いなずまが降り注ぐ夜。明るく、暗い夜空には、いつも彼女が浮かんでいた。さらば常世とうたいながら、彼女は雷雨の中を泳いでいる。
雲が傾いた夕方に、まず彼女はやってきた。薄明るい夕焼けのなかで、僕は縁側でとぐろを巻いていて、それはつい先ほど三つ上の兄と喧嘩をしてしまったばかりに、きっと僕の心のなかに渦巻いた不満が表出したようなことだった。
そんな折に傍に気配がして、僕は兄が冷やかしに来たものだと思ったから余計に塞ぎ込んでしまった。
「どこかへ行ってよ。」
そう努めて冷淡に告げたはずだったのに、それはいつものように粗暴な態度は見せずに、そっと僕へ近寄った。いい加減に僕も奇妙になって、姿勢を正してみれば、そこにはまるで見たこともない麗人が佇んでいた。
それはやはり奇妙で、単にうちの縁側にそんな人がやってきているという事実だけでもそうだったのに、彼女が常人離れした容姿であったことも手伝っていた。
短い髪の毛に被さった、丸いトップハットがやけに目を引いて、同時に彼女が身に着けている羽衣が緋色に輝いている様にも見えて、僕は彼女から目が離せなかった。
「もうしばらくすると雷が降ります、屋内に避難するのが賢明かと。」
それだけ残すと彼女はふわりと浮かび上がって、それよりはこちらをも見ずに飛び去ってしまった。それから僕はさようならと言って、空を眺めていた。
結局、兄は喧嘩のことなどすぐに忘れて、僕をあちらこちらへと引っ張っていった。その調子のよさに僕もつられて、やはり三日と経たないうちにそのことは忘れてしまっていた。それから少しして、私は里の寺子屋へと通うようになった。日々は穏やかに過ぎてゆく。
それはある日の放課後のことであった。兄と私は教室に残っていた。特別居残りさせられる様な問題があったのでなく、ただ家に帰るということは自然に両親の話し合いにいたたまれなくなるということがすでに分かり切っていたからだった。夏も過ぎ初秋を迎えた教室は張り詰めた静けさが蔓延っていた。
「なぁ、仁。もし母ちゃんと父ちゃんが離れ離れになったら、お前はどっちについてくんだ?」
兄は何気なさそうにそう尋ねた。パキッと家鳴りがした。
「僕は……。多分父ちゃんに付いていくと思う。」
なぜ、とは言われなかった。ただ兄は何かを噛みしめる様に俯いていた。
「そいじゃぁ、俺たち離れ離れになっちまうな。」
私は小さく、そうだね、と呟いて宿題に向き合うふりをした。秋の太陽はすでに黄昏時であった。廊下側から差し込む西日が厳しい。私は、どうしてこんなときばかり空には雲一つないのだろうと、世界に緋色の幻想を見たのだった。
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それから幾年か過ぎた。私は成人を迎え家業を継ぎ就労に励んでいた。
その長い年月は、私に多くのことを教えてくれた。寺子屋での授業に始まり、家業の手伝いからなる労働、そして少しの恋愛。されど、いついつまでも私の心に突き刺さって抜けない情景は、緋色の彼女の残した後ろ姿とその背後に浮かぶ、稲妻を孕んだ雷雲だけであった。少ないながら経験した恋愛の中にあって、あの情景は異質であった。
あるとき、床を交えたある女性に言われたことがある。
「失礼しちゃうわ。こんなにも近くにあって、二人は一人になろうとしているのに。それなのにあなたは私を見ていない。」
彼女は私の対面にしゃんと座ってそう言った。連れ込み宿を出て早々に入った居酒屋で、私たちは対面していた。傾ける盃から流れてくるのは口の中を飛び跳ねるほど旨い清酒であったのに、彼女のその言葉で途端に酒が不味くなった。
彼女は聡い人であった。だから、一時の偶然で寄り添った相手の違和にもすぐに気づいてしまったのだ。それは酷く私を悩ませた。決して彼女を不幸にしたい訳でもなかったし、この気持ちが恋でないとは思わなかった。
「君がそう望むなら。」
彼女は私の元を去って行った。私の恋愛はいつもその様にして終わっていった。彼女たちの後ろにはいつも緋色の彼女が居た。私を好いてくれる奇特な彼女たちには、申訳の立たないことをしてしまった。
あくる日彼女に会った。
それは、私が店の仕入れを終えて店先に暖簾を垂らしたときであった。ごめんください、と背後から声がした。背筋が震えた。緋色の彼女だ、そう確信した私は幾ばくかの緊張感を持って彼女をその視界へと捉えた。
彼女は居住まいが整っているわけではないのに、その身から漂う緊張感に私はキッと身を正して彼女を店へと迎え入れた。店は小規模な茶屋であった。カウンター席に座る彼女は、曇りの早朝独特の薄暗さの中で緋色の羽衣をふわふわと浮かしていた。
「ブレンドを一つ。」
私はいつもより少し、丁寧に珈琲を作った。そして最もよく磨かれた茶器でそれを提供した。彼女は伏し目がちにカップを傾けてそれを口へと運んだ。音はなかった。静謐さに支配された空気に同調して、彼女の姿までもがうすぼんやりと霞んでいくように思われた。
あの、とは彼女の発した言葉である。やはり伏し目がちにこちらを伺う彼女に、私はようやく自分があまりにも彼女を注視していたことに気づき、それを恥じた。
「申し訳ないです。もし……。」
私が言い淀むと、彼女はただじっと黙っている。そこに圧はなかった。朝に向かう朗らかな陽光に絆された空気が店内を充満していたお陰かも知れなかった。
「もしや、もう忘れてしまっているかもしれませんが、私は一度あなたとお会いしています。幾年かむかし、縁側に項垂れる少年を憶えてはいられませんか?」
彼女はただじっと黙って。私の言葉を聞いていた。同時に過去を思ってもいたのだろう。けれど彼女にとってみては、長い映画の最中にある瞬きの間に消えてしまう人物のことなど覚えてはいなかったのだろう。えっと、と言葉に詰まる彼女に、しかし落胆や失望という念は湧かなかった。
「無論、覚えてはいらっしゃらないと思います。ただ、貴方に伝えておきたかった。私があなたを知っていたという、ただそれだけを。」
私は無責任にその感情を放り投げた。私のただの自己満足に彼女を付き合わせてしまったことをまた恥じた。けれど彼女は悠然とカップを口へと運ぶ。
「確かに、私の出会った中に、あなたは居たのかもしれません。それが何かあなたにとって大きな出来事だったのでしょう。けれどそれはやはり胸の内に秘めておくのが正しいのだと思います。ことこの幻想郷においては。」
彼女はそう言い残すと、勘定を置いて去って行った。彼女の使った茶器を片付けている間にも、私はなんだか抑えきれない衝動を感じていた。茶器を退かしてテーブルを拭く。彼女の使わなかったミルクは流しへと捨ててしまった。
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兄が他界した。病魔に蝕まれてのことであった。中年を過ぎ、彼には二人の息子が居た。そのうちの弟の方と私は茶屋で珈琲を飲んでいた。
「兄貴とは、親が離婚した後もやっぱりどこかしらで会うようになったんだ。身内思いでさ、そんなんだから体も壊しちまった。」
私は一人小さく纏まるのが性分ではあったが、それにしてもそのときは誰を相手にしているのかも酷薄なくらい気落ちしていた。
「仁さんにだけだと思うよ。父さんは、そんなに兄貴肌じゃなかったから。」
甥が珈琲のお代わりを注いでくれた。立ち上る湯気は、内包された熱の漏出である。そんなものを飲んでいるから、やはり私は心の織を外へと吐き出さなければならなかった。甥は薄桃色のハンカチーフを懐から取り出すと、手渡してくれた。
「そういえば、最近紅茶も出すようになったんだ。」
そう言って彼が出してくれたティーカップには、紅の茶が並々と注がれていた。その赤さは、やっぱりどこか私の心を掻き立てる何かがあった。
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それから数日、甥夫婦の手伝いもあって、遺品整理は早々に片が付いた。二人も帰って行って、私の実家も酷く静かになった。私は縁側に出た。その静けさはやはり曇り空の影響であったようだ。縁側に腰を下ろし一息つく。
あれ以降、彼女は現れなかった。彼女の名前や、或いは住いがもし調べれば判明したかもしれない。けれど私はそれをしなかった。この気持ちを、単なる恋や愛という言葉で終わらせたくはなかったのだ。
ままならない人生ではあった。しかしそこに燦然と輝く彼女の姿が有れば、世はこともなしである。
ふと足音がした、ひたひたとそれは近づいてきて、私の隣に立ち止まった。見上げる必要も無いと感じた。それが誰であって、何であるのかは確認する意味もないほどあからさまであった。
「行きましょう。」
天が割れ隙間から漏れた光の柱が世界に温かさを差し込んだ。それはただの老人の最後にしてはあまりに贅沢であった。けれど彼女を思い続けた私への一つの幸運だと思えば、存外過多ではないのかもしれない。
彼女に手を引かれ私は天を泳ぐ。緋色に輝く羽衣は、その光の柱の中にあっても怪しく光跡を残していく。
さらば常世とうたいながら、私たちは晴れ間の空を泳いでいった。