妄想投棄場   作:妄想投棄場

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泡沫に沈む白い太陽

 沖縄は夏だった。

 石垣もなく吹きすさぶような風が体を吹き抜ける。

 寄せては返す波の音に、時間さえも遠くに流されていってしまいそうな錯覚に陥る。

 吸い付いてくるが纏わりつくことはない砂の感触が心地よい。

 押し寄せた波が足に触れる。驚くほど冷たい。しかし、燦燦と照らす陽に熱された体にはひどく心地よかった。

 

「トレーナーさん! こっちまで来てください!」

 

 どこまでも色褪せないような透き通った声は俺に語り掛けていた。

 ワンピースが濡れないように裾をつまんでいる芦毛のウマ娘。俺の担当ウマ娘であるメジロマックイーンだった。

 揺蕩う波から見える彼女の白い足は、浮かんでは消える泡沫のような儚ささえ感じる。

 掴まなければ、どこか遠くへ行ってしまいそうな気がして手を伸ばそうとした。

 したはずだった。

 

「ト、トレーナーさん!」

 

 波に足を掴まれ、俺は海に身を投げ出してしまった。

 潮が目に沁みる。視界に映る景色に一点の濁りもなく、顔に押し付けられた砂は優しく頬を撫でる。

 白い光が差す。

 心地よいそれを掴もうと手を伸ばすと、俺の体は引き寄せられた。

 

「もう、駆け出さないでくださいまし!」

 

 すぐに消えてしまう泡沫だと思っていた。けれど、手を伸ばせば確かにそれはあった。遠くへなど行くことはなかった。

 その事実が泣きたくなるほど嬉しかったんだ。

 

「ふふ、海水が目に染みたのですね」

「あっ」

 

 マックイーンが口元を抑えて微笑んでいる。

 頬に何かが伝う感覚があり、慌てて目元を拭った。

 太陽が眩しかったんだ、とか、目にゴミが入ったんだなんて言い訳が頭に浮かんだ。

 しかし、そんなもの意味がなかった。

  

「今日はとってもいいお天気ですわね」

 

 考えていた言葉が全部が流された。溺れて、呑まれてしまった。

 燦燦と降り注ぐ陽の光よりも、暖かく柔らかい白い光にどうしようもなく見惚れていたんだ。

 陽に晒さらされた脳は燃えるほどに湯だっている。すさまじい勢いで全身の血液が循環していき、破裂しそうなほど鼓動が高鳴る。

 張り裂けそうなほど胸が痛い。

 たぶん、この痛みは夏の陽のせいだ。

 

 

 俺は、胸を抑えながら必死に自分にそう言い聞かせていた。

 

 

 

 

 

 

「沖縄、というのははじめて来たのですが、とても自然豊かな場所ですわね」

「離島を巡っているって言うのもあるけどな」

 

 水牛が引く荷台に揺られながら、俺たちはそんな他愛のない話をしていた。

 牛車の乗り心地はあまり良いとは言えない。しかし、水牛のゆっくりとした足取りは穏やかな時の流れを踏みしめているようで、悪くはなかった。

 

「眠くなるぐらいに時の流れがゆっくりだ」

「コンマ一秒が勝敗を決める場所で競っている私たちのいる場所とは全く違いますわ。それこそ住む世界が違うと言ったところなのでしょうね」

 

 口から漏れ出た吐息をかみ殺す。視線だけずらしてマックイーンの顔色をうかがう

 彼女は少しだけ遠い目をしていた。

 その横顔を見るだけで俺はまた胸が締め付けられる。どこか遠くに行ってしまうんじゃないかという感覚に再び襲われた。それが怖くてまた手を伸ばそうとした。

 

「だからこそです」

 

 その声で伸ばした手が止まる。

 

「私、この場所で過ごす時間は最高のものになるんじゃないかしらってすごくワクワクしていますわ」

 

 マックイーンは目を輝かせながら、俺にそう言ってきた。

 その笑顔につられて俺も微笑んでしまう。

 突発ではあるが本当に今回の沖縄旅行を計画してよかったと心からオレは思った。

 

 きっかけは些細なことだった。

 

『トレーナーさん、次のメニューをお願いしますわ』

『分かった』

 

 いつも通りの俺とマックイーンの練習風景。

 やることはいつも通りでしかない。

 

 常人であれば努力で100%の内、70%は引き出せる。しかし、それ以上になると、70%を引き出す努力よりも遥かな努力と、才能が必要になる。

 マックイーンは才能の持ち主だった。決して最短で結果を導き出せるのではない。導く答えに至るまで試行し続ける。言い換えるならば努力し続ける才能。

 

 だからこそダメだったのだ。

 

『大変申し訳ありませんわ。トレーナーさん』

 

 いつも通りを続けていた俺たちに訪れたのは残酷な結果だった。

 自分の担当ウマ娘が転倒した。ただ、それだけ。

 周りにいたウマ娘達に助けを求めて、保健室まで運んだマックイーンは軽い捻挫程度で済んだ。けれど、俺は全てが崩れたような気がしていた。

 

『すまない』

 

 肺から空気が抜ける。やっとのことで絞り出したのは4文字だけだった。

 手を伸ばそうとした。でも出すことが出来なかった。

 

 目の前の光景を信じることが出来ずに、茫然と立ち尽くすことしか出来なかった。

 

『謝るのは私の方ですわ。……次は上手くやりますので』

 

 その目に宿っていたのは不安や恐怖などではなく、後悔だった。

 間違えてしまったことへの後悔。

 次は絶対に間違えないように、という覚悟に染まった瞳であった。

 

 震えてしまうぐらいに薄ら寒いものを感じた。俺たちの関係の不安定さを再確認する。

 このままではダメだ。本能的に理解したたった一つの事実。

 

 俺たちはどこまでも突き抜けてしまうことが出来た。いや、出来てしまっていた。

 寿命を消費し、レースでの勝利というたった一つの目的のためにあらゆる可能性を手繰り寄せる。可能性に囚われ、息も出来ないほどに拘束される。気付かなければよかった。気づきたくはなかった。

 たった一つの真実。

 

 どうして、走っていたのか。

 どうして、練習を続けていたのか。

 どうして、命を投げ出す覚悟を決めていたのか。 

 どうして、手を伸ばさなかったのか。

 

 ぐるぐると俺の中に疑念が渦巻いて、さらわれる。

 狂気に溺れてしまいそうになった中でわずかに見えた正気の光。

 

 だからこそ、全てが俺には恐ろしくなった。

 

 気づけば、逃げていた。

 どこにも縛られることのない、走ることの意味さえも忘れてしまうほどの穏やかな時の中で。

 

『これは、どういうことなんでしょうか』

 

 あんなに険しい表情をしたマックイーンの顔は初めてだった。

 どうして練習をしないのか。その瞳は言外にそう伝えていた。

 

『トレセン学園から逃げ出したくなった』

『何をおっしゃっているんですか』

 

 これはエゴだ。

 手を伸ばせなかった俺にぶつける苛立ちだ。

 踏みとどまることさえ知らなかった愚か者が消えてしまうかもしれない恐怖に怯えた逃避だった。

 

――どうせなら、嫌われたまま拒絶されたほうがマシだ。

 

『……掴んでないと、どこかに消えていってしまいそうだったから』

 

 眉をしかめて、口を真一文字に結ぶ。表情を察せられないように、頬杖をついて、横目でマックイーンの表情を窺った。

 

『ぷっ』

『何がおかしいんだ』

 

 拒否されると思った。怒気がこもった恨みを投げかけられるとおもった。

 でも、それは俺の思い込みだった。

 そこにいたのは口元を抑えて笑うマックイーンの姿だった。

 

『何でそんなに泣きそうな声で仰るんですか』

 

 涙を拭いながら彼女は俺に近づいてきた。

 

『私はここにいますよ』

 

 彼女の指が俺の目じりを拭う。

 

 

『あなたにそんな顔をさせてしまうほど、私も何か得体の知れないものに駆られていたのでしょうね』

 

 

 

 穏やかな笑顔だった。今までの険が取れていくように、表情が緩む。

 それは嬉しそうで、寂しそうで、切なそうで、恥ずかしそうで涙があふれて止まらないぐらい、美しかったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

「トレーナーさん!」

 

 水牛の荷車から降りて、干潟で出来た島を巡る。

 俺とマックイーンはこの泡沫の端が見たくて、どこまでも歩いていく。

 衝動が抑えきれなくなったマックイーンが思わず駆け出していた。

 

 光の加減でアメジストのように輝く芦毛の髪がたなびく。白いワンピースがはらりと揺れる。

 燦燦と輝く陽の光が彼女をより輝かせる。

 

「きゃっ」

 

 波を運ぶひと際大きな風が俺たちの間を通りぬけた。

 マックイーンの耳を覆うほどの大きな麦わら帽子が風に煽られてふわりと舞い上がった。

 高く上がった麦わら帽子は左右に揺れて、揺蕩うように落下していく。

 

 軌道は大きく乱れ後を追うことさえ難しい。

 けれど、駆け出していた。

 

 理由なんて考えもしなかった。脳裏に浮かぶのは一つだけだった。

 

――今度こそ掴まないと、どこかに消えていってしまいそうだ。

 

 サンダルに入る土砂が気持ち悪い。走るにはぬかるみが強すぎる。

 でも、関係なかった。精一杯に腕を伸ばす。しっかりと掌を開く。

 

 麦わら帽子の揺らぎがやわらいだ。

 かろうじて導き出せる放物線が描いた落下地点は恐らく、海の上だった。

 

「うあああああああああああ」

 

 年甲斐もなく叫んだ。震える自分を鼓舞した。

 波に足を掴まれながら、俺は海に身を投げ出していた。

 

 

 

――今度はちゃんと掴めたんだ。

 

 

 沈みゆく意識と体。

 そんな中で、手放さなかった。俺はそれだけでよかった。

 

 肺に空気はない。浮かぶものがない。ただ、質量に任せて沈んでいく。

 

 水面から差す陽の光が幾重にも反射して綺麗だった。

 泣いてしまうほど素晴らしかった。

 

 片手で帽子を抱きしめて、もう片方を上に突き上げる。

 掴みたかったけど、掴めなかったものを手にしようとした。

 

 結局、それは叶わず俺の意識は沈んでゆく。この意識さえも陽光は優しく照らしてくれる。

 穏やかな波間に身を任せようと思うと、可笑しなことが起こった。

 真っ白な太陽が向こうから近づいてきたんだ。

 

 すさまじい推進力で海面に上がる。

 

「まったく」

 

 冷たくなる心に息吹を注ぎ、火を灯す。

 

「しょうがない人ですこと」

 

 俺を掴んだ白い太陽は、どうしようもなく、美しかった。俺を抱いた腕は、苦しくなるほどに力強かった。

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