決して戻りはしない。
未だ癒えることのない、見えない傷
季節はセミの声がけたたましくなりはじめた燦燦と太陽が照り付けるほどの夏だった。
私は、いつものように7時半ごろには生徒会に赴く。
ドアを開けると目に映ったのは一人のウマ娘であった。隈がひどい。
昨日、私が帰るときも彼女は死に物狂いで仕事をこなしていた。
「おい、貴様何をしている」
「ひぇっ、エアグルーヴさん。すいません、まだ生徒会の仕事が終わってなくて」
「そんなことを聞いているのではない。どうして、貴様は昨日からずっとここにいるのかと聞いているのだ」
「えっ?……でも、仕事が終わらないし」
「この大バカものが! 貴様が一日かけて終わらないということは貴様に見合わぬほどの作業量ということではないか。そんなもの仕事とは言わん」
「す、すいません」
「帰れ」
私は、ひどく冷たい声になっていることを自覚する。しかし、どうあってもそれは止められない。
「え?」
「帰れと言ったんだ。早くしろ」
「わ、私はまだやれます!!!」
「じゃあ、5分で残りのそれらを片付けられるのか」
「それは……」
「話にならん。会長には私が言っておく。昨日からろくに休息も取れていないやつがいたところでただの足でまといにしからならん」
彼女の眼にドンドンと涙が溜まっていく。
正直、その顔を直視するのも私には堪える。鋭くにらみつけると逃げるように、彼女は部屋から出ていった。
「全く、大バカものが」
あの、追い詰められた目は、私に本当に堪える。
ーーーーー⌚ーーーーー
「どうして」
私は今年から生徒会に入った新米だった。だから、仕事も遅い。
みんながバリバリ仕事をこなしているのに、私は4分の1もこなせていなかった。
なんとかして徹夜で追いつこうとしたけれど、結局、半分もこなせていなかった。
朝早くから来たエアグルーヴさんにもひどく叱られた。たぶん、無能を見て腹が立っていたんだろう。
「キミは、確か庶務で今年から生徒会に入った子か。今から生徒会室に向かうのだろうか」
「会長」
校庭を通っていると声をかけられた。
それはトレセン学園生徒会長のシンボリルドルフ先輩だった。
どう事情を説明していいかわからず、右往左往している私に、会長は優しく声をかけてくれる。
「焦らなくてもいい。十人十色。キミのペースでゆっくりと話を聞かせてくれないか?」
その言葉で私の心が安心してしまった。溜まっていたものが全部頬を伝ってあふれ出していく。
「ご、ごめんなさい。私」
「構わない。むしろ、その気持ちを押し殺してはいけない。その気持ちが麻痺してしまうと、人は簡単に壊れてしまうから」
そう言って、会長は私を抱きしめて、落ち着くまで背をさすってくれた。
少し座って話そうかと、促されてベンチにすわる。
「実は、私。昨日の夜も泊まり込みをしたんですけど。終わらなくて、それで、エアグルーヴさんに帰れって言われて。……たぶん、仕事も終わらない私に苛立ってたんだと思います」
あの人は、私の顔を見るなりドンドンと表情を険しくしていたから。
「ふっ……彼女らしいな」
そう言って会長は、口元を抑えながら笑っている。
「どういう、ことですか?」
「彼女は君に対して苛立ちや怒りを覚えていたかもしれない。しかし、過小評価などとは全く異なる因果関係によって生じたものだ」
「???」
会長の言葉は遠すぎて私の中にはあまり入ってこなかった。
「彼女のトレーナーはね、亡くなったんだ。死因は過労だったよ」
「え?」
真剣なまなざしで会長は私に淡々と告げる。
「彼は非常に情に厚く、仕事熱心な人だった。自分のことなんか投げ出して、誰かのためにするぐらいの底抜けのお人よしだった」
知らなかった。エアグルーヴさんにそんな事情があったなんて。
「そんな彼の懐の深さに、最初は男性を毛嫌いしていたエアグルーヴも心を開いていき、固い友情や絆を育むようになった。………しかし、それも突然、終わりが来る」
「……」
「エアグルーヴは、海外遠征も視野に入れながら、生徒会の仕事も並行していた。そんな時に彼女のトレーナーは、生徒会の仕事より練習を優先しろと言った」
「エアグルーヴさんが抜けたら結構な痛手になるのでは」
「ああ、彼女もそれを懸念していた。……しかし、回っていたんだ。奇妙なことにな。誰もかれもが必死になって自分のことをやっていた。だからかもしれない。誰も彼女のトレーナーの顔色が段々と青く、生気が抜けているのに気づけなかった」
「それ、は……」
「彼女の調整が万全というところで、トレセン学園に救急車がやって来た。一人の男性が過労による心臓発作を起こし、運ばれたときにはもう、全てが終わっていた」
知らない。知らなかった。あの人は、今までそんな片鱗少しも見せなかった。
「そうだ。このことは誰も知らないし、見なかったことになっている。他ならぬ彼の遺した言葉だからだ」
「え?」
「彼が作業していたPCの中にエアグルーヴ宛の未送信のメールがあった。それは、彼女が海外遠征から帰ってきた時に送信されるようになっていた。そこには自分の限界を感じた文章ともしなくなっても大事にしないでくれという言葉があった」
「でも、それじゃあ!」
「ああ、私もこれは、由々しき事態だととらえた。抜本的な見直しが必要であり生徒会という業務の見直し・透明化が必要だ、そう思った。しかし、ある人物が拒否した」
「どうして!」
「あのバカの言葉通りにしてくれと、私にそう懇願したんだ。彼女が、エアグルーヴがだ」
「……」
「自分が先導だって、改革をすると彼女は言った。誰も誰かの限界に気づけないような環境を全部とっかえてやると私に食い掛って来たんだ」
そういって、会長は遠くを見つめながら少し微笑んだ。
「彼女は、誰よりも彼を信頼していた。だから、彼女は自分自身が許せないはずだ。張り裂けそうなほどの別離を味わった。でも、彼女は立ち上がった。他の誰でもない彼女のトレーナーのために。彼と同じ轍を踏むものが現れないように」
会長は私の方に視線を戻す。
「彼女は言っていた。バカは周りが見えないから目の周りが曇りやすいと。バカは自分のことを考えられないから、無理という言葉が出てこないと」
「……」
「こんなことを言うのは大変失礼だが、キミは大変な大バカものの気があるようだ。悪いことは言わない、今日の所はひとまず休んだ方がいい。でないと、死んだ方がマシだと思うくらいの激しい叱責を食らうかもしれない」
そう言って、会長は私の頭を何度も撫でる。
「弱さは罪ではない。だが、無知は罪だ。限界を知らないものよりも限界を知り、己を律することが出来るようになることが女帝を宥める近道だと、私は思う」
「あの! 私!」
会長の手を多少強引に払って、私は立ち上がる。
「寝ます!今日はもう何も考えずにバカみたいに寝ます! でも、どうしてもよらないといけないところがあるんです」
「……そうか。キミは本当にバカだな」
会長の言葉を背中で聞きながら私は駆け出していた。会長の言葉もなんだか私には嬉しく思えた。
「あの! エアグルーヴさん!!!」
生徒会室の扉を開けて私は、私を睨んだ人に声をかける。
「なぜ、言葉通りにしない。貴様などいても使い物にならん。帰れ」
彼女は私の方を見ずに、短く告げる。
「帰りません!」
「だから!!!」
彼女は耐えきれなくなったのか、声を荒げている。
だから、今だ。
「私を見て!」
「!?」
「私の眼は曇ってますか!? 私の体は限界でしょうか!?」
ようやく、彼女と目が合った。
そして、なんとなく彼女がずっと目を逸らしていた理由が分かった。
「チッ……そんなことも自分で判断がつかないのか」
彼女は眉が下がっていた。目が少しだけうるんでいた。私を通して何かを想起していた。
「わかりませんでした! だって、私はバカだから!!!」
そうだ。私は、バカだ。
「でも、バカだからエアグルーヴさんに言わなきゃいけないことがあるんです。……エアグルーヴさんも相当なおバカさんですよね!!!」
「なっ!」
「私は、バカですよ? 言われなきゃわかるわけないじゃないですか!無理って言っていいよって言ってもらわないと無理って言っていいのかわかんないです!」
「…………」
「だから、だから……私は、バカだから……エアグルーヴさんに、謝りたくて……本当に、ごめんなさい。ご迷惑をお掛けしました」
「………フッ、愚かものが」
初めて、エアグルーヴさんの笑った顔を見たような気がした。
「あの、エアグルーヴさん」
「なんだ」
「私は、エアグルーヴさんがエアグルーヴさんの担当のトレーナーでよかったと思います」
「何を勝手なことを」
「だって……。その人もバカだったなら私、その人の考え少しわかると思います。トレーナーさんは、エアグルーヴさんのことが大好きだったと思います。
エアグルーヴさんに頑張ってほしいって思ってたと思います。エアグルーヴさんだったから、トレーナーさんは一生懸命だったんだと思います。
だって、エアグルーヴさんはとっても私たちみたいなバカのことをよく見ていてくれたから」
「知ったような……口を……ッッ!」
とても堪えているような、少し触れただけで壊れてしまいそうなくらいエアグルーヴさんがはかなく見えた。
もう、どうしようもなく私も悲しくなってしまう。
「本当に……本当に……ッ!」
「ごめん、なさい。ごめんなさい!……私はバカなので、たぶん、これからも無茶苦茶なことをするかもしれません。だから、その時は教えてください。この大バカものって」
「それ、くらい……っ……自分で考えろっ!……この、大バカものがっ!!!」
彼女は、やっぱり強い人だった。
だって、こんなに限界なのに、絶対に涙はこぼしていないんだから。
「エアグルーヴさん」
「なん……だ」
「エアグルーヴさんにとって、トレーナーさんはどんな人でしたか?」
ただ、私の興味本位だった。
答えてくれないかもしれない。罵られるかもしれない。
でも、聞いてみたかった。
「………………………………いい奴だったよ。私には過ぎたものだった」
「そう、ですか」
「……そして、私を置いて遠くに行ってしまった、大バカものだ」
彼女は私から目を逸らした。でも、窓から差す日の光が彼女の頬をキラキラと照らしていた。
「好き、だったんですか?」
「わからない」
「……」
「だが、ヤツとならどこへだっていける。全てを投げ出せる。そう、思っていた」
わからない。どうして、私の喉はこんなに苦しいんだろう。鼻も痛いし、目も熱い。
「全部、過去の話だ。終わったことだ」
エアグルーヴさんではないのに、動悸がする。
「人は忘れる。ウマ娘も同様だ。忘却が救いで、次に進むための手段だ。
だというのに、私はいつまでもしがみついている。いつかを、もしもを期待してその場から動けないでいる。
ああ、本当に、泣きたくなるくらい、私は……大バカものだ」
そう言って涙をこぼしながら笑うエアグルーヴさんは、泣いてしまうぐらい美しくて、キレイだった。