マスカレード・ヴェネツィアン・ホテル 作:neo venetiatti
水無灯里は、705号室のドアの前にいた。
誰が見てもホテルの従業員とわかる制服姿であったが、灯里自信、そうなんだと自分に言い聞かせるように、心の中で何度も繰り返しつぶやいていた。
目の前には、四角いワゴンがあった。
そこには、本来この部屋の宿泊客だったアサドのクリーニングされたスーツと、小さな箱がひとつ置かれていた。
灯里は、それをじっと見つめながら、自分に言い聞かせるようにポツリとつぶやいた。
「練習通りやれば、大丈夫だから」
そして、大きく息を吐き出すと、今度は確かめるように言葉を出した。
「それでは行きます」
ドアの横のボタンを押す。
部屋の中では鳴っているはずの音を想像しながら、ドアが開くのを待った。
だが、なんの反応もない。
もう一度ボタンを押す。
時間はそんなに経っていないはずだったが、灯里は辛抱強く待ち続けた。
すると、ドアのロックが解除される音が鳴った。
ゆっくりと開けられ、その隙間から能面のような表情のない顔が、半分だけ覗いていた。
「なに?」
感情を押し殺したような静かな声がそう話しかけた。
「あ、あの、頼まれていたものをお届けに上がりました」
灯里は、緊張のため上ずった声を、なんとか落ち着かせるように話した。
「頼まれていた?知らないわ」
「はい、この時間にと・・・」
「そこに置いておいて」
「あわわわわー!」
「なに?」
「それでは困るんです!」
「なんで?なんであなたが困るの?」
「私ではなく、アサド様からのお申し付けでして」
「アサド?」
その名前を聞いたアージアは、何かを考えるように、ワゴンの上に視線を移した。
「今何時?」
灯里は左手の腕時計を見た。
「間もなく午後三時になります」
「三時・・・」
アージアは怪訝な表情でその時間を繰り返した。
「この時間になったら届けるようにと、アサド様が伝言されて行かれたと聞いております」
灯里は額に汗を滲ませながら、必死に言葉を続けた。
「じゃあ、その箱だけ預かって・・・」
「ああ~~それもダメなんですぅー!」
「一体何がダメなの?客がそれでいいって言ってるんでしょ?」
「違うんです。アサド様がおっしゃるには、そう言われても、ちゃんとお部屋の中まで運ぶようにと言って行かれたということなんです。大事なものだから、そうするようにと」
「そんなに?そんなに大事なものって、一体なんなの?」
困惑しているアージアに向かって、とにかく灯里は必死になって食い下がった。
「とにかくですね?アサド様がおっしゃるには、時間が大事だからとご伝言されたということで、ですので、お部屋の方に、入らないと・・・いけないんですぅー!」
灯里は今にもワゴンごとドアから突っ込んでいきそうな勢いだった。
「わかったわよ!」
これまで冷静だったアージアが焦ったように応えた。
「それでは失礼します」
灯里はワゴンを押して部屋へ入ろうとした。
「はへ?」
だが部屋の奥へと進もうとして、途中で立ち止まった。
そに先は真っ暗だった。
そして背後では、ドアが閉じられた。
視界が遮られたような感覚になった。
灯里は進めなくなってしまった。
「何をしてるの?部屋に入るんでしょ?」
「あ、あの、お先が真っ暗でして・・・」
そう言ってると、徐々に目が慣れてくるのがわかった。
そに先にぼんやりと炎のようなものが揺れていた。
灯里はそれを頼りにワゴンを部屋の中へと進めた。
ソファーに挟まれたテーブルの上に、ろうそくの炎が揺れていた。
灯里は部屋の中を見回した。
「いない・・・」
思わず小さくつぶやいていた。
そして今度は何かを探すように辺りに目を向けた。
壁そばに腰の高さくらいある小さなテーブルが備え付けられていた。
そのそばまでワゴンを運んだ。
「さあ、用がすんだら出て」
アージアが少し苛立ったように言った。
「あの、それが・・・」
「まだ何かあるの?」
「ですから、時間ちょうどに渡すようにとの、アサド様からの伝言でして・・・」
アージアは灯里の態度に何かおかしいと感じた。
「ちょっと、それを見せてもらうわ」
「ああ~~ですからお時間丁度なんですぅ~~!」
灯里がワゴンの前に立ってアージアからその箱を防ごうとした。
その時、ドアの呼び鈴がなった。
二人の動きが止まった。
「今度は誰なの?」
アージアの能面の顔が明らかに焦っていた。
「えっと、練習とは段取りが変わったの・・・?」
アージアが灯里の方に振り返った。
灯り里は思わず自分の口を両手でふさいでいた。
「あなた、出て」
アージアは灯里のつぶやきが聞こえてなかったのか、灯里に出るように言った。
灯里は、恐る恐るドアの方へ向かった。
途中振り返ると、表からは見えないように、アージアが壁の角から覗いていた。
その人間味を一切無くしたような目が、灯里の動きをじっと見ている。
灯里は、両腕を肘を曲げて胸の前でキュッと縮こませた。
恐怖心を滲ませた顔をドアに向けると、その顔を近づけた。
「あの、どちら様ですか?」
少し間をおいて、女性の落ち着いた声がドアの外から返ってきた。
「アルピーナの申します」
「アルピーナ婦人?」
灯里は、思わず小声で言った自分の言葉に、驚いたように肩をすくめた。
そして、恐る恐る振り返った。
アージアに伝わっているのかいないのか、判断のつかない表情だった。
「アルピーナ婦人とおっしゃる方が来られてます」
灯里は咄嗟に自分は知らない人だという言い方にした。
なぜいま、ここにアルピーナ婦人がやって来たのか、わからなかったからだった。
アージアはすぐには答えようとしなかった。
だがもう一度、灯里が尋ねようとした時、アージアから口を開いた。
「どうぞ」
低く、感情のない落ち着いた声だった。
灯里はそれを聞いて、再びドアの方に向いた。
ロックをはずし、ゆっくりとドアを開けた。
「アルピー・・・」
そこに立っているアルピーナ婦人と目があった瞬間、灯里は婦人の名前を口にしようとした。
だが婦人は、人差し指を自分の口に当てて見せた。
そして、優しく灯里に微笑んだ。
「入ってよろしいかしら?」
「は、はい!」
灯里の前をゆっくりと婦人は歩いていった。
ドアが閉じられると、一気に暗くなる。
「悪いのだけど、歳なもんだから目が悪いの。もう少し明るくしてもらえないかしら」
灯里の方に振り返りながら、婦人はそう言った。
灯里はすぐ様、近くにあった照明のスイッチに手を伸ばした。
部屋中の壁の間接照明が一斉に灯った。
それによって、部屋の中の様子がすべて浮き彫りになった。
だが、部屋の中は、灯里の運び込んだワゴン以外、何もなかった。
そこには、テーブルの上のろうそくだけがポツンとあるだけだった。
アルピーナ婦人が部屋の中へ入って行くと、アージアはそのまま後退りしていった。
「お久し振りね、アージア」
アージアは返事をしようとせず、警戒してじっと婦人を見つめていた。
「アルマとは何度も会ったことあるけど、あなたとはそうは会ってなかったから、私の顔を覚えてないのかしら?」
「用件はなんですか?」
ようやくアージアが口を開いた。
「そうね」
アルピーナ婦人は、少し話を切り出すのをためらっているように見えた。
だが、アージアの頑なな態度にきっぱりとした表情に変わった。
「アージア、もう終わりにしましょう」
アージアは婦人の言葉に態度がかわった。
「何を言ってるんですか?私にはよくわかりませんが?」
「先程、インターポールが本格的に動き出したと連絡を受けたわ。つまり、決着をつけることにしたということね」
「だから?だからなんだと言うんですか?」
アージアは身じろぎせず、アルピーナ婦人から視線をはずそうとしなかった。
灯里は、婦人の肩越しにその様子を目の当たりにして、身震いするぼどの怖さを感じていた。
「もう終わった。そういうことよ。あのアイアート・ライデンはこれで終わるの。そうなると、アデルモも逃げることはできない。つまり、私たちの復讐も終わる。だから、あなたがここにとどまる理由もなくなるということよ」
アージアは、含み笑いをするような声を漏らし始めた。
そして、これまでの印象とはまるで違うように、高らかに笑い声をあげた。
「あなたは今頃何を言ってるの?バカじゃないの?もうそんなことはどうでもよくなったのよ!」
「ではどうしてここにいるの?」
「それはね、復讐を完結させるために決まってるでしょ?」
皮肉めいた表情が怪しく光っていた。
「何を言ってるの?私たちの復讐は、アデルモの罪を世間に公表して、その上で罪を償わせることでしょ?インターポールが正式に動き出したということは、それが現実になるということよ」
「今、私たちと言いましたよね?勘違いしないでください。いつからあなたたちと私たちが一緒だと言いました?」
「アージア?あなた、何を言ってるの?」
「そもそも、あなたたちと私たちとは、考えも目的も違うの。私たちの復讐は、あいつが大事にしているものを奪い、傷つける。それが目的なのよ!」
そう言ってアージアはまた高らかに笑い声をあげた。
「アージア?あなたは知らないのね」
奇妙な笑い声を引きつかせながら、アージアはアルピーナ婦人を正面から見据えた。
「アルマは今、アデルモと一緒なのよ」
その言葉にアージアの動きが止まった。
その能面のような顔が上目遣いになって、鬼のような形相で婦人を睨んでいた。
「それはどういうこと?」
「アデルモはライデンと決着をつけようと、自らライデンのもとに向かった。それを見届けようとアルマも同行した」
「じゃあ、合流する計画は?あの女を差し出して、アデルモを連れてくるはず・・・」
「連絡はあった?どこからもないでしょ?そんな話は、どこにもないの」
「アサドは、あいつは協力してくれるって。だから、姉さんの代わりに私が・・・」
「アージア?残念だけど、あなたは騙されていた。最初からアデリーナさんを殺すなんて、そんな話はなかったのよ。ライデンと取引をするため、人質として都合がよかった」
「じゃあ、アサドは?連絡をよこしてきたわ!」
アージアはワゴンの上の箱に目を向けた。
「あ、それはまだ・・・」
灯里は思わず声をあげていた。
そして、アルピーナ婦人の前に出てきた。
「アデリーナさんが見つかってから・・・」
アージアは勢いよくワゴンに飛びかかっていた。
そして箱を手にすると、その蓋をむしり取るように開けた。
「なんで?」
何も入ってなかった。
茫然としていた顔が、般若の如く豹変した。
「騙したのね!」
アルピーナ婦人は灯里の前に出た。
「ここへも警察が来る。もう終演の時が来たの、アージア?あなたの役は舞台を降りるタイミングが来たということなの」
アージアは婦人の言葉に返って火がついたように怒りを向けていた。
「こんなことでは終わらない。終わらせないわ!」
アージアはアルピーナ婦人に飛びかかろうとした。
その婦人を押し退けて、灯里が前に出た。
三人が互いにぶつかるような格好となった。
だが次の瞬間、灯里はアージアに後ろから羽交い締めにされて捕まってしまった。
そして、そのままジリジリと婦人から距離をとるように後退りしていった。
「やめて!アージア!その人は関係ないでしょ?」
「この人は私を騙した!」
首を絞められた格好になった灯里は、苦しさに顔を歪めていた。
アージアは、腰の辺りでサイドテーブルにぶつかった。
すると、その上を手でガサガサと探り始めた。
引き出しを探り当てたアージアは、ガタガタと音をたてながらそれを引っ張り出した。
そして中に焦るように忙しく手を突っ込んだ。
そこから出てきた手には、恐怖すら感じるぼどの、鈍く光るサバイバルナイフが握られていた。
「灯里さん!逃げて!」
アルピーナ婦人の声とは裏腹に、その鋭い刃先は灯里の頬に向けられた。
だが、アージアがその動きを止めた。
アージアは、驚いた表情で婦人の顔を見つめていた。
「今、なんて言ったの?」
婦人は、そのアージアの驚愕の目が、背後から灯里に向けられていることに気がついた。
「アージア?あなた、その方の名前を知っているのね?なら、その人が本当は誰なのかも知っているということよね?」
婦人から向けられた言葉に、アージアはすぐ目の前に見える灯里の横顔に目を向けた。
耳のそばからピンク色の髪が長く伸びている。
「そんな・・・」
灯里は目をギュッと閉じて、苦しさに耐えていた。
改めて、アージアはその横顔を見つめた。
「あのときの・・・あのゴンドラの・・・」
すると、アージアの顔から、その能面が剥がれ落ちていった。
それはまるで、その時を思い出したかのように、少女のような、あどけない表情に変わっていった。