マスカレード・ヴェネツィアン・ホテル 作:neo venetiatti
灯里は、目の前に近づいてくるサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会を見上げながら、ゴンドラを進めていた。
船着き場にゴンドラを係留すると、その場で少し考えるような顔で、改めて教会を見上げていた。
アテナがチャリティーコンサートを行う大聖堂の周辺には、そのための機材が多数置かれていた。
様子を伺うように大聖堂の入り口までやってくると、少し開いているドアの隙間から、中で行われているリハーサルの音が聞こえてきた。
恐る恐る中に顔を突っ込んだ灯里は、あちこちに目を走らせた。
「アテナさんは、どこにいるんでしょうかぁ・・・」
すると、その様子に気づいたスタッフのひとりが声をかけてきた。
「すみません。リハーサル中なんで、関係者以外の方はお断りしてます」
「あ、いえ、その・・・そうですよね」
灯里は中に突っ込んだ頭をゆっくりと戻そうとした。
「あれ?灯里ちゃん?」
スタッフと打ち合わせをしていたアテナが、その様子に気がついて声をかけてきた。
「アテナさん?お忙しいところ、スミマセンデス・・・」
「もういいの?」
「はい、お陰さまで」
ふたりは大聖堂のそばの、海の見えるところに腰かけていた。
ふたりのいる、ちょうど影になっているところから、陽射しにきらめく海が目の前に広がっている。
そして、その向こうにはサン・マルコ広場の大鐘楼が見えていた。
そのふたりのそばを心地いい風が吹き抜けて行く。
「でも、よかったわ。アリシアちゃんから聞いたときは、本当に心配したわ」
「ご心配をおかけして、申し訳ありません」
灯里は恐縮しきりだった。
「それでどうしたの?わざわざこんなところまで来るなんて」
「あの、実は、アテナさんにどうしてもお聞きして確かめたいことがありまして・・・」
「なに?」
アテナは、海に視線を移した灯里の横顔から、何か心配事を抱えていることがわかった。
「今回のようなチャリティーコンサートに以前にも出られたって、アリスちゃんから聞いたんですけど」
「そうね。だいぶんと前になるけど、出演したわ。出演したって言っても、ただのウンディーネとしてよ?」
「はぁ」
「あの時は急な話で、わたしもどうしようか迷ったんだけど、地元のネオ・ヴェネト州の子供たちを招待するということで、特別に協力してもらえないかということだった。それで、私が歌うことで何かのお役に立てるのだったらとお引き受けしたの」
「つまりその時はまだ、プリマとして観光案内をしながらということですか?」
「そうよ。忙しい最中だったけど、子供たちの喜ぶ顔を見ていると、疲れなんて吹っ飛んじゃったのを覚えてる」
「そうだったんですね」
そういう灯里の表情は、もうひとつ冴えないものだった。
「どうしたの?その時のことで、何かあるの?」
「その時のことで、他に何か覚えていることってないですか?」
「他に?」
アテナは考え込むように、うーんとうなってみた。
そして、はぁーと息を吐き出した。
「他ねぇ。他って、例えばどういうこと?」
「例えば・・・そうですねぇ・・・何て言えば・・・」
アテナは、灯里の困ったように顔を横目で見つめた。
「灯里ちゃんは、どうしてその時のことが気になってるの?」
灯里は少し黙り込むと、意を決したようにアテナの方に向いた。
「わたし、その時のことをはっきりと覚えてないんです」
「覚えてない?どういうこと?」
「わかりません」
灯里の表情から、事態は深刻なんだとアテナは感じた。
「灯里ちゃんにとっては、いつ頃のことか思い出せる?」
「多分シングルに成り立てのころだったと思います」
「そうか。アリシアちゃんとお客様をお乗せすることも、まだそうは経験してない頃よね」
「藍華ちゃんやアリスちゃんにはそれぞれの記憶があるのに、なぜかわたしだけ・・・」
「でも、なぜこのチャリティーコンサートなの?ここに何か大事なことがあるの?思い出さないといけないこと?」
灯里は、これまでアージアと一緒に見た記憶の断片のようなものが、本当のものなのか、違うものなのか、それらがはっきりしないことで、他の者に言うことをためらっていた。
しかも自分だけ記憶が曖昧なままで・・・
「灯里ちゃん、ごめんなさい。協力できなくて」
「アテナさん!謝らないで下さい!私がしっかりしてないことが悪いんです」
「だけど・・・」
アテナと灯里は、灯里のゴンドラを係留している船着き場まで、一緒に歩いてきた。
「気をつけてね」
アテナは、申し訳なさそうにしていた。
「アテナさん、わたしの方こそ申し訳ありません。お忙しいのに」
「大丈夫?行ける?」
アテナは海の向こうに見える大鐘楼に目を向けた。
「だ、大丈夫です。さすがに・・・」
灯里は思わず苦笑いになっていた。
「この風景を見て、何か思い出せればいいのにね」
「そうですね」
「あっ、そういえば、ええと・・・」
アテナはそう言って、ぼんやりと前方に視線を向けていた。
「どされたんですか?」
「あの時、確か、誰かが勝手に入って来て・・・」
「えっ、なんですか?」
「私は見てないんだけど、関係者の人が言ってたの。誰かが勝手に教会の鐘楼に上がってたって・・・」
「それ、本当ですか?」
「そうそう!思い出した!子供が勝手に入ってきて上まで登ってたって!」
「子供が・・・他には?他には誰かいなかったですか?」
「他ねぇ。でもあの時は、たくさん子供たちがいたから、誰もあまり気にはしてなかったと思うの」
「そうですか」
灯里の表情は明らかに落胆していた。
「でも」
「はい?」
「でもね?確か晃ちゃんが何か言ってたと思う」
「晃さんが?なんて言ってたんですか?」
「なんか、すごく怒ってた!」
「怒ってたんですか?」
「なんかね?プリプリ怒ってたわね」
「プリプリですかぁ・・・」
灯里は、困惑と苦笑が入り交じった複雑な顔になっていた。
「よろしく言っといてね?」
「はい?」
「行くんでしょ?晃ちゃんのところ」
「あ、はい。そのつもりですけど・・・」
「何かわからないけど、その大事なこと、見つかればいいわね?」
アテナは、そのいつもの優しい眼差しで灯里に微笑みかけた。
灯里は、観光客で賑わっているサン・マルコ広場周辺の船着き場を避け、少し離れたところにゴンドラを停めた。
そこから、晃が姫屋の後輩たちの実地訓練によく利用する船着き場へと向かった。
少しずつ観光客の数も増え始めて、賑やかさが感じられるようになってくると、緊張感であたふたしていた新人の頃の自分を、ふと思い出す。
だが、その周辺には姫屋のユニフォーム姿のウンディーネたちを目にすることはあっても、晃の姿はなかった。
「今日の研修は、もう終わったんだ」
灯里は、ぼんやりとその光景を眺めながら呟いていた。
その時、誰かが後ろから灯里の肩をツンツンと指先で突っついてきた。
「はい、誰で・・・」
「なんだ!そんなに私の実地訓練を受けたいのなら、そう言ってくれればいいのに!」
そこには晃が満面の笑顔で立っていた。
「はひっ」
「そうか!そうかぁ!」
「あっ、いえ、そういうわけじゃ・・・」
「遠慮するな!灯里と私との仲じゃないかぁ!」
「どんな仲でした?」
「まあまあ」
晃は困った顔の灯里の背中をポンポンたたいていた。
「あ・・・の・・・で・・・す・・・ね?」
「ん?どうした?」
灯里と晃は、観光客を避けるように、少し路地に入ったところにあった腰掛けに座った。
そのそばにあるタンブラーの中で、かわいい花たちがそよ風に揺れていた。
脚を組んで座った晃は、目を細めてその様子を見ていた。
だが、その横に座った灯里は、少し居心地悪そうにしていた。
「あのぉ」
「なんだ?なんでも言ってみろ?遠慮なんかしなくていい」
「はい」
「そのためにわざわざ来たんだろ?」
「ええ」
灯里は、穏やかに目を伏せて座っている晃の横顔を見つめた。
「なんか顔に書いてあるか?」
「い、いえ」
「それとも灯里?お前の知りたいことでも、書いてあるか?」
「晃さん」
「人目見てわかった。どうしても知りたいことがあるんだろ?いいから言ってみろ」
「はい」
灯里は前に向き直って、話始めた。
「晃さんは、以前このネオ・ヴェネツィアあったチャリティーイベントのこと、覚えてらっしゃいますか?」
「ああ、そのことか。もちろん覚えてる。近々またやるって話だな」
「その時のことをなんでもいいんです。教えていただけませんか?」
「そのときのこと?なんでそんなこと、聞きたいんだ?」
「わたし、はっきりと覚えてないんです」
「覚えてないって、どういうことなんだ?全然記憶にないってことなのか?」
晃は驚いた顔で灯里の方に振り向いた。
「いえ、全然てわけではないんですが・・・」
「覚えてないって。そりゃまた、どういうことなんだ・・・」
灯里はうつむいてしまった。
晃はその灯里の顔をじっと見つめた。
「その時のことで、なんか大切なことがあるんだな?」
「はい・・・」
「その調子だと、あまり詳しくは話したくないというわけか・・・」
「すみません。話せる時がきたら、ちゃんとお話します」
「そうか。わかった」
晃は大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
「私が灯里に教えてあげられることといったらだなぁ・・・」
「あのぉ、アテナさんがおっしゃってたのですが」
「なんだ?アテナとは話したのか?」
「はい。実は先ほどサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会でお会いしました」
「そうだったのか。確かチャリティーコンサートをやるんだったな、アテナのやつ」
「はい。そこでアテナさんから、前回のコンサートのとき、晃さんが何かプリプリ怒ってたってお聞きしまして・・・」
「私が?プリプリ?なんだ、それ?」
「そんなふうなことをおっしゃってました・・・ですぅ」
「アテナのやつ、またいい加減なことを言いやがって!」
「ああ~それは~何か怒るようなことがあったということじゃあ~ないでしょうか~~?」
「怒る?」
「はい」
「あっ!」
「な、なんですか?」
「あった!」
「あったんですか?」
「あった!確かに!」
「それはいったいなんなんでしょうか?」
「灯里!」
「は、はい!」
「お前だぁ!」
「ええ~~!なんなんですかぁ~~?」
晃は、手を腰掛けの後ろについて、路地のアパートの隙間から空を見上げた。
はるか高く、白い雲が流れている。
「遠くからだから、はっきりとわかったわけじゃない。だが、確かに人を乗せたゴンドラがネオ・アドリア海を進んでいた。それも淀みなく、まっすぐに」
灯里は真剣に晃の話を聞いていた。
「だがな、すぐにわかったんだ。そいつは、そのウンディーネは、間違いなくペアだった」
「ペアだったんですか?」
灯里は大きく目を見開いていた。
「ああ。それだけはわかった。毎日多くのウンディーネを目にしているからな。それだけは確かだ」
「ペアですか・・・えっ、ちょっと待ってください!なぜそれが私なんですか?」
「ARIAカンパニーでアリシア以外といったら、お前しかいないだろ?」
「それはそうなんですが・・・」
「追いかけた!」
「あわわわ~」
「でも距離がありすぎた。途中で見失ってしまった。私としたことが・・・」
晃はまるで昨日のことのように悔しがっていた。
「よかったです」
「なんだ?よかったって!」
「ああ~~違うんですぅ~~」
灯里は思わずその光景を想像してしまっていた。
「そ、それで、結局、その後はどうなったんでしょうか?」
「当然抗議に行った!」
「あの~もしかして~」
「もちろんARIAカンパニーだ!」
「はひっ」
「そんなこと、他で言えるわけないだろ?いったいなんでそんなことになってるのか、直接聞くしかあるまい」
「それはその通りですぅ~」
「でもな、灯里?」
「はい?」
晃は急に真剣な顔になって言った。
「今でも忘れられない。あの時の、あいつの顔」
「アリシアさんの顔?」
晃は遠くを見るような目を、目の前のアパートの壁に向けていた。
「あいつ、言い切ったんだ。そんなことをするウンディーネは、うちには、ARIAカンパニーにはいないって」
「アリシアさんが?」
「そうだ。今思えば、お前を必死にかばったんだと思う。でも、それ以上にお前のことを本当に信じていたんだと思う」
晃は少ししんみりした顔になっていた。
「晃さん?それでどうされたんですか?」
「それからか?」
「はい」
「何もない」
「えっ、何も?」
「ああ、そうだ。何もない。だって、あいつに、アリシアにあそこまで言われちゃあ、どうすることもできないだろう?」
晃はそう言うと、少し表情を緩めて笑みをもらした。
「それに・・・」
「はぁ」
「あそこまで、人を信じきれるだろうかと、ちょっと羨ましかったんだ」
「羨ましい・・・晃さんが・・・」
「アリシアと、そして灯里?お前たちのことをなっ!」
「晃さん」
灯里は、清々しい表情で空を見上げる晃の横顔に思わず見とれてしまった。
「でも勘違いするな?」
「へっ?」
「ペアが人を乗せられないのは、今も昔も変わらないことだ!」
「はぁ~それはごもっともですぅ~~」
だがその灯里の反応を見た晃は、いきなり笑いだした。
「ハハハハハ!」
「晃さん?」
「お前、なんでそんなに恐縮しているんだ?」
「だって、晃さんが黙っていて頂いたおかげで、今日の私が、ここでこうして・・・」
「でも覚えてないって言ってなかったか?」
「それはそうなんですが・・・」
晃は脚を組み直すと、そこに肘をつき、頬杖をついて灯里の顔をじっくりと眺めた。
「あのな、灯里?」
「はい~」
「そんなふうに、あの時はこうだったとか、この時はどうだったとか、そういったことを相談するのに一番の適任者がいるだろ?」
「適任者?」
「そうだ!お前のすぐそばに!」
「私の、すぐ、そば・・・」
晃は灯里の背中を、また勢いよくたたいた。
「あぎだざ~~ん」
「さあ、行ってこい!行って、ちゃんと思い出して来い!プリマ・ウンディーネに戻るんだろ?ARIAカンパニーのプリマに!」
「はい!」
灯里は、晃の太陽のような笑顔に、背中を叩かれ・・・いや、押されて、その場を走り出していた。