マスカレード・ヴェネツィアン・ホテル   作:neo venetiatti

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第五十一話 想い出のゴンドラ

 

水無灯里は、シングルのウンディーネとしてようやくスタートを切る時期を迎えていた。

 

あの水の三大妖精のひとりとして世間から注目されているアリシア・フローレンスの後輩として、いよいよ本格的にプリマになるための修行に取り組む日々を送っていた。

 

だが灯里自身、本当にそこまで行けるのかどうか、どこか不安を抱えていた。

 

ARIAカンパニーの一階の壁に掲げられたスケジュールボードには、今日も、そしてこれから先もアリシアの仕事の予約がぎっしりと書き込まれている。

 

半分口を開けた状態で、灯里はそれを見上げていた。

 

「あら、灯里ちゃん?どうしたの?」

 

「あっ、いえ・・・なんでもないです」

 

支度を終えたアリシアが姿を現した。

 

少し目を伏せるような灯里を見て、アリシアは何かを感じたように心配な表情になった。

 

「灯里ちゃんの今日のスケジュールはどんな感じなの?」

 

「今日は、まだ残っているお店の中の片付けと、アリシアさんが戻ってくるお昼までに買い出しを済ませておこうと思ってます」

 

「合同練習は?今日はどうするの?」

 

「藍華ちゃんは晃さんのゴンドラに同乗するそうで、アリスちゃんは学校で試験があるって言ってました。だから今日の合同練習はありません」

 

「じゃあ灯里ちゃん?午後は少し気晴らしにどこかへ出掛けてみるのは、どうかしら?」

 

「でも、アリシアさんは今日もスケジュールが詰まってるじゃないですか?なのに私だけそんなこと、できません」

 

灯里は申し訳なさそうに目を伏せた。

 

「灯里ちゃんの気持ちはうれしいわ。でもね、時には街を歩いてみるのも大事だと思うの。いつもとは違う、何か新しい発見があるかもしれない」

 

アリシアは優しく微笑んでみせた。

 

灯里は、今日の一組目の客を乗せたアリシアを見送って、すぐに部屋の片付けに取りかかった。

 

 

 

アリシアとお昼をすませ、午後からの客とアリシアを送り出した灯里は、アリシアの好意を素直に受けることにした。

 

だが、今日は合同練習がないこともあって、少しでもゴンドラに乗る時間を作ろうと、練習がてらゴンドラで出かけることにした。

 

アリシアに言われた通り、街の様子を意識しながら、様々な運河を進んだ。

 

途中、観光スポットといえる混雑が増すところを通るたびに、あることが気になっていた。

 

「今日はなんだか子供たちが多いなぁ」

 

幼い子供たちの走る姿や歓声が聞こえてくるのが印象的だった。

 

そこで灯里は、昨晩、アリシアから聞かされた話を思い出した。

 

明日は、ネオ・ヴェネツィアがアクアの恵まれない子供たちを招待する、年に一度のイベントがある日だというのだった。

 

あちこちの孤児院や施設から、いろんな地域から順次招いて、一日ネオ・ヴェネツィアを楽しんでもらおうということだった。

 

そして、今回は地元といえるネオ・ヴェネト州から招待する日でもあった。

 

「そうか。アリシアさんが言ってたことって、このことだったんだ」

 

灯里は子供たちのはしゃぐ姿に、思わず笑顔になっていた。

 

 

 

サン・マルコ広場の前を通りすぎ、いっそう賑やかなマルコ・ポーロ国際宇宙港前を通過した。

 

そして、少し賑やかさも落ち着いてきたあたりの船着き場に差し掛かったところで、ひとりの女の子の姿が目に止まった。

 

女の子は、じっと遠くの海を見つめていた。

 

灯里のゴンドラが近づき、通過しようとしても、女の子の視線は海に向けられていた。

 

灯里は、少し通過したところで、ゴンドラを止めた。

 

なぜか、どうしてもその女の子のことが気になってしまったからだった。

 

少しの間、その場で振り返って女の子を見てみた。

 

「海、好きなの?」

 

灯里の問いかけに何の反応もない。

 

「海っていいよねぇ。大きくてどこまでも続いていて。わたしもね、時々思うんだよ。この先って、どこに繋がってるんだろうってね」

 

女の子は、ずっと海を見つめたままだった。

 

「ごめんね。お姉ちゃん邪魔だったね」

 

灯里は女の子の様子に、すまなさそうに苦笑していた。

 

「あそこはナニ?」

 

すると女の子が話しかけてきた。

 

「えっ、どこ?」

 

驚いた反応の灯里に、女の子はまっすぐ前に人差し指を突きだした。

 

海の上に建物が浮かんでいるように見える島。

 

「あれはね、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島っていうんだよ!すごいでしょ?あれ全部教会なんだよ!」

 

興奮ぎみに説明する灯里に、女の子は表情を変えずに見つめていた。

 

だが、ポツリとつぶやいた。

 

「浮かんでる」

 

灯里は、女の子の方に目を輝かせて振り返った。

 

「そうなんだよ!」

 

「えっ?」

 

「ああ~~ゴメン!そう見えるってことだよね・・・エヘヘヘ」

 

女の子は、気まずそうにしている灯里の顔をじっと見つめていた。

 

「なんか、顔についてるぅー?」

 

「お姉さんて何やってるひと?」

 

「わたし?」

 

灯里は自分の格好に改めて目を向けてみた。

 

「わたしって、なんに見える?」

 

「うーん、なんか運ぶお仕事のひと?」

 

「間違ってないけど。運ぶというより案内をするの」

 

「案内?」

 

その女の子は、ウンディーネのことを知らないようだった。

 

「このネオ・ヴェネツィアにはね、毎日たくさんのひとがやってくるのね?そういうひとたちに、こんないいところがあるんだよって説明するの」

 

「説明?なんで?」

 

「なんでって・・・」

 

灯里はどう説明すれば伝わるのか、困ってしまった。

 

女の子の様子を見ると、またぼんやりとサン・ジョルジョ・マッジョーレ島を眺めていた。

 

「あそこには行けるの?」

 

「うん、行けるよ!」

 

「どうやって?」

 

「ボートだとか、例えばこのゴンドラだとか」

 

だがそれを聞いて、女の子は黙りこんでしまった。

 

「どうしたの?」

 

女の子は小さくつぶやいた。

 

「お金、いるんでしょ?」

 

灯里はハッとした。

 

目の前にいる女の子の姿は、まるで現実の世界に拒絶されて、立ちすくんでいるように見えた。

 

灯里はその時、以前アリシアから聞いた、あるエピソードを思い出した。

 

 

 

アリシアがまだシングルだったある日、どうしても運河を渡って行かないといけないという女の子と遭遇した。

 

だが、その女の子はトラゲットを利用するお金すら持ってなかった。

 

その時、アリシアはグランマから聞かされたことを思い出した。

 

ウンディーネは、ただ観光案内をするだけでなく、日々の中で何が出来るかを考える仕事なんだと。

 

その時の自分なら、何ができるのか。

 

アリシアは、その女の子の悲しそうな顔を見て、少しでも気持ちを和らげてあげたくて、とっさにその言葉を口にしていた。

 

「ねえ、わたしたち、今日からお友達にならない?」

 

「お友達?」

 

「そうよ。そういうことにしましょう!それなら大丈夫!」

 

冷静沈着にみえて大胆なアリシアの性格は、この時からすでに発揮されていた。

 

 

 

「ねえ、あの島に行ってみない?」

 

灯里は、女の子にそう声をかけていた。

 

「えっ・・・」

 

「そうしよう!」

 

「でも、わたし・・・」

 

「こういうのはどう?私たち、今日からお友達になるの!」

 

女の子は驚きと戸惑いが入り交じった表情になっていた。

 

だがそのあと、ためらうように小さく灯里に訪ねた。

 

「お友達になってくれるの?」

 

そう問いかける女の子の不安そうな顔を見て、灯里は胸の奥で少しズキンと痛くなるのを感じた。

 

でも灯里はいっぱいの笑顔で応えた。

 

「うん、なろう!」

 

 

 

ふたりを乗せたゴンドラは、ネオ・アドリア海を進んでいた。

 

女の子は、不安と驚きが入り交じった表情で、周りの光景に目を奪われていた。

 

両手はゴンドラのへりをしっかりと掴んでいる。

 

振り返るとそこには、耳のそばから伸ばした、ピンク色の長い髪を風になびかせて、灯里が嬉しさいっぱいの笑顔で前方の海に目を向けて立っていた。

 

灯里は、自分でも信じられないくらい、悠然とオールを漕いでいた。

 

それは、片手にグローブを着けた灯里にとって、はじめての経験だった。

 

サン・ジョルジョ・マッジョーレ駅にゴンドラをつけると、ふたりはそのまま、目の前にそびえ立つ鐘楼を登った。

 

陽が傾き始めた対岸の風景は、ふたりの心を震わせるほど素晴らしくて、しばらくそこから離れられそうになかった。

 

サン・マルコ広場の大鐘楼やマルコ・ポーロ国際宇宙港、その周りの街並みすべてが鮮やかにオレンジ色に染まっていた。

 

灯里は、まだそこにいようとする女の子を促して、ゴンドラで再びネオ・アドリア海に漕ぎ出した。

 

行きと違って、帰りは、その輝く海と、そこに浮かび上がる風景に思わず目を細めるほど、眩しさに満ちていた。

 

その時、灯里が何かに気付いた。

 

マルコ・ポーロ国際宇宙港近くの船着き場で、誰かが大きく手を振っている様子が見えた。

 

少しずつ近づくにつれ、その姿がはっきりとわかるようになってくる。

 

そこに立つ男性は、眩しそうに目を細めたながら、力いっぱい大きく手を振っていた。

 

自分の居場所はここだとわかるように。

 

そしてそれは、どう見ても灯里のすぐ目の前に座っている女の子に向けられていた。

 

その男性の笑顔は、これ以上ないくらい優しさに溢れていた。

 

 

 

 

 

その腕の力が、少しずつ緩んでいった。

 

それにつれて、苦しさで歪んだ顔の灯里の身体が、ゆっくりと床に崩れ落ちていった。

 

「灯里さん!」

 

アルピーナ婦人は、それを支えようと駆け寄っていった。

 

アージアは茫然と力なく立ち尽くしていた。

 

いつの間にかアージアの背後には、アロンソが立っていた。

 

サバイバルナイフを持ったアージアの手ごと、握りしめていた。

 

灯里の首を締め付けていた腕は、アロンソが肘のあたりを掴んでいた。

 

アルピーナ婦人は、灯里を抱き抱え、そばのソファーに座らせた。

 

「手を・・・振ってました・・・」

 

苦しそうな表情の灯里が、何か呟いていた。

 

「どうしたの灯里さん?」

 

「手を振ってたんです・・・確かに」

 

「手を振ってた?どういうこと?」

 

灯里は、眉間にシワを寄せながら、ギュッとつぶっていた目を、かろうじて半分だけなんとか開けた。

 

「とても・・・とても優しい笑顔でした」

 

困惑している婦人の横で、灯里は必死に何かを伝えようとしていた。

 

「ねえ、アージアさん?」

 

アロンソからナイフをもぎ取られたアージアは、その場に座りこんで、壁にもたれ掛かっていた。

 

目は虚ろなままだった。

 

そのアージアに、灯里は振り返って話しかけていた。

 

「見えていましたよね?あなたにも」

 

聞こえているのか、アージアは虚空を見つめていた。

だがその表情は、確かに何かを見ているような表情だった。

 

「私には、そのひとの顔までは、ハッキリとはわからなかった。でも、とても優しい笑顔で手を振っていた。それだけは私にもわかりました。そしてそれは、アージアさん?あなたに向けられていた」

 

アージアは少し顔を歪めたような表情になった。

 

「あなたには、その顔が誰か、見えていたんですよね?」

 

その言葉を聞いた途端、アージアの目から涙が溢れだしていた。

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