マスカレード・ヴェネツィアン・ホテル 作:neo venetiatti
ゴンドラ協会の玄関のガラス扉を開けて、スーツ姿の男性が現れた。
その男性は外側に立つと、ドアの取っ手を持って中に向かって声をかけた。
すると中からアリシア・フローレンスが姿を現した。
アリシアは、その男性に笑顔で会釈した。
男性は、そうすることが当然のように、そして嬉しそうに笑顔で応えた。
軽く言葉を交わしてその男性と別れたアリシアは、正面の通り沿いにある運河の柵のそばで、ひとりポツンと立っている灯里を目にとめた。
「どうしたの?」
心配そうに声をかけたアリシアの前で、灯里はばつが悪そうに立っていた。
「お忙しいところ、すみません」
灯里とアリシアは、ゴンドラ協会から少し歩いたところにあるカフェに入った。
観光地の真ん中から離れたところにあるため、窓から見える通りは、穏やかに時間が流れているように見えた。
「灯里ちゃん、もういいの?」
「はい。お陰様でもうすっかりよくなりました」
「そうなの。よかった」
二人は運ばれてきた紅茶を口にした。
「それはそうと、急にどうしたの?」
「実はアリシアさんにお聞きしたいことがありまして・・・」
「聞きたいこと?何かしら?」
「はい、あの~」
「ん?何か困ったことでもあった?」
「そのぉ、実は、思い出せないことがあって・・・」
灯里は、これまでの経緯をアリシアに話した。
アリスからネオ・ヴェネツィアでチャリティーイベントが再開されることやアテナのコンサートがあることを聞かされたが、それを聞いた灯里は、以前のイベントの時のことがはっきりと思い出せなかった。
そして、その時のことを聞くためアテナと晃に会いに行ったことも伝えた。
そしてそれは、アージアと見た、あのイメージに繋がっていることも。
「でも、その時のことを、ちゃんと思い出せないんです」
「そうなの」
アリシアは、灯里の曇った表情を心配そうに見つめた。
「灯里ちゃんがそこまでのことを抱えていたなんて知らなかった。それは大変だったわね」
「はい・・・」
「つまり、灯里ちゃんは、その時の出来事が本当だったのかどうかを確かめたいってこと?」
「そうなんです!」
アリシアは、深刻な表情で見つめる灯里を心配そうに見ていたが、少し微笑んで返した。
「あの時のことは覚えているわ」
「本当ですか?」
「なぜかというと、その日あったことを、灯里ちゃんがとても嬉しそうに話してくれたから。私の帰りを待ちわびていたかのように次から次へと、ね?」
「そうだったんですか・・・」
「特に、あるひとりの女の子との出会いを、とても熱心に話してくれたわ。灯里ちゃんにとって、とても嬉しい出会いだったんだろうなぁと思った」
「アリシアさん!そうなんです!」
灯里はやっとのことで、知りたいことに近づけたような気分だった。
「それで私はなんて話したんですか?」
「その女の子がサン・ジョルジョ・マッジョーレ島へわたりたがっているように見えたけど、自分にはそれがまだできなかったから、どうしようか困った。その時、私から聞いたあるエピソードを思い出した」
「はい!そうなんです!アリシアさんが言ってた、お友達としてならっていう、あの話です!」
「その話をしたら、その女の子がとても嬉しそうに笑ったって」
「はい!それで教会へ行って、鐘楼にのぼって・・・」
「ネオ・ヴェネツィアの風景を一緒に見た。夕陽に染まる大鐘楼をよね?」
「はい!」
灯里は、やっとその時のことを思い出せそうになって、胸が高鳴っていた。
「そして、二人でサン・マルコ広場を目指して帰った」
「はい、そうなんです・・・」
灯里は急に表情を暗くさせた。
「どうしたの?灯里ちゃん?」
「それから、私、なんて言ってました?」
「なんて言ってたって、どういうこと?」
「だから、そこから先が・・・」
アリシアはうつ向いた灯里を、心配そうに見つめた。
「そういうことだったのね?」
「どうしてもそこから先が・・・」
「迎えに来てたって」
「えっ?」
「その女の子を誰かが迎えに来てたって言ってたわ」
「それは誰って言ってました?」
「誰かとは言ってなかったわ」
「言ってなかったって、なんでですか?」
灯里は、自分が体験したはずのことを、アリシアに問いかけていた。
「すみません」
アリシアは穏やかに微笑みかえすと、灯里の手を両手でそっと優しく握った。
「灯里ちゃんはね、こう言ったの。きっとその女の子のお父さんに違いないって。だって、その女の子がとても嬉しそうにしていたからって」
灯里はアリシアの言葉を聞いて目に涙を浮かべていた。
「灯里ちゃん?大丈夫?」
「ありがとうございます、アリシアさん。それが聞けただけでも良かったです」
「本当にこれでよかったの?」
灯里は、嬉しさと切なさが入りまじった複雑な顔に微笑みを浮かべて、アリシアに応えようとしていた。
灯里の気持ちが落ち着いてきたところで、アリシアは話を切り出した。
「でも、灯里ちゃんて結構大胆なんだと、とっても驚いたわ」
「えっ、どういうことですか?」
アリシアの意外な話の展開に、灯里は先ほどまでの感動的な表情はすっかり消えていた。
「だって灯里ちゃんたら、まだお客様を乗せた経験もなかったのに、いきなり女の子を乗せて、しかもサン・ジョルジョ・マッジョーレ島まで行っちゃうんだもん!」
「えっ・・・ええーー!」
「本当に覚えてないの?」
アリシアはイタズラっぽく灯里を見返した。
「アリシアさ~ん!本当なんですぅ~~」
「ホントに?」
「信じてください~~!」
アリシアは灯里の困った顔を見ると、少し安堵した表情になった。
「アリシアさん?」
「灯里ちゃんの言うことを信じるわ」
「よかったですぅ~」
「でも」
「で、でも?」
「でも、実はその後が大変だったわ」
「大変だったんですか?」
「あの時、灯里ちゃんには言わなかったけど、実は怒鳴り込んで来た人がいたの」
「ああ~、それは、先ほど聞いたような・・・」
「〈お前のところのウンディーネは、いったいどういうつもりだぁー!〉ってね」
「やっぱりそのようなことが・・・」
「知ってるの?」
「さきほど、晃さんにお会いしたときに、そんなようなことを・・・」
「聞いたのね?」
「はい」
アリシアはテーブルに頬杖をついて灯里の顔をじっくりと見た。
「あ、あの~」
「ホントにどうしようかと思ったわ」
「その節はご迷惑をお掛けして・・・」
「でも、晃ちゃんは一切口外しなかった」
「それもお聞きしました。アリシアさんが私を必死になってかばってくれたって」
アリシアは、窓の外に目線を移した。
「それって、灯里ちゃんにとって、とても大事な経験をしたんだと思ったの。これからウンディーネとしての日々を続けていったとしても、その先同じ経験をするとも限らない」
「アリシアさん・・・」
灯里はアリシアの言葉に胸が熱くなるような思いだった。
「アリシアさん?」
「なあに?」
「やっぱりその時の私って、まだペアだったということですよね?だから、晃さんが怒ってたということですよね?」
「そうね。灯里ちゃんは確かにペアだった」
「わたし、まだペアだったんですね・・・」
灯里は、やはり自分の記憶との違いに驚きを隠せないでいた。
「どうしたの?」
「私の記憶では、私はシングルなんです」
「シングル?ホントに?」
「片手にグローブをつけて・・・オールの感触もこの手に残っていて・・・」
「何かの勘違いじゃないの?」
アリシアは目を丸くしていた。
「私の記憶って、どこに行っちゃったんだろう・・・」
灯里はオレンジ色に染まる海岸沿いを進んでいた。
アリシアに気持ちを打ち明け、久し振りにいろんな話もできたことで、少し気持ちを落ち着かせることができていた。
そして、ARIAカンパニーの姿が見え始めると、戻ってこれたという安堵の気持ちになっていた。
だが、近づくにつれ、なにやら話し声が聞こえ始めていた。
灯里は目を凝らして見てみると、海に面したデッキのところに人影が見えた。
それもひとりではなく、三人ほどの・・・
すると、その中のひとりが灯里に向かって大きく手を振って来た。
「灯里さーん!」
灯里にはそれが誰かなのか、すぐにわかった。
灯里がゴンドラで近づいて行くと、そこにいる人たちが笑顔で迎えてくれた。
「アガタさーん!アデリーナさーん!それにアロンソさん!」
「お久し振りですー!元気してましたかぁー?」
「はい!お陰様で元気してましたー!」
アガタはデッキに上がってきた灯里と手を取り合うと、ぴょんぴょん飛び跳ねていた。
「アデリーナさんもお久し振りです!お身体の方はどうですか?」
アデリーナはニッコリ微笑んだ。
「私はお陰様で大丈夫よ。灯里さんの方こそ、お元気でなによりだわ」
灯里を挟んで、アガタとアデリーナはうれしさいっぱいの表情で、久し振りの再会を喜びあっていた。
「でも三人揃ってどうされたんですか?」
「それは決まってるじゃないですかぁー?灯里さんに会うためですよー!」
「そうなんですね」
灯里はアガタの勢いに思わず苦笑していた。
「灯里さんにも都合があるからって言ったのだけど・・・ね?」
「いいんですぅ!ねぇー?」
アガタは灯里の顔を覗き込むようにしてニッコリと笑った。
「うれしいです!来ていただいただけでも!」
「ほらぁー!灯里さんも言ってるじゃないですかぁー!」
「わかったから!」
灯里はそんなふたりから少し離れて立っているアロンソの方に、チラッと目を向けた。
アロンソは、穏やかな表情で眩しそうに海に目を向けていた。
「ねえ、灯里さん!今からでも、乗せていただけますか?ゴンドラ!」
「アガタ!無理を言っちゃ迷惑よ!」
「ええー?そうなんですかぁ?だって、また明日から忙しくなるから、こんなときぐらいしか時間がとれないじゃないですかぁ?」
アガタはとても残念そうな顔で、つないだ灯里の手を左右にゆらゆらと揺らしてみせた。
「大丈夫ですよ」
「本当ですかぁー?」
それを聞いたアガタは、今度はまるでダンスでも踊るように灯里の周りを跳び跳ねていた。
「もう!アガタったら!」
灯里は、アデリーナとアガタをゴンドラに乗せると、再びデッキに上がってきた。
「アロンソさんもどうぞ」
「いや、私はここで結構です」
そう言ってアロンソは軽く手を振ってみせた。
「そうですか」
ゴンドラの上でせかすように声をかけてきたアガタに合図を送って、灯里はアロンソに会釈をしてそこから離れようとした。
「灯里さん、ちょっと待って」
アロンソがその背中に声をかけた。
「実は灯里さんに渡すものがあって・・・」
「はぁ」
アロンソは上着の内ポケットに手を突っ込むと、何かを持ったその手を引き出した。
「それは?」
アロンソの手には、何か白いものが握られていた。
「アールドのやつからあずかってきたんです。どうしても灯里さんに渡せって言うもんだから」
「私に?」
灯里はアロンソの方に一歩近づいた。
「それって・・・」
「実はこれ、アージアの持ち物の中にあったものなんです。でもアージアには身寄りがなかったから、警察で一時預かることになってたんですが、アイツが、アールドのヤツが、これは灯里さんが持ってるべきものなんじゃないかって、しつこく言ってきたものだから」
灯里は一歩前に踏み出た。
その瞬間、灯里の顔色が変わった。
「それ・・・手袋・・・」
アロンソが手を開くと、そこにはウンディーネがオールを漕ぐ際に使う手袋があった。
だが、そこには片方の手袋しかなかった。
灯里はそれに釘付けになっていた。
「灯里さん?どうかした?」
灯里には見覚えがあった。
白いが、使い古された手袋。
それは、ARIAカンパニーのウンディーネであることの証の手袋だった。
「なんでそれが、アージアさんの持ち物の中に?」
「そこまではわからない。ただ、かなり大事にしていたようだった」
灯里は、それが自分が思っているものかどうかを確かめようと、その手袋に手を伸ばした。
その瞬間、灯里の全身に稲妻が走った。
目の前が真っ白になり、気を失うように意識が遠のいていった。
灯里はゴンドラの上にいた。
目の前には夕陽にきらめく海。その向こうには、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島が見えている。
眩しそうに目を細めるひとりの女の子が、海沿いの船着き場に立っていた。
灯里は一緒に行こうと女の子に声をかけている。
嬉しそうに笑った女の子に伸ばした手には、白い手袋があった。
そして、もう一方のオールを握る手にも。
女の子を乗せたゴンドラがまっすぐサン・ジョルジョ・マッジョーレ島へと向かっていた。
誰かが遠くから怒鳴っている声がかすかに聞こえてきたが、灯里は脇目もふらずに、オールをこぎ続けていた。
そこにあった教会は、神々しく輝いていた。
灯里と女の子は、躊躇することなく、その鐘楼を上っていった。
途中、どこからか、うっとりするような歌声が聞こえてきた。
その声に、心が満たされてゆくような幸せを感じた。
ふたりは、鐘楼の一番上から見える対岸の、夕陽に照らされたネオ・ヴェネツィアの街並みに目を奪われていた。
サン・マルコ広場の大鐘楼からは、荘厳な鐘の音が鳴り響いている。
下の方では、誰かがふたりの方を見上げて、指差していた。
ふたりは、そこから離れ難い思いで鐘楼をあとにした。
今度は、あの輝く大鐘楼を目指してゆくゴンドラ。
その時、女の子が振り返った。
そして灯里にこう言った。
「またいつか来てみたい」
灯里は「いつでもおいで」と応えた。
そして、片方の手袋を外すと、その女の子に手渡した。
これを見せてくれたらわかるから、と。
「大丈夫!私が保証するから!ちゃんと預けておくからね!」
船着き場に近づくと、誰かがその女の子に大きく手を振っている姿が目に入った。
ゴンドラを降りた女の子は、そこにいた男性に向かってかけていった。
そして、手をつないで歩き始めた女の子は、振り返って灯里に手を振った。
満面の笑みを浮かべて・・・
灯里は、夕陽の沈みかけたネオ・アドリア海の上にいた。
アデリーナとアガタは、向かい合うように座って、その心奪われる風景に見とれていた。
だが、アデリーナは、先ほどとは表情の違う灯里のことが気になっていた。
ゴンドラの向きが変わると、目の前に教会の島が浮かんでいるのが見えてきた。
すると、少しずつ、誰かの歌声が聞こえてきた。
アガタは、キョロキョロ辺りを見回していたが、目の前に浮かぶ教会を指差した。
アデリーナもそこへと目を向けた。
それは、心が洗われるような美しい歌声だった。
うっとりと耳を傾けていたアデリーナは、嬉しそうでいて、どこか寂しげな表情でゴンドラの上に立っている灯里の姿に目を奪われた。
夕陽が沈みかけた空の下、辺りが薄暗くなった風景の中で、灯里の姿だけを最後の夕陽が照らし出していた。
目を細めた灯里の表情は、アガタとふたりで見ている風景とは違うものを見ているようだった。
なぜだろうか。
アデリーナは、その灯里が見ている風景を、自分も見てみたいという思いに駆り立てられていた。