マスカレード・ヴェネツィアン・ホテル   作:neo venetiatti

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第五十九話 物語の終わりと始まり

灯里は、すっかり暗くなった海を見ながら、カウンターのシャッターを下ろそうとしていた。

 

その時、入り口のドアをノックする音がした。

 

「こんな時間に誰だろう・・・」

 

少し不安をおぼえながら、ドアのところへ向かった。

 

「どちら様でしょうか・・・」

 

そう言いながら開けたドアの外には、先ほど別れたばかりのアデリーナが立っていた。

 

「どうされたんですか?」

 

「もう少しお話がしたくて」

 

アデリーナはニッコリと微笑んだ。

 

 

 

 

灯里はアデリーナの前に置いたカップに紅茶を注いだ。

 

「ごめんなさいね」

 

アデリーナはそばに立つ灯里の顔を見上げながら言った。

 

「いえ、大丈夫ですよ」

 

灯里はポットをテーブルに置くと、アデリーナの向かい側に座った。

 

「正直、驚きました」

 

「ご迷惑だった?」

 

「いえ。実は、私も少しアデリーナさんとお話がしたかったんです」

 

「そうなの?」

 

「はい」

 

灯里はアデリーナの不思議そうにしている顔に、にこやかにほほえんだ。

 

「あの」

 

「はい?」

 

「どうぞ飲んでみてください。今朝届いたカモミール・ティーです。いつもご贔屓にしていただいているお客さまが、私が復帰すると知って送って頂いたものなんです」

 

「そうなの」

 

アデリーナは、カップを手に取ると、その金色に輝く水面をじっと見つめた。

 

そして、ゆっくりと口をつけた。

 

「おいしい」

 

「よかったです」

 

「灯里さんには、こんなふうに、灯里さんの帰りを待ちわびている人がいるんですね」

 

「そう、ですね。ありがたいです」

 

アデリーナは感慨深くもう一度その紅茶を口にした。

 

そこからふたりは、先ほどまで見ていたネオ・アドリア海の夕暮れの風景のことを話した。

 

そして、そこに聞こえてきたあの美しい歌声のことも。

 

「アテナさんです。アテナ・グローリィー。私のとても尊敬している先輩であり、このアクアを代表する歌い手の方です」

 

「あの歌声はそうだったの?」

 

アデリーナは驚きとともに、とても意外そうだった。

 

「アデリーナさんもご存知だと思いますが、明日行われるチャリティー・イベントのための、コンサートのリハーサルなんです」

 

「そうね。明日だったわね」

 

「ホテルの方も何かやるんですか?」

 

「そうなの。ほらあの子、アガタも言ってたでしょ?明日から忙しくなるって」

 

「そうですね」

 

灯里は思わずほほえんでいた。

 

「それに、そのチャリティーイベントが終わったら、ホテルを以前のような状態に本格的に戻すことになるの。新オーナーの肝いりでね」

 

アデリーナは少しイタズラっぽく笑って見せた。

 

「そうだったんですね」

 

「それでね、灯里さん?」

 

「はい?」

 

「こんなふうに灯里さんとお会いできるのも、もうこの先、そんなにはないと思うの。だから、話しておこうと思って・・・」

 

「はい・・・」

 

「灯里さんも、もうご存知だと思うんだけど。私の身の回りにいろんなことが起こって、もちろん私自身にもいろんなことがあって、正直言って、まだ整理がついてない状態なの。それでも、アリーチェ様が私にこれからもホテル・ネオ・ヴェネツィアーティーで働くように言ってくださって。しかもフロントを管理するチーフでって言って頂いて」

 

「そうなんですか?すごいですね!」

 

「本当に有難い話だと思う。彼女たちのことを、アルマやアージアのことを考えると、私もその責任の一端に関わっていた。知らなかったとはいえ、ホテルに迷惑をかけたのは事実」

 

「でもアデリーナさんは、どちらかと言えば、被害者なんじゃないですか?」

 

「そう言ってくれる人もいる。でも心苦しいのも事実としてあるの。わたし、これからどんな顔してロビーに立てばいいんだろうって」

 

「そうか。アデリーナさんの気持ちは、複雑なんですね」

 

「でもね、これからもあそこで働けると思うと、やり甲斐も感じてるの。よし!やるぞぉー!ってね?」

 

灯里はアデリーナの意外と思える態度に思わず笑っていた。

 

「えっ、何?わたし、そんなにおかしい?」

 

「違うんです。だって、まるでアガタさんみたい」

 

「ええー?そうなの?」

 

ふたりは、そのキーワードといえるような言葉に思わず笑っていた。

 

「アガタに言っておくわ!灯里さんが、こんなこと言ってたって!」

 

「ええー!アガタさん、仕事休んで文句を言いにくるんじゃないですか?」

 

「その反対!喜んで飛んで来ると思う!」

 

「そうかもですぅー!」

 

 

 

 

アデリーナはその紅茶の、最後の一口を飲み干した。

 

「ごめんなさいね。私の話ばかりで」

 

「いえ、そんなことありません。お話が聞けてよかったです」

 

「灯里さんは?灯里さんも話したいことがあるって」

 

「そうですね」

 

「もしかして、アージアのこと?」

 

「えっ?なんでわかったんですか?」

 

「さっきね、ゴンドラの上にいる灯里さんを見ていて、ふと、そう思ったの」

 

「はぁ」

 

「灯里さんは、あの時、私とアガタが見ている風景とは違うものを見てるんじゃないかって思った」

 

「違うものですか?」

 

「そう。そう思った時、なぜか無性にそれを見たいと思った」

 

「それって、どういうことなんでしょうか?」

 

「実は・・・」

 

アデリーナは少しうつむくと、何かを思い出すようにテーブルを見つめた。

 

「聞いたの。あの時、灯里さんが何かを見たって」

 

「それは・・・」

 

「それをアージアに問いかけたって。あなたも見たはずだと。アージアも何かを思い出したようになって、床に崩れ落ちた」

 

それを聞いた灯里もテーブルに視線を落とした。

 

「何を見たの?」

 

アデリーナの問いかけに、灯里は少しためらうように、すぐには答えようとしなかった。

 

「もし話すのが嫌だったら・・・」

 

「あの時見たのは、私とアージアさんの、一緒に見た記憶です」

 

「一緒に?一緒に見たってどういうこと?」

 

「私たち、会ってたんです。以前に」

 

「会ってたの?いつ?」

 

「私がまだウンディーネを始めた頃で、アージアさんはまだ小さかったと思います」

 

灯里は、自分が見たその光景をアデリーナに話した。

 

その時の光景は、ただの想い出ではなく、アージアにとっては大事な記憶になっていると、なぜか確信できたことを。

 

だが肝心の灯里の方は、記憶の断片をたどるような、本当のことだったのかどうかすら、確信が持てなかったことも。

 

「でも、それがさっき・・・」

 

「もしかして、アロンソと話してたけど、何かあったの?」

 

「はい。アロンソさんから渡されたものがあって・・・」

 

「何?渡されたって?」

 

「手袋です」

 

「手袋?」

 

「オールを握る時に使う、ウンディーネの手袋です」

 

「それをアロンソがなんで?」

 

「アージアさんの持ち物の中にあったらしいんです。それをアールドさんが私に渡すように言ったので、それで持ってきたって」

 

「その手袋って、灯里さんのものなの?」

 

「はい」

 

「どういうこと?なんでアージアがそれを持ってたの・・・」

 

アデリーナは何かに気づいたように驚いていた。

 

「もしかして、その時にってことなの?」

 

「たぶん」

 

「そんなことって・・・」

 

灯里はポケットから、アロンソから受け取った手袋を出して、テーブルの上に置いた。

 

「この手袋のおかげで、記憶がはっきりとしたんです。あの時、何があったのか。そして、なんで私の手袋をアージアさんが持っていたのかも」

 

灯里は目を細めて、いとおしそうに見つめた。

 

「私が渡したんです」

 

「どうして?」

 

「その時、一緒にゴンドラに乗った女の子が、また来てみたいって言ったんです。それなら、いつ来ても、それを見ればその時の女の子だとわかると思ったので」

 

「それがアージアだったっていうこと・・・」

 

アデリーナは、目の前にある使い古された、少し汚れた白い手袋をじっと見つめた。

 

「その時のことをアージアも思い出したわけなの?」

 

「そうだと思います」

 

「でもそれで、アージアはなんで思い直したんだろう・・・」

 

灯里もその手袋を見つめた。

 

穏やかに、でもどこか寂しげに、灯里はほほえんでいた。

 

「正直に言うと、私もよくわかってるわけではないんです。でも、あそこまでのことをしたアージアさんは、何かをとても憎んでいたのではないでしょうか?」

 

アデリーナはそれを聞いて、何か思い当たるような表情になった。

 

「そうね。それはわかるような気がする。ほんとは私がそれを言う権利はないのだけど」

 

「でも、それも必要なくなったんじゃないかと」

 

「どうして?誰も過去のことを精算できたわけじゃない。ただ、それがあったとわかっただけなのに?」

 

「すみません、アデリーナさん。わかったようなことを言ってしまって」

 

灯里はアデリーナの深刻な表情に恐縮していた。

 

「いいえ、少し感情的になってしまったわね。ごめんなさい。灯里さんの考えを聞きたかったのは、私の方なのに」

 

灯里は軽く微笑むとこう言った。

 

「もう要らなくなったんです。きっと」

 

「要らなくなった?アージアにとって、この手袋は大事なものだったんじゃないの?」

 

「これが私のところに戻ってきたってことは、この物語は、もう終わろうとしているんだと思います」

 

「物語が終わるって、どういうこと?」

 

「この手袋は、私とアージアさんが見た記憶を繋ぐ唯一の想い出だったんです」

 

「この手袋が想い出・・・唯一の・・・」

 

「おそらくなんですけど、アージアさんがアージアさんらしくいられた時の、大事な、数少ない想い出だったのではないかって。勝手な想像なんですけど」

 

灯里は照れ臭そうに、笑みを浮かべながら語った。

 

「だけど、なぜそれが、灯里さんだけがそういうことになったの?その時に初めてあったのよね?アージアとは」

 

「それはただの偶然だったのかもしれません。それでも、誰か、それがそうなんだと言ってくれるひとが必要だったんだと思います。アージアさんひとりでは、ちゃんと想い出として確信が持てなかったのかもしれません」

 

「つまり、灯里さんの記憶がそうだってこと?」

 

アデリーナは、灯里の話がまだ信じられないといった表情で、灯里を見つめていた。

 

「私の元に私の記憶が戻ってきたってことは、もう必要なくなったってことだと思います」

 

「そんなことって、あるの?」

 

 

 

 

「私、こうも思ったんです」

 

ARIAカンパニーの玄関のドアを出たところで、灯里はアデリーナの背中に向かってこう言った。

 

「また新しい物語が始まるんだって」

 

振り返ったアデリーナの、室内の灯りに照らされた顔は、とても羨ましそうにほほえんでいた。

 

「灯里さんて、なぜそんなに前向きなの?」

 

「私って、そんなに前向きではないような気がしてるんですけど・・・」

 

灯里は照れ臭そうに笑っていた。

 

「ぜんぜん前向きよね?」

 

アデリーナは、灯里の笑った顔を見てパッと表情を変えた。

 

「ありがとう、灯里さん。これで、少しは前を向いて歩けそうだわ」

 

「アデリーナさん」

 

「それと」

 

「はい?」

 

「それと、こんなこと言うの、ちょっと照れ臭いのだけど」

 

「はぁ」

 

「私も、頑張ることにする!自分の新しい物語を描いてゆくために!」

 

「はい!」

 

「でも責任とってよ?」

 

「へっ?」

 

「こんなこと言うキャラじゃないんだから!」

 

「ああ~~わかりましたぁ~~」

 

「わかったの?」

 

「あっ!たぶん・・・」

 

アデリーナは、灯里の困った顔を見て、いとおしそうにほほえんだ。

 

「じゃあ、また。いつか会う日まで、灯里さん」

 

「はい。いつか、きっと・・・」

 

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