マスカレード・ヴェネツィアン・ホテル   作:neo venetiatti

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第五十六話 カフェラテのひととき

 

ゴンドラを係留し、急いでデッキに上がってきた灯里を待っていたのは、今や世間の注目の的の、あの美人女優アレッサンドラ・テスタロッサだった。

 

「お帰りなさい」

 

「ただいま・・・」

 

灯里は、かけられた言葉に思わず返事をしていたが、どう考えても違和感だらけの光景だった。

 

「もうお身体はいいの?」

 

「は、はい!大丈夫です」

 

サングラスを外したその美しい眼差しが、夕陽を背景に信じられないほどの輝きを放っていた。

 

灯里はその姿に思わず見とれてしまった。

 

「アレッサンドラさん?どうしてこんなところに?」

 

「そうね。今の私は、あまり出歩かない方がいいかもね」

 

アレッサンドラは穏やかにほほえんだ。

 

「あなたのゴンドラに乗せて欲しかったから」

 

「ゴンドラにですか?」

 

灯里は驚きを隠せないでいた。

 

「以前にも話したわ。是非灯里さんのゴンドラに乗せてほしいって」

 

「はい、そうでしたけど・・・」

 

「最後だしね」

 

「女優さんをお辞めになるとか?」

 

「それもあるけども・・・」

 

アレッサンドラは、ぼんやりと海の方に目を向けた。

 

 

 

アレッサンドラをひとり乗せたゴンドラを、灯里はゆっくりとネオ・アドリア海へと進めた。

 

夕陽にきらめく小さな波の連なりがゴンドラに当たり、その音だけが聞こえてくる。

 

そしてそれは、灯里の動かすオールのきしむ音と重なってゆく。

 

「静かね」

 

アレッサンドラがポツリとつぶやいた。

 

「はい、そうですね」

 

「こんなふうにネオ・ヴェネツィアで、ゆったりとゴンドラに乗って過ごすことが憧れだったの」

 

アレッサンドラはとても穏やかにそう言った。

 

「でもアレッサンドラさんは、確かペアのウンディーネとして姫屋にいた経験があるとお聞きしてましたけど・・・」

 

「そうね。ちょっと、いろいろと事情があったんだけどね」

 

「はぁ」

 

灯里はアレッサンドラの反応を不思議に思ったが、アレッサンドラがそれ以上話そうとしなかったので、灯里も聞き返そうとしなかった。

 

「私ね、本当にウンディーネになりたいと思ったことがあったの」

 

「そうだったんですね。でも女優さんになられた」

 

「そっちの方がなりやすかったから。向いてたんでしょうね」

 

「はひぃ~」

 

アレッサンドラは灯里の反応に思わず笑っていた。

 

「スミマセン・・・」

 

「だから、ゴンドラに乗るウンディーネに憧れていたの」

 

「アリスちゃんに憧れていたっていう話は本当だったんですね」

 

「そうね。それは本当だった」

 

そう言ったきり、アレッサンドラは話さなくなった。

 

ぞしてしばらくして、ようやく話を切り出した。

 

「灯里さんに謝らないといけないことがあるの」

 

「あ、あの、それなんですが、そんなことをゴンドラ協会でもおっしゃられたって、アリシアさんが言ってました」

 

「そうね。アリシアさんにも言わなければいけなかった。でも、本当はすべてのウンディーネにそうするべきだった」

 

「アレッサンドラさんがそこまでおっしゃられることって、どういったことなんですか?」

 

「それは・・・」

 

アレッサンドラはすぐには次の言葉を出そうとしなかった。

 

灯里は、そんなアレッサンドラの背中を見つめて待った。

 

「このネオ・ヴェネツィアを守り切れなかったこと」

 

それはアレッサンドラの後悔の想いがつまった言葉だった。

 

「昔、私を助けてくれたこのネオ・ヴェネツィアを守り抜くことが、私にとっての恩返しだと心に決めていたの。それなのに心ない奴らに汚されてしまった。これは私の役目だったはずなのに」

 

灯里は、落ち着いた口調ではあったが、その力強い言葉に聞き返すことが出来ずにいた。

 

そんな灯里に気づいたのか、アレッサンドラは振り返って微笑んで見せた。

 

「ごめんなさい。こんな話をして」

 

「あ、いえ、その・・・」

 

「何?」

 

「聞いてもいいでしょうか?」

 

「どうぞ」

 

「それをなんで私に話されるんですか?」

 

「それは灯里さんの想いに触れたから」

 

「私の想い、ですか?」

 

「灯里さんが、あのホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーに現れたとき、ほんとに驚いたのを今でもハッキリと覚えている。なんで、観光案内が仕事のウンディーネさんがここまでするんだろうと」

 

「それは成り行きといいますでしょうかぁ・・・」

 

「謙遜されなくてもいいの。あなたのネオ・ヴェネツィアに対する想いを知ったその時、私の心は決まったの」

 

灯里は改めてアレッサンドラの背中をじっと見つめた。

 

しっかりとした、背筋をピンと伸ばした姿。

 

でもよく見ると、意外なほど華奢に感じられた。

 

「そこまでおっしゃられるアレッサンドラさんて、一体どういった方なんでしょうか?」

 

アレッサンドラは驚いて振り返った。

 

「灯里さん?ホント?」

 

「えっと、何がなんでしょうか・・・」

 

アレッサンドラは前に向き直ると、背中を丸めて笑い声を押し殺していた。

 

「私、なんか変なこと、言いましたでしょうかぁ~~?」

 

「違うの!,灯里さんは、やっぱり灯里さんだなぁと思って」

 

「なんか、複雑です」

 

アレッサンドラは少し気持ちが落ち着いてくると、こう言った。

 

「ありがとう、灯里さん。あなたに会えて本当によかった。これで思い残すこともないわ」

 

「それって、本当に女優さんのお仕事は、もうされないということですか?」

 

「そう、ね」

 

アレッサンドラは楽しそうにほほえんだ。

 

「でも、アレッサンドラさん?」

 

「何?灯里さん?」

 

「来たくなったら、いつでも来てください。待ってますから」

 

その灯里の言葉を聞いたアレッサンドラは、少しの間黙り込んでいた。

 

そして、こう答えた。

 

「ありがとう。その時は是非お願いするわ。今から予約を入れておくから」

 

「はい!」

 

灯里は嬉しさいっぱいの笑顔で応えた。

 

「でもそんなに忙しいのって、アレッサンドラさんには別のお仕事ってあるんですよね?教えていただくことって、やっぱりダメですか?」

 

アレッサンドラは、心の底から嬉しそうに笑っていた。

 

「あ、あの~」

 

「ダメ!教えなーい!」

 

「ええーー!」

 

 

 

 

 

灯里は、いよいよ本格的に仕事に復帰する準備を始めていた。

 

そこで藍華とアリスたちと、時間ができた時に改めて会おうと約束していた。

 

そこはやっぱり、あそこしかなかった。

 

心地いい風が吹き抜けていくオープンテラスは、カフェ・フローリアン名物のカフェラテを楽しもうと沢山の観光客で賑わっていた。

 

「それにしても、とりあえずよかったわね」

 

藍華は腕を組んでひとり納得したようにうなずいていた。

 

「藍華先輩のいう通り、大事にならなくて、でっかいよかったです」

 

アリスも目を閉じて、うんうんとうなずいていた。

 

「心配かけてゴメンね」

 

灯里は二人を前に困ったように苦笑していた。

 

「あれでしょ?もうホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーには行かなくていいんでしょ?」

 

「うん、もう行かなくてもいいよ。だって、一応事件は解決したしね」

 

「灯里先輩?それって解決って言っていいんですか?」

 

「後輩ちゃん?どういうこと?」

 

「だって、話を聞いていると、なんでああなって、こうなって、そうなってってのかが、今もって不明です」

 

「確かにそうよねぇ」

 

「はぁ」

 

「はぁ~じゃなくて、どうなってるのよ?灯里?」

 

「元々私は、黒づくめさんを捜すことに協力することが目的だったから。誰だったかもわかったしね」

 

「黒づくめに“さん“をつけるのは、あんたくらいでしょうね」

 

「それで、事件の黒幕は誰だったんですか?」

 

「後輩ちゃん、あんた何?もしかして、小説でも書くつもりなの?」

 

「違います!結局のよころ、この大騒ぎはなんだったんだろうと思っただけです!」

 

「黒幕って言われても。アガタさんが言うには、全員が犯人だって言ってたけど」

 

「あのホテルの人でしょ?そんな小説みたいな話を真に受けてるの?」

 

「なんか、話が複雑でよくわかってないっていうか・・・」

 

「ああ、めんごめんご!あんたに聞こうとした私が悪うござんした!」

 

「藍華ちゃ~ん」

 

「でも灯里先輩は、絶体絶命のピンチだったわけですよね?その辺はどうだったんですか?」

 

「うん、それはそれで、警察の人も困ってた」

 

「警察の人が困ってた?灯里?あんた何やらかしたの?」

 

「違うよ!何にもしてないから!ただ、私の見た光景が、きっと何かに繋がったとしか思えないんだけど・・・」

 

「ああ、はいはい!後輩ちゃんも変なこと聞かない!」

 

「変なことですか?どこがですか?」

 

「あのね?」

 

と言って、藍華は灯里のおでこに手を当てた。

 

「この人は、まだ本調子じゃないってことなの!」

 

「ああ、なるほど」

 

「アリスちゃんまで~」

 

「そんなこと言ってもさぁ、灯里?いよいよ戻ってくるんでしょ?ARIAカンパニーのプリマ・ウンディーネとして」

 

「うん、そのつもり」

 

「灯里先輩も、本格的に再始動というわけですね」

 

「お待たせ♡」

 

「何それ?うぇ~~」

 

「藍華ちゃん!」

 

藍華はオーバーにのけぞってみせた。

 

その瞬間、イスごと倒れそうになった。

 

「藍華ちゃん!大丈夫?」

 

藍華は座り直すと、思わず灯里の言葉に反応した。

 

「ダイジョウブ」

 

「鼻つまんでる」

 

「解説はいいの!」

 

アリスは、ふたりのやり取りを聞き流すように、目を閉じてカップのカフェラテを一口飲んだ。

 

「相変わらずの漫才は、その辺にしておいて下さい」

 

「なっ!」

 

「そんなことより」

 

「灯里?そんな呼ばわりよ?わたしたちの会話」

 

「どうしたの、アリスちゃん?」

 

「ちょっと!ワタシのことは?」

 

「先輩方?そろそろ明日からの仕事のことを真剣に考えて下さい!」

 

「だから何?」

 

「チャリティーイベントを再開するって決まったらしいです」

 

「チャリティーイベント?」

 

「灯里?あんた、もう忘れたの?」

 

「灯里先輩?あれです。年に一度、ネオ・ヴェネツィアがいろんなところから子供たちを招待する、あのイベントです」

 

灯里は、アリスの説明を聞いて、驚いた顔になっていた。

 

「長らく行われてなかったのを、今回復活させることとなったわけです」

 

「後輩ちゃん?なんか詳しい感じみたいだけど、なんで?」

 

「それは当然です。だって、アテナ先輩がその復活をお祝いして、歌を披露することになってるからです!」

 

「そうなの?」

 

「そうなんです!あのサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の大聖堂で歌うんですよ!楽しみで仕方がないんです!」

 

「ちょ、ちょっと待って!あんた、いくつなの?」

 

「なんですか?」

 

「なんですかってねぇ、チャリティーなんでしょ?子供たちのための」

 

「そうですよ。決まってるじゃないですか?」

 

「決まってるのね」

 

「これは当然といえることなんです」

 

「なんでそんなに自慢気なわけ?」

 

「だってあのときも、アテナ先輩が歌ったじゃないですか?」

 

「アリスちゃん!いつのこと?」

 

灯里がいきなり二人の会話に入ってきた。

 

「いきなりどうしたの、灯里?」

 

「先輩、どうしたんですか?」

 

「アテナさんが歌ったって、そのチャリティーでってこと?」

 

「そうですよ。ちょうど地元のネオ・ヴェネト州の子供たちを招待することになった前回のとき、まだ現役のプリマだったアテナ先輩が急遽でしたが、リクエストに答えて歌ったって聞きましたけど・・・」

 

「確か、そんなこと、言ってたわね」

 

「アリスちゃん、藍華ちゃん・・・」

 

「どうしたの、灯里?」

 

「どうしてなんだろう、わたし、覚えてない・・・」

 

灯里は愕然としていた。

 

「だいぶんと前の話だしね。覚えてないとしても仕方がないんじゃない?」

 

藍華は心配そうに灯里の顔を覗き込んだ。

 

「なんで?そんな滅多にないイベントのこと、なんで私だけ覚えてないの?」

 

「灯里?そんなに深刻にならなくても」

 

「そうですよ、灯里先輩?先輩も今度のコンサートを見れば何か思い出すかも知れませんよ。今回もサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の大聖堂で行いますので」

 

「そうなの?」

 

「はい。今日もリハーサルで行ってるはずです。アテナ先輩」

 

灯里は、イスをガタンと音をさせて立ち上がった。

 

「何?どうしたの?灯里?大丈夫なの?」

 

「私、行ってくる」

 

「行くって、どこぉ?」

 

「サン・ジョルジョ・マッジョーレ島」

 

「なんであんたが行くの?歌うの?」

 

「聞いてくる」

 

藍華とアリスは、真剣な灯里の表情とは対照的に、ポカンと口を開けていた。

 

「後輩ちゃん?あんた、体温計持ってる?」

 

「いいえ。そんなもの、いくらプリマになったからって言ったって、いちいち持ち歩いてません!」

 

「そうよね」

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