マスカレード・ヴェネツィアン・ホテル   作:neo venetiatti

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第五十五話 タイムリミット

 

灯里は久しぶりに戻ったARIAカンパニーの店内を見回していた。

 

まだ早朝の時間ではあったが、窓から入り込む外の明るさのおかげで、灯りを点ける前の店内が、いつもと変わらない様子だとほっとしていた。

 

そこでカウンターのシャッターを開けた。

陽の光と海からの風が一気に流れ込んできた。

 

灯里は身体いっぱいに空気を吸い込むと大きくゆっくりと息を吐き出し、思いっきりの笑顔で目の前に広がるネオ・アドリア海を見つめた。

 

「ただいま帰ってきました!」

 

すると、灯里の足元で、これまたいつもの声が聞こえてきた。

 

「ぷいにゅーい!」

 

「アリア社長?ご心配お掛けしましたが、無事帰ってきました!」

 

「ばいちゃばいちゃばーい!」

 

灯里は姿勢を少し低すると、アリア社長と顔を見合わせてニッコリほほえんだ。

 

そして早速店内の掃除にとりかかった。

 

そこで壁に掲げているスケジュールボードを見た。

 

そこにあったはずの予定は、すべて消えていた。

 

ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーへの応援を頼まれ、急な話にも藍華やアリスたちが快く協力を申し出てくれたことで、急いでARIAカンパニーを飛び出していた。

 

その少し消え残った文字の跡形が、その時の慌ただしさを物語っていた。

 

医者からのアドバイスもあって、すぐには仕事に復帰する予定ではなかった。

 

だが、何も書き込まれていないスケジュールボードを眺めて、灯里は本来のウンディーネの仕事からしばらく遠ざかっていたことを実感せずにはいられなかった。

 

「仕事したくて、ウズウズしてるんじゃないの?」

 

その声に振り返ると、カウンターの外にアールドが立っていた。

 

いつものニヤけた顔だったが、どこかしら懐かしく思える。

 

「久しぶりだね」

 

「アールドさん、おはようございます!どうされたんですか?こんな時間に」

 

「こんな時間だから、さすがに大丈夫だろうと思ってね?」

 

「でもまだ早朝ですけど?」

 

「ゴメン。迷惑だった?」

 

「いえ、それはいいんですけど・・・」

 

「よかった。実は、この時間の方が都合がよかったもんでね?」

 

「はぁ」

 

アールドの意図がわからない様子の灯里は、ため息まじりの相づちを打っていた。

 

「灯里さんが是非リクエストに応えたいと言ったということだからなんだけど・・・」

 

「リクエスト?なんなんですか?」

 

「あれ、違うの?そう聞いたんだけど?」

 

アールドは不思議そうに顎にこすっていた。

 

「カフェ・フローリアンの件ていえば、わかってもらえるのかなぁ?」

 

「わたし、いったいなんの約束を・・・あのぉ、もしかしてなんですけど?」

 

「多分、そのもしかしてだと思う」

 

「そうなんですかぁー?」

 

「思い出した?」

 

灯里はパッと晴れやかな顔になっていた。

 

「アレキサンドロ様の奥様の件ですよね?もう無理なんだと思ってました!」

 

「確かにそう思うよね。それが普通だしね」

 

「でもどうして急に?」

 

「実のところ、今日がタイムリミットなんだ」

 

「タイムリミット?」

 

 

 

アレキサンドロの行動を疑っていた妻が直接ホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーまでやって来たが、宿泊客の情報は教えられないと言われ、仕方なく帰ろうとしたとき、灯里が追いかけて事情を聞いた。

 

アレキサンドロがカフェ・フローリアンの話をホテルの女性従業員と話したことが疑いのきっかけだったが、実はその女性従業員とは灯里のことだった。

 

灯里は、車椅子生活を送っていた妻に、夫婦でカフェ・フローリアンに行くお手伝いをさせてほしいと申し出ていた。

 

アールドが言ったリクエストの意味は、そのことだった。

 

「外で待ってもらってるんだ」

 

アールドの言葉に、灯里は玄関のドアを開けた。

 

店に渡る桟橋の向こうに、杖をついたアレキサンドロ、その横には車椅子に乗った妻がいた。

 

そしてもうひとり、優しい笑顔の婦人が立っていた。

 

「アルピーナ婦人!」

 

「お久しぶりね。心配していたんだけど、元気そうでよかったわ」

 

3人を店内に招き入れた灯里は、少し離れたところにも、誰か隠れるように立っている人の姿を見つけた。

 

「あいつは、罰として手伝わせるために来させたんだ」

 

アールドの言葉を聞いて、物陰に隠れていた男が姿を現した。

 

「もしかして、アヴェリーノさん?」

 

「やあ、灯里さん!いや、ARIAカンパニーのアクアマリン!」

 

「はひっ!」

 

アヴェリーノは、灯里に会えた嬉しさのあまり、思わず駆け寄ろうとした。

 

「ステイ!しっ!しっ!」

 

アールドが追っ払うように、忙しく手をパタパタさせていた。

 

「こいつはね、こともあろうに私利私欲に走った大迷惑男なんだよ!自分のおじさんがやらかしたことも省みず、ましてや灯里さんに早くウンディーネの仕事に復帰して欲しいとか、違う目的でホテルに来やがったヤツなんです!」

 

「私が復帰って、どういうことなんでしょうかぁ?」

 

「違います!ボクは正真正銘の灯里さん推しなんです!」

 

「うるさい!お前に発言権はない!ステイ!」

 

アールドの厳しい叱責にアヴェリーノはシュンとなってしまった。

 

「灯里さんんもコイツには甘い顔を見せちゃダメですからね!」

 

「はぁ。よくわからないですが・・・」

 

「じゃあ、ボク、アヴェリーノがこれまでの経緯をかいつまんで・・・」

 

「ステイ!」

 

 

 

アヴェリーノの役割は、アレキサンドロ夫妻をゴンドラに乗せる手伝いをすることだった。

 

結果として、彼はホテルにおいて捜査の妨害をしたとなり、事件には関わっていなかったが、おとがめ無しとはいかなかった。

 

このあと、警察でたっぷりとしぼられることは避けられそうになかったが、今のアヴェリーノはまだそれには気づいてなかった。

 

だがそれ以上に厳しい結果となりそうな人たちが、灯里の目の前に集まっている。

 

「詳しいことは後で説明するから」

 

アールドは、お茶の用意をしようとキッチンに向かった灯里に、そっと耳打ちした。

 

そして、いよいよゴンドラでサン・マルコ広場へ向けて出発するとなり、外で待たされていたアヴェリーノがデッキを回ってやって来た。

 

アールドとアヴェリーノも手伝って、アレキサンドロ夫妻をゴンドラに乗せ、婦人の車椅子も折り畳んで乗せた。

 

その時、灯里はアルピーナ婦人の姿がそこにいないことに気がついた。

 

灯里がすぐに店内にもどると、婦人は、まだテーブルのところに座っていた。

 

「婦人は行かれないのですか?」

 

「私はここまで」

 

「どうして・・・」

 

理解できないでいる灯里のところに、アールドがやって来た。

 

「さっきも言った通り、タイムリミットなんだ」

 

「どういうことなんですか?」

 

「本当は、ここへ来ることもできないはずだったんだ。でも灯里さんが、アリーチェ・エレノアに人肌脱いでくれないかって頼んだでしょ?」

 

「私が頼んだことって、そんなことに?」

 

「あのご当主、事情聴取も兼ねて署までご足労願ったわけなんだけど、大変だったみたい」

 

「そんなにですか・・・」

 

「今回は、あのアイアート・ライデンを一応しょっ引くことができたわけで、ネオ・ヴェネト州警察としては株を上げたってわけ。そこに貢献したエレノアのご当主をじゃけんに扱うわけにもいかなく、協力しましょうとなったということなんだよね」

 

「はぁ」

 

「灯里さんがピンと来なくても無理もない。今度の件で、アクアにおけるエレノア財閥の存在感は確実に増したわけだし、しかも、悪との決別!なんて言っちゃてるしね」

 

「はぁ」

 

「それでもここが限界。これ以上の協力はいくらなんでも無理だね。なんせホテルの脅迫事件の首謀者だからね」

 

「はい・・・」

 

灯里たちは、アルピーナ婦人をひとり店内に残し、ARIAカンパニーを出発した。

 

灯里は、別れ際に言ったアルピーナ婦人の言葉がまだ耳に残っていた。

 

「ごめんなさい。あなたを巻き込むつもりはなかった。あなたのような、ネオ・ヴェネツィアを守ろうとした人を」

 

その後悔の気持ちが灯里には痛いほど伝わってきた。

 

それだけに、なぜこんなことになったのか。

 

ゴンドラは、サン・マルコ広場近くの船着き場に到着した。

 

そこには、ぜえぜえと苦しそうに息をしているアヴェリーノが、前屈みになって両手を膝の上に置いて、なんとか立っていた。

 

「はひっ!」

 

「あいつには走ってこいって言っといたから」

 

アールドはあっさりと答えた。

 

カフェ・フローリアンの開店時刻ちょうどに到着した灯里たちは、アレキサンドロ夫妻をオープンテラスのところまで案内した。

 

その時には気づかなかったが、ひとしきり時間が経過したところで、スーツ姿の男たちが周りを取り囲むようにして座っていた。

 

「灯里さん、時間だ」

 

アールドが腕時計に目をやってそう呟いた。

 

「えっ・・・あ、はい。わかりました」

 

その頃には、灯里にも事態を理解することができていた。

 

ただ、お客様を送り届けに来たわけではないことを。

 

アールドはばつが悪そうに後頭部をかいていた。

 

そして、一緒にテーブルを離れるように、灯里に合図を送った。

 

アレキサンドロ夫妻は、テーブルを立った灯里に感謝の言葉を送った。

 

その時の夫妻の優しそうな笑顔を、灯里は忘れることができそうになかった。

 

「奥さんはエレノア財閥の関連施設で面倒をみるとアリーチェ当主から申し出があったらしい」

 

そのアールドの言葉を聞いて、灯里は少し安堵していた。

 

「でも断ったらしい」

 

「えっ?」

 

「ひとりで頑張って、旦那の帰りを待つんだとさ」

 

「そうなんですか・・・」

 

テーブルから少し遠ざかったところで、灯里は振り返った。

 

テーブルには、アレキサンドロの妻だけが、ひとり座っていた。

 

アレキサンドロは、数人の男たちと一緒に遠ざかる後ろ姿だけが見えていた。

 

灯里はその瞬間、駆け出していた。

 

さっきまで座っていたテーブルに向かって。

 

アールドはその光景を見て、またもや頭をかきながら苦笑していた。

 

 

 

灯里は、アレキサンドロの妻を、彼女に言われた通りの場所まで送り届けた。

 

妻は、ひとり車椅子でその場を去っていった。

 

それを一緒に見送ったアールドとも、その場で別れることとなった。

 

「これで灯里さんともお別れだね」

 

「でもまたどこかでお会いすることもあるかもです」

 

「刑事なんかに会いたい?」

 

アールドはいつものニヤケ顔で笑ってみせた。

 

「じゃあ、これでホントにお別れだ」

 

「えっ、アールドさん?」

 

いつもの調子と違うアールドの声に、灯里は驚いていた。

 

「まさかさあ、ネオ・ヴェネツィアでの最後の仕事が、エレノア財閥のお使いだなんて思わなかったよ」

 

アールドは冗談まじりにそう言った。

 

 

 

 

灯里は、ネオ・ヴェネツィアの運河をゆっくりと回った。

 

仕事から離れて改めて見る風景は、少し空しさを感じていた灯里の心を癒してくれるようだった。

 

灯里の姿を見つけた人たちから、あちこちで声をかけられていた。

 

灯里は、ようやく本来の日常に戻ってきた気分を味わっていた。

 

そして、それは何にも変えがたい安心感にもつながっていた。

 

陽が傾き始めた頃、灯里はやっとARIAカンパニーへ舵を切る気持ちになっていた。

 

ゴンドラで向かう先に見えるARIAカンパニーの姿を見たとき、ホントに帰ってきたんだと、そんな実感を感じていた。

 

だが、近づいてくるARIAカンパニーのデッキには、誰かが立っている姿が見えてきた。

 

ベージュのコート、ブルーのジーンズ姿。

 

いつもの大きなサングラスをかけ、長い髪は片側の肩にまとめていた。

 

その姿は、一見スタイルのいい、どこかのモデルのようにも見えたが、灯里にはすぐにそれが誰なのかわかった。

 

灯里は、ゴンドラをそのデッキの下に寄せると、呆然とその姿に見とれていた。

 

「もうお仕事再開したの?」

 

その女性は、とても親しげに灯里に話しかけた。

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