きびしい顔をした、曇天だった。
こらえていたものが決壊するように雨粒がこぼれてターフを濡らす。
ぬかるんだ地の上で少女は俯いて立っていた。少女の名はセイウンスカイ。
今日の天気は彼女の名前とは似ても似つかぬ忌々しいほどの曇り空だった。
スカイはやがて立っていることすらおぼつかなくなり、泥を跳ねながら膝をついた。
足りないものを補うように必死に胸郭を膨らませる。煮立った血液が全身を巡り頭をガンガンと叩きつけてくる。体内が、とてつもない速さで循環する。それにより相対的に視界に映るものがゆっくりと見える。
瞬くような速さで降っているはずの雨粒でさえ、スカイにはコマ送りのように見えた。
キラキラと光を反射する粒。光の加減でスカイの姿を映し出した。
晴れの空のように青みがかった芦毛。ひまわりの髪飾りは、スカイの心の内に秘めた、どこまでも上を目指す気高さを表しているようだった。
スカイの瞳に映る景色は全てが逆さまだった。気持ちの良い晴れのような青も、満天のひまわりも全てがひっくり返っていた。
また一つ粒が溢れた。頭上からではなく、彼女の手前から溢れた。
鏡写しの瞳に眼をやるとその正体に気づく。
セイウンスカイが写したのは雨ではなく彼女の涙だった。
「う、あ……あぁぁぁぁぁぁ」
誰にも見せなかった。見られたくなかった。
他人に見せてきた、雲のように掴めないセイウンスカイ。その中に隠した泥まみれの姿。
スカイにとってその姿を晒すことは途方もないほどの屈辱だった。誰かに見られることがあれば舌を噛みきった方がマシだと本心から思っていた。
しかし、実際は違った。
スカイにとってひどく醜い姿を晒している。怒りが沸くほどに浅ましい敗者の姿。理性が必死に止めろと命令している。
だと言うのに口から溢れるのは、打ちつけるような激しい慟哭だけ。理性など投げ捨てた、本能と感情任せのおぞましい俗物のソレ。
自分自身にさえも隠しに隠し続けて、気づけば抱えるのが難しいほどに肥大した、強烈な自意識。
溜まった泥を吐き出すようなその絶叫も、次第に強まる雨の音にかき消されてしまった。
「お疲れ様でした~、トレーナーさん。いやー、ファイナルズ決勝負けちゃいました。行けると思ったんですけどね」
ライブ後、セイウンスカイは控え室に戻りトレーナーに感想を伝えた。
うちひしがれる心と、震えてしまう体に必死に言い聞かせ臨んだライブは、普段のセイウンスカイらしく振る舞えたと、彼女は自負していた。
だから、ライブ終わりに冷水で必死に目を冷やせば、きっとトレーナー相手でもいつも通りに接することができると思っていた。
「お疲れ様。スカイ」
「ええ、本当に疲れちゃいましたよ。て言うか、レース後に情けない姿見せちゃってすごい恥ずかしいって言うか~」
三年間。
スカイの目の前にいる男は三年間セイウンスカイのトレーナーとして、スカイを支えてきた。気心が知れた仲だ。
時と場合に依っては、家族など血縁より深い繋がりを感じる場面だってあった。しかし、そんな彼でさえスカイは全てを晒すことはなかった。
だからこその自負だ。とてつもない醜態を晒したが、まだ修正が利くという確信があった。
「あーあ、勝てると思ったんですけどね。上には上がいるなあってセイちゃんは学びました」
何も問題はない。違和感はない。スカイはいつものように言葉を浮わつかせる。上っ面だけで、うつろなやり取り。
彼にとっては馴染み深い、意味のない戯言。この後はなあなあで、プライベートな話題に持っていくのが常だった。
だから今回もそうやって雲隠れしようと思っていた。
「スカイ、セイウンスカイ。君は今回の試合を振り返ってどう思う?」
「え、それ負けたやつに聞きます?」
「君の口から聞きたいんだ」
スカイはトレーナーのこう言う言い方をするところがキライだった。
こちらは逃げたいのに逃がしてはくれない。全てを明らかにしようとするような、言葉と鋭い視線。
既に醜態をさらした。今さらすこしこぼしても仕方ないと、スカイは破綻した理屈を自分に言い聞かせて放った。
「そりゃ……悔しいに、決まってるじゃないですか」
魔が差した。馴れ合ってしまった。緩んでしまった。どう言葉を尽くしても、やっぱりスカイの気持ちが弱っているとしかいいようがなかった。
「勝算があった! 万が一にも揺るがないと思ってた! アナタに見せてあげられると思ってた!」
彼女は喉元まで出かけた言葉を呑み込んで、白々しく微笑む。
「なーんて、熱い気持ちがあれば良かったんですけどね」
今度のスカイは逃げおおせた。死線を掻い潜った。
けど、彼はそんなことおかいましなしに追い討ちをかけてくる。
「オレは悔しかった。どうしてなんだと怒りで我を忘れそうになった」
彼の言葉から、触れれば溶けてしまいそうな熱量をスカイは感じ取った。
本心を隠した雲さえ蒸発させてしまいそうだと恐ろしくなった。
「だけど、それ以上に嬉しかったんだ」
「どういう、意味ですか?」
聞いてしまった。その熱に恐ろしくなったはずなのに、愚かにも手を伸ばしてしまった。
間違えたと気づいたときには遅かった。
「ターフの上で膝をついて、泣いている君を見た」
それ以上続きを聞きたくなかった。中断させようと思っても不思議なほどに声が出せない。口がやけに乾いて言葉を紡ぐ余裕がなかった。
「掴めない子だと思っていた。三年間の中で、オレの言葉はどれほど届いているのか全く分からなくて、不安で怖かった」
『掴めない子だった』
その言葉が意味するところは、スカイが心血を注いで作り上げたものが過去に投げ捨てられたということ。
先ほどまではまだ縋る希望があった。どうにか出来るのではないかと、という期待だけでスカイは宙に浮けた。
「君も他の子と同じように泣いてしまうほどに悔しくて、勝ちたくてたまらなくて、どこまでも走れると信じているのが分かった」
スカイは自然と呼吸が荒くなる。口が空いたままのせいで、喉も乾いてしまい、肺に取り込む乾いた空気が痛い。
目の前の男に、彼女は殺意すら抱きそうになるほどの嫌悪感を覚える。どうしてここまで執拗に追い立てるのか理解が出来ない。罵詈雑言を浴びせようとしてもやはり、乾いた口では何も紡げない。
「美しかった。泣いている君は美しかったんだ」
「ぁ……?」
やっと、吐き出せた言葉は意味を持った単語にすらならなかった。
「三年間の中で、今日が初めて本当の君に触れられた気がした」
そう言ってトレーナーは、一筋の涙を零した。
本当なら、スカイにとってその涙はこんな場所で見るはずではなかった。今日のために着慣れないスーツを纏った彼だ。よれたネクタイを締めなおして、からかいながら眺めるはずだった彼の嬉し涙。
だというのに、トレーナーが流したのはこの場所だった。敗者であるセイウンスカイを見て零していいものではないと怒りさえ湧く。それは自分に対してなのか、彼に対してなのか彼女自身にもよく分からないものだったが。
「オレは君のトレーナーだ。なのに、時々君のことを全く知らないんじゃないかっていう疑問が湧くほどに君はいつも飄々としていた。そういうものなのだと自分に言い聞かせていた。でも本当の君が知れて良かった。どうしようもなく嬉しかったんだ」
「……本当の私ってなんですか」
スカイは熱にあてられて乾いた舌を必死に動かす。
そうしなければ自分が自分でなくなってしまう気がしたから。
「トレーナーさんがいつも見ているセイちゃんは偽物だって言うことですか? じゃあ、今までトレーナーと私は空っぽな三年間を過ごしていたってことですか?」
スカイにもよく分からなかった。本心を見せていなかったのは自分自身であるはずなのに、彼の言葉がどうしようもなく、否定したくなった。
トレーナーの言葉は間違いない事実だ。本当のセイウンスカイに触れることなく三年間を積み重ねた。だから、自分の言葉のように空虚なものであるはずだ。
だというのに、スカイはそれを認めるのが堪らなく不愉快だった。気づけば、トレーナーのその責任を転嫁している。今の自分こそ晒したくない醜態そのものであるはずなのに、彼女には自分が抑えることが出来なかった。
「ああ、君との三年間は空っぽだった。上辺だけをなぞったような、薄っぺらいものだった」
「そう、ですか……」
スカイには分からなかった。どうして自分は怒りや憤りではなく、悲しみを感じているのか分からない。自分の想定通りだったはずなのに、残念であるという気持ちを拭うことが出来ない。
捉えられないために、掴まらないために宙に浮いたはずなのに、自分で隠したはずなのに、泣きたくなるほどに悲しくなっていた。
――まるで、私の本心を見つけて欲しかったような
ひとかけらでも抱いてしまった思考を必死に捨てる。
スカイは自分自身に言い聞かせる。それが自分が選んだ道なのだと。
「でも、今日の君を見て変わった」
スカイは頭に温もりを感じ、少し体を震わせて上を向く。気づけば、トレーナーは彼女の目の前まで来ていた。更にスカイは自分が俯いていたことにも気づいた。
重力に従って零れ落ちていたものが彼女の頬を伝っていたから。
どうしてなのか、セイウンスカイには分からなかった。でも、トレーナーには見られたくなかった。それだけは分かった。自分の痴態を見られたことでスカイは顔に熱が集まるのを自覚し、トレーナーから逸らそうとした。しかし、彼の手はスカイの両肩を掴んでいて離してはくれなかった。
「自分自身さえも欺くほど君は飄々としていた。オレはそれが怖かった。この三年間の勝利と敗北の中で、君はいつも宙に浮いていた」
スカイにはトレーナーの真意が掴めなかった。前後のつながりがあやふやでぼんやりしている。全てがすり抜けそうなほどに空っぽに思えた。
「宙に浮きすぎた君は、本当に抱いていたはずの勝利への渇望も、走る意味も自分自身が見つけ出せない場所に隠してしまって、レースに懸ける気持ちさえも中身のない上辺だけのものになっているじゃないかと思って、怖かった。でも、オレは今日に至るまで、それを君に聞けないでいた。目を逸らして君は掴めない子だと言い聞かせていた」
まだ、スカイには分からないほどに遠い。しかし、トレーナーの鋭い視線はセイウンスカイの姿をハッキリと捉えていた。逃げられないことが自然に理解できてしまう。
正確には逃げられないのではない。スカイ自身がトレーナーから目が離せないでいた。
「君の涙は本物だった! 雨の音にかき消されたとしても君の慟哭はオレを震わせた! セイウンスカイというウマ娘は、本当は泣いて悔しがるほどに勝ちたくてたまらなくて、どこまでも走れると信じているウマ娘だった! 走る意味も忘れて、勝利への渇望も擦り切れて、揺蕩うように流されながら、勝っても負けても飄々として、ただ惰性で走るウマ娘なんかじゃなかったんだ!」
セイウンスカイは、堪らなく不愉快だった。
その言葉はセイウンスカイの醜悪さを明らかにした。逃げることを許さないような鋭い視線で掴まれた。宙に浮いているはずだったスカイの心はとんでもない熱量で溶かされて、地に落ちた。
泥をすするような不格好な本心をさらけ出された。
「だから、この三年間は空っぽじゃなかった。空っぽなウマ娘と上辺だけをなぞってきたものじゃなかった。空っぽに見えるように宙に浮いて、本心を隠していただけの、本当は誰よりも熱い志を持ったウマ娘と紡いだとても大切でかけがえのない三年間だった」
「な……んっ……ですか、それっ……!」
スカイは熱で叩きつけられた。重力に引かれてもう、宙に浮くことすらできない。本心を隠す術はない。
「セイちゃんは……セイウンスカイはっ……」
スカイは軽口の一つでも叩きたいのに、その言葉さえも満足に言えないほどに、ぐちゃぐちゃだった。
「そう言う……っ……ウマ娘じゃなくて……ゆる、ゆると……てきと……っ……な……」
「ああ、そうだ」
スカイは引力みたいに強引に引き寄せられた。彼女の背中まで伸ばしたトレーナーの腕は、締め付けるようにスカイの体を掴んでいた。
「君は、適当なウマ娘だ。適当に練習して、適当に試合に挑んで、勝っても負けてもゆるゆると受け流す。フワフワしたウマ娘だ」
「そう……です……」
「それは、嘘だ。君は噓つきなだけだ。本心を隠しているだけのウマ娘」
「な……に……」
「君には走りたい理由がある。飄々とした態度の裏にある、どうしようもなく勝利への渇き。胸のうちに秘めたぎらついた野心」
「だから!!」
トレーナーの腕の温もりが、その言葉がスカイの心をかき乱す。
ぐちゃぐちゃで訳も分からないほどに、スカイの許容範囲を超えていた。破裂しそうになるのを抑えるために、必死に否定しようとする。
しかし、トレーナーは決してスカイを離しはしなかった。
「練習をサボると言いながら、必死に自主練をしている君の姿を知っている」
「!?」
「試合前に、必死に震えを抑えながらレースに挑み続ける君の姿を知っている。勝てば、キラキラするくらいに喜んで、負ければ泣いてしまうほど悔しがる君を知っている。オレのために、必死になって今日を走りぬいた君の姿を知っている」
スカイは抵抗する気も失せて、トレーナーのされるがままに身を委ねる。もう、彼女自身も疲れてしまった。こわばった体を包む温もりに体が弛緩してしまう。
「君は適当なんかじゃない。勝敗も気にしないほど、ゆるゆると走っている訳じゃない」
スカイが苦しくなるほどに、締め付けてくる。しかし、どうしてかスカイは嫌ではなかった。
「たとえ君自身が見失ったとしても、絶対に目を離したりしない。今日、ようやくオレが見つけたんだ。君の本心に触れた。本物のセイウンスカイを見つけた。噓だらけになって、本心かどうかの区別さえもつかなくて生きる意味さえ空っぽなセイウンスカイになんてさせない。オレだけは君を離さない」
セイウンスカイは太陽があまり好きではなかった。
木漏れ日の下の昼寝は気持ちがいい。しかし、日の下に出ればたちまちに、自分を焦がすのではないかというくらいに熱いから。
雲一つない快晴では隠しごとなど出来ない。見られたくない場所さえ全て明らかにされてしまう。
でも、この温もりに包まれているとスカイは自分に訪れた気持ちの変化を自覚する。
隠さなくてもいいのは楽だとスカイは思った。
気づいてもらえるだろうかと不安になることもない。誰からも見てもらえずに、ただ揺蕩うだけで終わってしまうことを嘆かなくてもよい。自分自身がどこにいるのか分からなくなることもない。
この太陽の近くにいればすぐに見つけてくれる。それはすごく楽だ。とても心地よい。
「……トレーナーさん」
「どうした」
「もし、私がもう走りたくないって言ったらどうします?」
ニヤリと口を緩めながら、スカイは見上げて言った。
「それは嘘だな。君の眼の奥にあるギラつきをオレは知っているから」
「はあ~~~~」
目を細めながら、吐き出したため息はスカイ自身が驚くほどに大きなものになってしまった。
当然だと、スカイは思う。
もしも話で、あり得ないと断じる人間ほどつまらないものはないだろうから。けれど、それも彼の誠実さからくるものなのだろうかと、スカイは受け止めていた。
「けど、本当に心から君が走りたくないと思う時が来るかもしれない」
改めて言葉にされるとスカイの心にちくりと刺さった。どうして痛みがあったのかスカイ自身にも分からない。
「その時は、オレもレースを辞めて君の側にいようと思う」
「なっ……」
「君はしたたかだから、きっとどこでも生きていけるだろう。でも、それじゃあ君は本当の君自身を簡単に見失ってしまうに違いない。だから、オレが引き留めるよ。本当の君を知っているオレが何度だって君に言おう」
「……」
「掴めない態度の裏に隠した野心溢れる君の瞳は美しいと。本当は誰にも負けないくらい、負けず嫌いで感情豊かな君は美しいと。必死にもがく君は美しいと」
「あー……あー……はい」
太陽は割と好きになった。
でも直射日光は本当に体に悪いとスカイは改めて実感した。
こんなに熱いのは日の光が近すぎるせいだとスカイは思う。眩しすぎて直視できなくて、目を逸らしてしまう。
本当に熱くて苦しくなるほどのエネルギーだ。
だけど、やっぱり楽だった。
「…………今度は、絶対に勝つから」
誰にも聞こえないほどの小さな声でスカイは誓う。自分のために、自分を照らす光のために。
「ああ、期待してる」
「んなぁ!?」
スカイにとって日の下は楽だ。
でも、雲一つないのは流石に嫌だと心の中で思った。見透かされているのは性に合わないから。
「ちょっと、セイちゃんは用事を思い出したので、お先に失礼します」
そう言って、トレーナーの拘束を解き、一目散に出口に向かい扉を開く。
我ながら強引な離脱だとスカイも思うが、こうでもしないと体がもたないとスカイの本能が警告していた。
スカイはとりあえず、どこか開けた場所に行きたかった。もつれそうになる足を必死に整えて、出口に向かう。
道行く人を避けたり、押し退けたり、とにかくなんでもいいから外に行きたい、その一心で走っていると気づけばレース場の外にいた。
雨は止んでいたが、雲が空を覆っていた。
「いやー、いい曇り天気ですなあ」
いい曇りとはなんだと、スカイは自分でも思う。
でも、日が差していない。それだけでスカイはなんだか安心できた。
そう思ったのも束の間で、気づけば曇天に光が差した。空を覆う雲を払い除けて太陽が姿を見せる。
「うーん、太陽はセイちゃんのことがいたくお気に入りみたいですねえ」
日に浴びたくないから、外に出たはずなのに、結局は同じ結果になってしまった。その事実にスカイは少しだけ噴き出してしまう。
「まあ、悪くないけど」
悪くない。雲が溢れている、その片隅に日の光が差している。これぐらいなら悪くないとセイウンスカイは思った。
この光量なら多少眩しくても眺めるには一番適しているだろうから。