気づいた女性がその場で車椅子を止めた。

 

はぁはぁ。

 

灯里は少し息を弾ませながら、その車椅子の横まで近づいて立ち止まった。

 

「何か用?」

 

その女性は、灯里の方には顔を向けず、前を向いたままだった。

 

「すみません。呼び止めたりして」

 

「だから何?なんか用があってついてきたんでしょ?早く済ませてちょうだい!」

 

「は、はい、その・・・」

 

灯里がどう切り出そうかと思っていた時だった。

 

その女性が車椅子を灯里の方に向きを変えると、灯里の右手をそっと掴んだ。

 

灯里が驚いていると、もう一方の手で何かを握らせてきた。

 

「お願いします。これでなんとかしてもらえない?」

 

その女性は表情を一変させていた。

 

灯里は、自分の手に握らせようと押し付けてきた高額紙幣を見て、心が締め付けられるような思いなっていた。

 

「お客様、これはどうして・・・」

 

「足りないのなら、もっとあげてもいいわ。だから、お願い。早くしないと手遅れになるかもしれない」

 

「手遅れ・・・」

 

灯里は、その場にしゃがみこむと、灯里の右手を掴んで離さない女性の手に、もう一方の手をそっと重ねた。

 

 

 

 

どんよりと雲が垂れ込めた空の下、灯里は車椅子を押して運河のほとりまで歩いてきた。

 

その女性は、落ち着きを取り戻していた。

そして、運河をぼんやりと眺めていた。

 

「ごめんなさいね、取り乱してしまって」

 

「いえ、お気になさらず」

 

「無理だとはわかっていた。でもいてもたってもいられなくて、あんなことになってしまったの」

 

「どなたかを捜されていたんですか?」

 

灯里は自分で聞いた手前、踏み込んだ質問だと思って下を向いた。

 

「すみません。こんなこと、聞いたりして」

 

「構わないわ。もうどうすることも出来ないと思う」

 

「そんな・・・」

 

 

 

「捜していたのは、私の主人なの」

 

「ご主人様をですか?」

 

「ええ。おかしいと思うでしょ?それなら直接連絡を取ればいいじゃないかって。でもあの人は、肝心なことを私には話そうとしないの。心配かけまいとしてね」

 

「そうなんですか」

 

「私がネオ・ヴェネツィアのことを口にしたばかりに、あの人、むきになりはじめてしまって」

 

「このネオ・ヴェネツィアのことですか?」

 

その女性は、運河をゆくボートの立てる並みをぼんやりと眺めていた。

 

「仕事が一段落したら、アクア中を旅して回ろうといってたの。でも、なかなかそう上手くいかず、先に私だけ旅に出た。待ちきれずに。そうしたら、その旅先のホテルが火事になって、逃げ遅れた私がこんな目に遇ってしまった」

 

「そうだったんですか・・・」

 

「あの人は、自分が一緒に行っていればと、ずっと悔やんでいたわ。そんなとき、何気なくポツリと口をついて出てしまった。ネオ・ヴェネツィアでゴンドラに乗って、サン・マルコ広場でカフェラテを飲みたかったって」

 

「はぁ」

 

「それなら行こうと言ってくれたんだけど、余計なことを私が言ってしまった。今じゃない。あの時だったんだって」

 

 

「それからしばらくして、あの人は、とりつかれたように何かを調べて始めた。そして、あまり家にも帰らなくなってしまった。きっと、あの時の事故のことを調べていたんだと思う。すると、ある時帰ってきたかと思うと、カフェラテのことを急に聞いてきたの。どんな店か知ってるかって」

 

「カフェラテですね。先程お客様が話していたサン・マルコ広場にあるんです、有名なお店が」

 

「カフェ・フローリアン」

 

「そうです!」

 

「そのカフェ・フローリアンのことを、無邪気に話すんです。そのお店の店長さんとお友達だという女性に会ったって」

 

「えっ、お友達・・・」

 

「あのホテルの従業員の女性の中に、そんな人がいるんだって言ってたんです。あまりに無邪気に話すもんだから、年甲斐もなく、私、ちょっと疑ったりして・・・」

 

「あ、あのー、それが理由でホテルにお越しになられたということでしょうかぁ?」

 

「うん、それもあった」

 

「はへぇ~」

 

「それだけだったら別に私は良かったんです。こんな私に、あの人はほんとに良くしてくれるんです。もったいないくらい。でも、事故の話になると、表情が変わるんです。怖いくらいに。きっと、何かを見つけたのかもしれない。だから、思い詰めて何かしてしまう前になんとかしないとと思って」

 

「それで、ネオ・ヴェネツィアーティーへ来られたのですね?」

 

「でも、いきなり行っても門前払いになるのは、当たり前よね」

 

灯里は、少し疲れたように微笑む女性の横顔を眺めていた。

 

「あの、私、友達作りの達人だなんて、よく言われるんです」

 

「友達作りの達人?」

 

「はい!だから、お友達となら色んな話をしても、おかしくないですよね?」

 

「どういうこと?」

 

「だから、聞いちゃいますね?」

 

「聞くって何を?」

 

「ご主人様って、もしかしてアレキサンドロさんですか?その方となら、この前、カフェ・フローリアンの話、しましたよ?」

 

「まさか、それってあなた・・・」

 

にっこりと微笑む灯里の顔を、その女性は、驚きに満ちた表情で見上げていた。

 

 

 

「アレキサンドロ・ペテルギウス。元建築家。妻が事故によって車椅子生活を送るようになり、しばらくして設計事務所をたたんでいます。妻の介護に専念するためというのが理由です」

 

アルフ捜査官は、専従捜査班からの報告を受けていた。

 

犯人が複数犯である可能性が色濃くなったきたことで、ここ最近ホテルとの間でトラブルを起こしている者はいないかを絞り込んでいたところ、先日のアガタへの暴言の件から、アレキサンドロの名前が急浮上してきたわけだった。

 

「その後は?」

 

「現在は、妻の介護の傍ら、古くなった建築物の修復に協力しています。それ以外は目立った動きはありません」

 

「建築物の修復か。このネオ・ヴェネツィアなら働き甲斐があるだろうなぁ」

 

「ただ、ほとんどが何も受け取らないで協力していると」

 

「ボランティアってことか?」

 

「そうです。先日まで行われていた、カ・ドーロの修復にも関わっていたとか」

 

「カ・ドーロねぇ。ん?カ・ドーロって、最近なんかで聞いたなぁ?」

 

アルフは腕を組んで「うーん」と唸ってみた。

 

「何か今回の犯行と接点は?なんでもいい。何かないのか?」

 

「そう言えば・・・」

 

「なんだ?何かあったか?」

 

アルフは思わず前のめりになっていた。

 

「アレキサンドロの妻の事故の件ですが」

 

「火災の時に逃げ遅れたってことだったが」

 

「どうも起こるべくして起こった、という噂がささやかれていまして」

 

「なんだ、それは?」

 

「そのホテルを建築する際に、電気工事に使うケーブルの類いを、質の落ちる粗悪品を使用していたんではないかと」

 

「ちょっと待て。ホテルなのか?その火災が起こったのは?」

 

「旅行先のホテルでの事故です」

 

「ちなみにホテルの名前は?」

 

「ホテル・ネオ・リアルト・グラン・カナル」

 

「おい、ちょっと待て。あんな目立つところで火事か?あそこはかなり綺麗な作りで・・・もしや、あれって建て替えか?」

 

「全焼は免れた訳ですが、結局ほとんどをやりかえたはずです。その時にケーブルに粗悪品が使われていたことが判明したわけです」

 

アルフは鋭い視線を、これまでの関係性を記したホワイトボードに向けた。

 

「まさか、その時そのホテルにアデルモ総支配人がいたとか?」

 

「いえ、従業員名簿にはありませんでした」

 

「そうか。だが、アレキサンドロの妻が、ホテルの火災事故と繋がっているのは、やはり気になる」

 

その時、ドアをノックする音がした。

ドアを開けて、モニタールームに張り付いていた係員が顔を見せた。

 

「すみません、お取り込みの途中悪いのですが」

 

「どうした?」

 

「アルピーナ婦人です」

 

「なんだと?」

 

アルフはすぐさま奥の部屋から、会議室を通り抜け、モニタールームに向かった。

 

ロビーを捉えたカメラのモニターには、正面玄関からゆっくりと入ってきたアルピーナ婦人が映し出されていた。

 

「疑わしい人物の、最有力候補のお出ましだな」

 

アルフは、顎の無精髭を撫で回していた。

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