マスカレード・ヴェネツィアン・ホテル 作:neo venetiatti
アルピーナ婦人を捜査員二名が部屋に訪ねていた。
もちろんボヤ騒ぎ以降、姿を見せていなかったことを聞くためだった。
これまでに掴んでいた捜査班の情報はこうだった。
アルピーナ婦人はある資産家の家に生まれ、夫が亡くなって以降その当主の座を引き継いだが、今は引退し、悠々自適の生活を送っているということだった。
だが、アルピーナ婦人の資産家としての活動実績が判然としない。
そして、最近の動向も。
ボヤ騒ぎ以降は知り合いのところに身を寄せていたらしい。
ホテルへの連絡が遅れたことは申し訳ないと釈明した。突然のことで気が動転していたという。
今のところ、事件への関与は認められないことから、捜査員を引き上げさせたアルフだったが、引き続き、アルピーナ婦人の身辺調査を続行するよう指示を出していた。
そして、アルフ捜査官にはもうひとつ、やっておかなければならないことがあった。
今回の本当の意味での最重要参考人、アデルモ総支配人に話を聞くことだった。
今となっては逃げることも出来ないであろう、アデルモは、ここ最近、総支配人室から姿を見せる機会が少なくなっていた。
アデルモは、ネクタイのしまり具合を確かめると、ジャケットを羽織り直し、そのドアをノックした。
中から返事が聞こえ、ドアをゆっくりと開けた。
眼鏡をかけた女性秘書が会釈すると、インターフォンでアルフが来たことを告げる。
「中へどうぞ」
アルフは言われるがまま、その先にあるでドアを開けた。
「捜査官、お待ちしてました」
アデルモはそう言って、大きな執務机を立ち上がった。
アルフはすすめられたソファーに腰掛けた。
そして、その向かい側にゆっくりとアデルモも座った。
「総支配人、予想されていたようですな」
「ええ。実は遅いぐらいだと思っていました」
そこにノックをして、先程の秘書が二組のコーヒーカップを運んできた。
「失礼します」とだけ言った秘書は、テーブルにカップを置いて、黙ったまま軽く頭を下げて部屋を出ていった。
そのドアが閉じられるのを待って、アルフは口を開いた。
「もっと早くにこうなると?」
「そうですね」
「つまり、そう理解されていた」
「捜査官、色々とお調べになっているんでしょ?」
「まあ」
アルフはいつもように、無精髭のあごをさすった。
「こうなった以上、当然調べられていると理解ぐらいしています。ただ、捜査官には、理解していただく必要がある」
「何をですか?」
「私は被害者だということです」
「まあ、確かにそれはそうでしょうなあ」
「当然です。大事な従業員が襲われ、別のフロントクラークまで危ない目に合ってるんです。その上、ボヤ騒ぎまで起こされている」
「理解しているつもりです」
「それにホテルとして大変な損失です」
「損失?」
「信頼を失うことです」
「確かに。だからマスコミ発表を遅らせることに協力させていただいた」
「それは捜査官には有難いことだと感謝しいています。だが、一部マスコミには漏れている」
「100パーセントは無理です。事件が事件だけにマスコミの格好のネタです」
「そこが困りごとだと言ってるわけです」
「そのうち、色んなことがほじくり返されるでしょうな」
「捜査官、それは一体どういう意味でおっしゃっておられるのか?」
アルフは、わざと焦らすようにコーヒーカップを持ち上げ、ゆっくりと口をつけた。
「こうなった以上、隠してもしょうがないじゃないですか?」
「何を言ってるんですか?」
「単なる嫌がらせとは考えにくい。そのことは、私と総支配人との間で考えは一致しているはず。ですので、心当たりのあることを話して頂けるとありがたいのですが」
「狙われる原因があると?」
「そうです」
「捜査官?こんな商売を長く続けていると、恨まれることなんていくらでもある。それをいちいち取り上げるなんて、実際無理な話というもんですよ」
「なるほど」
「あなたも警察の人間なら色んな事件に携わってきたんだから、おわかりでしょ?」
アルフは心の中で「だから聞いてるんだろう?」と呟いていた。
「ここまでホテルとしては全面的に協力してきました。できる限り早く事件を解決して頂きたい」
アルフは足を組み換えて座り直すと、ふぅーと息をはいた。
「ところで総支配人?昔、マンホームにおられたとか?」
「それが何か関係あるんですか?」
明らかにアデルモの顔色が変わった。
「参考までに聞いておこうと思いまして」
「知っているのなら、それでいいじゃないですか?」
「リゾートホテルで働かれていたとか?」
「その通りです」
「そのあと、アクアへ来られてからも?」
「ええ、当然です。私はホテルマンですよ!」
「丁度その間、半年間だけ経歴が空白ですよね?」
「捜査官?私は被害者だと言いましたよね?」
「気分を害されたのなら、謝ります。仕事柄、どうしても人にものを尋ねる癖が染み付いてまして」
「旅です。若いうちにあちこち回って見聞を広めようと思っただけです」
「旅ですか?ちなみにどちらへ?」
「だからあちこちです」
「ネオ・ヴェネツィアへは?」
「そんなの、いちいち覚えてませんよ!」
アデルモの苛立ちは、この事件の意図がどこにあるのか、それがまだわからないことを示しているように、アルフには感じられた。
だが間違いなく、この男の存在が事件のカギになっていることを、アルフは確信していた。
アデリーナは、病院のベッドから起き上がると、まだ背中に走る痛みに少し顔を歪めた。
じっとしていると、痛みがやわらいでくる。
こわばっていた身体の力が抜けて行き、ふと窓から外に目を向けた。
「あれからみんな、どうしてるだろう・・・」
そうぼんやりと呟いた時だった。
ドアをノックする音。
アデリーナは返事を返す。
ドアがゆっくりと開けられ、キャップを被った青年が顔を覗かせた。
「アデリーナさん、お届け物です」
「どうぞ」
青年はいく種類かの花をあしらった白いかごを抱えていた。
アデリーナはそれを窓際に置くよう青年に告げた。
サインをし、その青年が部屋を出てゆくと、背中にさわらないように、ゆっくりとベッドを降りた。
「誰からかしら」
だが、差出人を示すカードなどは、そこにはなかった。
すると今度は、病院の職員らしき人物が入ってきた。
「アデリーナさん、よかった。もう立てるようになったんですね」
「はい、お陰さまで」
「それはよかった。この分だと、退院も近いですね」
「ありがとうございます」
「うちの病院でも最高の腕を持つ外科医が執刀しましたから、安心していいと思います。傷痕も最小限で済むと思いますよ」
「そうですか」
「丁度マンホームから戻ってきたところだったんですが、急遽スケジュールがキャンセルされたんですよね。ほんとにタイミングが良かったですねぇ」
「そんなことがあったんですか・・・」
「それと、こちらも」
と言って、その職員は一枚の書類をアデリーナに差し出した。
入院費や手術代など、かかる費用のすべてが精算されていることを証明するものだった。
「これは?」
「そこにサインをいただければ、それで結構です。あとは何も必要ありません」
「必要ないって、どういうことですか?」
「ですから、全て精算済みです」
「全て?誰が支払ったっていうんですか?」
アデリーナは驚いた顔で、その書類の隅々まで目を通した。
そのサインを記入する欄には、見たことのない名前が記されていた。
「アンナリーザ・エレノア」
「お心当たりは?」
「ないです」
「そうですか。てっきりエレノア財団の方だと思っていたのですけど」
「エレノア財団?」
「だから、色んなことがスムーズに進んだのかと・・・」
アデリーナは、背中に痛みを感じてベッドに手をついた。
「大丈夫ですか?」
職員の手を借りて、アデリーナはベッドに横たわった。
「サインはまた今度で構わないので」
そう言って、職員は部屋を出ていった。
アデリーナは、手にした書類の、その署名をもう一度見た。
「エレノア財団といえば、アクアでも指折りの財閥グループのひとつ。それがどうして・・・」
何かの間違いだと考えようとしたアデリーナだったが、自分の知らないところでことが進んでいるような、そんな感覚に襲われていた。
「私の知らないところ・・・」
アリーチェは、受話器を戻すと、そばにいた秘書に話しかけた。
「アルマは?」
「本日は休んでいます。気分がすぐれないと」
「そうなの。そうでしょうね」
アリーチェは、歴史を感じさせる古い造りの執務室の、その大きな机を前にしてため息をついた。
どう見ても幼く見えるその姿には似つかわしくない部屋で、悠然とした態度で天井を見つめていた。
「お嬢様、ご気分がすぐれないのですか?」
「そうね。すぐれないかと言われれば、確かにそうなるわね」
「それでは、医務官にお薬を持ってくるよう伝えます」
「お薬は結構よ。この気分を沈める薬は、ないと思うから」
「それはどのような意味なのか、わかりかねますが・・・」
「いいのよ、わからなくて。それより、アルマに伝えて。気分が晴れても晴れなくても、どちらでもいいから、とにかくここへ来るように」
「今すぐがよろしいですね」
「そうね。私の気がそう長くないこと、知ってるはず」
アリーチェは、遠くを見るように目を細めた。
「あの子、なんてバカなことをしたの?」
アルフが会費室に戻って来るのを待っていたかのように、専従捜査班の一組が椅子から立ち上がった。
「ご苦労。何か収穫があったんだな?」
「アージアの素性がわかりました」
「そうか。話してくれ」
「アージアはホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーに来る前に、看護師として勤めていた経歴があります」
アルフはそう言って、パイプ椅子をまたぐように腰掛けた。
「つまり、アガタを狙ったあの注射器に入っていた薬物は、そこが出所だといえそうだな」
「その前は修道院にいた模様です」
「家は?生まれは?」
「アージアは、身寄りのない子供を預かっていた孤児院で育っています」
「親がいない?ということは、素性もわからないということか?」
「そうなるのですが、実は、アージアを捜していた人物がいたようなんです」
「捜していた?誰だ?」
「実際に捜していたのは、興信所の調査員だったわけですが、その背後にですね」
「なんだ?何か出たか?」
「エレノア財団の名前が出てきました」
「なんだと?エレノア財団?なんでいきなりアクアを代表する財閥の名前が出てくるんだ?」
「どうやら、アージアの生まれと関係があるのかも」
「関係って言ったって、孤児院で育てられた女の子が、実は財閥の娘だったとか言うんじゃないだろうなぁ?」
アルフはそう言って、何か腑に落ちない表情になった。
「おい、ちょっと待て。宿泊客名簿を持ってきてくれ!」
モニタールームにいた捜査員がアルフにそれを渡した。
アルフは眉間にしわを寄せて、その名簿に目を通していたが、あるところで目が止まった。
「まさかと思ったが、まさかまさかだな」
アルフが目を止めたところには、その印象的な名前が記されていた。
アレッサンドラ・テスタロッサ。
その誰もが目に止めるに違いないその名前を、訂正するために引かれた二重線の下に、別の名前が書かれていた。
「アリーチェ・エレノア。間違いない。エレノア財閥の第三十代目当主だ」
アルフは、事件の真相に間違いなく一歩近づいたと確信した。
だがそれは、とても厄介なことに首を突っ込みかねない、危ういことを意味していた。