私のトレーナーは、鉄面皮と呼ばれるほどに表情を一切顔に出さない。重要なこと以外はほとんど口に出すことがない。
しかし、能力は極めて優秀だった。
私、エアグルーヴが女帝と呼ばれ、トリプルティアラを達成できたのは間違いなくあの男のおかげと言える。本人に言っても何の反応もされないだろうから、言ったことはないが。
そうなのだ。
ヤツはシニア級の12月に至る今日びまで一度も対応が変わったことはない。
私としても対応が変化しない、というのは非常に扱いやすくはある。しかし、だが、やはり、迷いもあることは事実なのだ。
馴れ合っているわけではない。しかし、良好な関係を築けているという自負はある。だが、契約を結んだ当初より反応が変わらない、というのはやはり、トレーナーの私に対する評価が非常に気になる所でもあるのだ。
変わらない、と言うのは会長を見ているようでいささか心が重たい。
ヤツは何を言っても拒否などしない。すぐに適切な練習メニューを寄越してくるし、合宿や遠征先の予約を先んじて行う。全てにおいて恙なく行われていく。しかし、その裏には絶対に労力が割かれている。
それに対する反応が一切見えない。それが私には非常に怖いのだ。
見えない、と言うのは問題がない。と言うわけではなく、もう取り返しがつかなくなった時の初めて、気が付くということだ。つまり、傾向も対策も一切合切を行うことが出来ずに終わってしまう。
私だって、生徒会の運営とレースの両立においてそうなりかけた。そして、トレーナーの返事に頼りきりになってしまった。
ヤツは今後も良好な関係を築いていくに相応しい人材であることには間違いない。私の行く末を照らす杖のようなものだ。
だからこそ。
「私も、少しは話す時間を持つべきなのだろうな」
「あら、エアグルーヴ。今日も考え事かしら。いつも難しい事ばかり考えて大変そうね」
「ファイン……貴様はもう少し、真面目に考えるべきだ」
一人だけだと思っていた寮の自室に、同室者のファインモーションが声をかけて来ていた。
彼女の帰宅さえも気づかないほど熟考していたことを思うと、ファインの言い分にも一理あるのかもしれない。本人には絶対に言わないが。
「あら、私だって一生懸命考えてるよ。今日も豚骨ラーメンの次は塩で締めるか醤油で締めるかいっぱい悩んでたもの」
「食事のことだけではないか!」
思わず、声を荒げてしまった私は、咳ばらいをして仕切りなおす。
「まあ、それはいいとして」
「このお菓子とっても美味しいわね」
「話を聞け!……!?」
全く反省の色が見えなかった、ファインに対して抗議しようと、彼女の方を向くと口の中に何かが入って来た。
甘い。
最初に感じたのはその感想だった。次第に様々な香料が鼻を抜けていく。
紅茶、オレンジ、ストロベリー、アーモンド。様々に変化する香りを確かめているうちにそれは口の中で溶けていった。
「まあ、悪くはないな。これは一体誰から?」
「んー? タキオンがいっぱい配ってくれって」
「!?!? 今すぐ吐けー!!!」
私の怒声は空しく、もう吐き出すことは出来なかった。
俺の担当ウマ娘は女帝と言われているほどに自分に厳しく他人に厳しいウマ娘だ。俺がスカウトしたのではなく、向こうからスカウトされたのだ。いや、どちらかと言うと適当に見繕った。というのが正しかった。
『貴様の戯言には付き合いきれん。私はもうこいつに契約を持ち掛けられたのでな。さっさと諦めろ』
エアグルーヴは選抜レースをきっかけに一人のトレーナーに付きまとわれていた。そのトレーナーは大層エアグルーヴの才覚に惚れこんでいたらしく、何が何でも契約したくてアプローチしていたらしい。
それだけならばなんの問題もなかった。エアグルーヴは無視するだけでよかったのだから。しかし、そのトレーナーはあろうことかエアグルーヴの実力を褒める手段として他のウマ娘達を貶し始めた。
あのウマ娘よりもずっと速い。あの鈍いウマ娘とは断然違う。
もはや、それはトレーナーではなかった。トレーナーの形をした醜悪なナニカだった。彼女もそれにほとほと呆れたらしく、本当に沢山のトレーナーがいる中で、一度も話したことのない俺の手を取って、さっきの言葉を言い放った。
その時に俺はマジで驚いた。メチャクチャに声が出そうになるのを必死で押し殺した。そうしないと全てが台無しになると思った。彼女の尊厳を傷つけるんじゃないかと思ったから。
その後、粘着質のトレーナーが怨嗟をまき散らしながらエアグルーヴの前から姿を消したあと、彼女は俺に声をかけてきた。
『方便に使ってしまい大変すまなかった。私に出来ることがあればなんでもしよう』
なんでもするとか言っちゃダメでしょ! という気持ちを必死に抑えながら俺は返事をした。
『俺も、担当ウマ娘がちょうどいなかった。ついでに契約してくれると嬉しい』
『……ふっ、なんでもなどと言う言葉を軽々しく使うべきではなかったな』
彼女はそう言いながら、薄く微笑んだ。俺たちはその日から契約することになったのだ。
まあ、契約してからは地獄みたいなスケジュールだった。突然、計画にないことを言ってきたり、遠征先の準備をしてくれと前日に言われたときは、マジでビビッて声が出そうになった。でも、そんなのを全部飲み込んでやってきたのは、彼女の声と表情のせいだろう。
『……本当にすまない』
不測の事態で俺に用件を伝える時、彼女はいつも最後にそう言い残していた。
泣いてしまいそうな声だった。消え入りそうな声だった。不安が滲んでいた。拒絶されたらという切なさが浮かんでいた。
だから、俺は思ったことを全部押し殺して、
『わかった』
とだけ告げることしか出来なかったんだ。
年を重ねるごとにエアグルーヴは俺を窺うような声掛けをすることがある。
『最近、どうだ?』
『別に』
『そうか』
冷めきった親子の会話だこれって、大笑いしてしまいそうになるのを俺は必死に堪えて過ごすことが増えるようになってきた。彼女も、たぶん、心配なんだろう。何が心配なのか全然わからないが。
そして、俺にも秘密がある。ずっと言えなくて、言っちゃいけないと思って深くに隠してきた秘密。
たぶん、これを話せば俺とエアグルーヴは二度と元の関係には戻れない確信がある。
しかし、トゥインクル・シリーズもあと僅かだ。秘密を明かすのならば今しかないだろう。
「話す時間を設けないとな」
俺の言葉は大気に霧散していった。
なんだこれは。意味が分からない。
私は深呼吸をして必死に気持ちを押さえる。無であることを意識する。
この状態では、うかつに喋ることもままならん。何を言っても反応してしまいそうだ。
私は誰に頼るか非常に悩んだ。
「会長は……いけない。ブライアンも……無理だな」
となると、後は。そう思った時には私は思いついた人物に連絡をかけていた。
『……どうした、エアグルーヴ』
「トレーナー、今から貴様の部屋に行ってもいいだろうか」
『お゛……別に、構わないが』
「?……助かる。……本当にすまないな」
『別に、気にしなくていい』
ああ、自分自身が情けなくなる。頼ることしか出来ないのかと。私は手を引かれているだけではないか。杖として道しるべとしてしか見ていない。本来であれば私たちは対等だ。しかし、そうでない関係を選んだのは紛れもなく私だ。
「全く……たわけ♡」
弱音の一つや二つ吐いてしまうくらいにこの体の現状は深刻だった。
「エアグルーヴがウチに゛!?」
俺は思わず押さえていた声を荒げてしまった。言われた通り、学園の中にある俺の寮の部屋番号をメッセージで送る。
「たぶん、そういうことじゃないだろうけど」
いつもの彼女の口癖から、深刻な状況であることは窺えた。だからこそ、俺も無理に拒否などはしなかった。それに、今日は俺の秘密も打ち明けられる絶好の奇貨となるかもしれない。突発的なアクシデントを俺はそう解釈することにした。
ぴんぽーん
「い゛!?」
5分ほどでチャイムがなった。距離は遠くないので、すぐに来るだろうとは思っていたが、ここまでとは思っていなかった。
驚かないように、1,2分ほどかけて必死に深呼吸をする。そうして、ガチャリとゆっくりとドアを開けると、そこには女帝の姿があった。
「全く♡ 扉を開けるのが遅いぞ♡ たわけ♡」
「お゛゛!? エ゛ア゛グル゛ー゛ヴッ゛ッ゛!?」
訳が分からなかった。
「つまり、言葉の感度が3000倍になる薬が入ったチョコレートを食べさせられてしまった、と?」
「流石だ♡ 私の杖♡」
「や゛っ゛べ」
思わず、今までばれないようにしていた俺の秘密を隠すように手で口を塞ぐ。
そうするとスマホにメッセージが送られてきた。
『思っていることがすぐに口に出てしまうのだ。しかも、極端な好意的な解釈と悪意的な解釈となって』
「だから、言葉3000倍ってことなのか」
字面だけ見れば面白いことこの上ないが、本人にとっては極めて深刻な問題だった。
「貴様♡ なんだその汚い声は♡ さかっているのか♡」
「い゛!?……そうでは、なくて」
申し開こうとすると、スマホからメッセージがまた送られてきた。
『先ほどからのその言葉は、もしかして貴様も感度を弄られているのか?』
非常に、込み入った事態になっていることを俺は後悔してしまった。
――オホゴエ症候群
それが俺が抱えている持病だった。いわゆる赤面症みたいな極度の対人関係における緊張によって、思いもよらない発言が飛び出てしまうものなのだが、俺は驚いてしまうと全部に濁音がついた発言になってしまうのだ。
小さいときはそれはもうからかわれた。学生時代に好きな子に直接告白した時があった。
『絶頂しながら告白しないで』とこっぴどく拒絶されてしまってから、口数や、表情を徹底して抑えるようになったのだ。
「いや、俺のは生まれついてのものだ」
「たわけ♡」
なんとなく、分かってきた。今のエアグルーヴが言いたいことが。
――どうしてもっと早く相談しなかったのだ
たぶん、そういうことなのだろう。
「君に心配をかけたくなかったから」
「臭いぞ♡ 貴様♡ 洗っているのか♡」
ああ、字面がひどすぎる。だが、俺とエアグルーヴが乗り越えてきた三年間の前にはこの言葉さえも容易に俺には紐解けてしまった。
――たわけ。それぐらいで拒絶するなら、もうとっくにこの関係は終わっている。水臭いぞ。本当にそれ以外に隠していることはないな? 洗いざらい話したのか、貴様は。
「もちろんだ。それよりも、エアグルーヴのその状態の方が深刻じゃないか?」
「声をかけるな下種が。塵芥にも及ばぬ口でしゃべるな。反吐が出る」
「ごめ゛ん゛な゛ざい゛」
突然の手のひら返しに俺の目の前が真っ白になりそうだった。
気づけばスマホの着信音が聞こえる。
『そうではない!……私の方は恐らく一過性のものだろう。もしそうでなくても元凶に責任を持って解決させる。……ただ、貴様の方はこれからも、ずっとそうではないか』
その、文面を見た瞬間にエアグルーヴの方を見ると、視線をよらすようにどこかを見ていた。白く透き通るような彼女の頬や首筋がうっすらと朱色に染まっている。だから、俺は思わず吹き出してしまった。
「ぷっ……ぅ゛ぉ゛」
「何を嗤っているのだ貴様。早くその醜悪な口を閉じろ。……たわけ♡」
ああ、意味が分からない。全く以て謎だ。
俺が抱えていたはずの秘密が、悩みが全部がちっぽけなもののように感じてしまう。
目の前のウマ娘になら本心を明かしてもいいという確信めいたものを抱く。
「俺は、エアグルーヴにトレーナーだと言われたとき、正直嫌だった」
「なんだその態度は♡」
「だって驚きすぎて、俺の秘密がばれたらどうしようと思っていたから」
「言葉が分かりづらいぞ♡ たわけ♡」
「でも、今はそうじゃない。エアグルーヴのトレーナーになれてよかった。だって、俺の秘密なんか眩むくらいに、面白いことになっているから」
「いい加減にしろ。本当に脳みそが入っているのか? 愚鈍ならば黙ることだけを徹底しろ。からかうんじゃないぞ♡ 全く♡」
「う゛お゛」
射貫くような視線ですさまじい罵声ととろけような甘言を囁かれる。あまりの落差に頭がおかしくなりそうだった。しかし、朱色が濃くなる彼女をみるに、拒絶はしていないようで少しだけ胸が軽くなる。
突然、エアグルーヴの視線が落ち着かずに回り出す。すると、覚悟を決めたように俺の方につかつかと歩いていき、首根っこを掴んで言った。
「貴様は私の杖だ♡ 一生離すわけがないだろう♡ たわけ♡」
「う゛お゛。や゛っ゛べ」
その言葉の本心は、俺には読み取れなかった。