【完結】サトリな僕とTSな君   作:虫野律

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10話と11話は連続投稿です。


心を開いて②

 話があるんだ。

 そう言って呼び出すまでもなく、空は僕のアパートにやって来た。小綺麗な内装と財布に優しくないお値段で他店との差別化をしているスーパーのロゴの入ったビニール袋を持っている。

 15時を過ぎたばかりで、まだまだ明るいし暑い。

 

「今日はアジにした。安かったんだ」この夏休み、空は通い妻よろしく僕のアパートに入り浸っていた。

 

 値段で選ぶならば質よりも量と安さを優先させている他店にしたらいいのに、と思わなくはないけれど、育ちがいいゆえのこだわりだろうか。

 

 という思考は表情に出さずに、「いつもありがとう」と彼女からビニール袋を受け取る。

 

 空は人気のスポーツブランドのスニーカーを脱ぎ、部屋に入る。一方、僕は食材を仕舞うために冷蔵庫を開ける。

 

 妖怪であることを伝えると、この緩すぎる日常が終わってしまうかもしれない。

 そう思うと、珍しく精神が不安定になる。けれど、真実を知り、空の不安を解消するには必要なことだ。

 

「涼しいー」いつの間にか冷房の前に陣取り、顔に風を浴びていた。「狭いとよく冷えるぜ」

 

 思ったことを配慮という名のフィルターを通さずに口から発しているだけで、嫌味ではない。空はこういう人だ。

 

「狭くて悪かったね」

 

 不機嫌ではない。ひねくれた性格という名のフィルターを通すと、自然とこうなるのだ。

 

「怒んなって」と空は笑った。

 

 

 

 

 

 

「やっぱりそうだったのか!」空は、アニメのように分かりやすく手を打った。

 

 実は妖怪なんだよね、僕。それで心を読めるんだ。

 僕のカミングアウトを聞いた空が抱いた感情は、疑いでも拒絶でも驚愕でもなく納得であった。

 

「おかしいと思ってたんだ」彼女の舌が活発になる。「性別が変わったことに気づいたのも、配球がえげつないのも、エッチがやたらと巧いのも、要領を得ない私の話をすぐに理解できるのも、すべて心が読めるからだったんだな」なるほどなぁ、と顎に指を当て、すりすり。

 

「『じゃあ、今、私が考えてることを当ててみろよ』とか言わないんだね」

 

「じゃあ、今、私が考えてることを当ててみろよ」

 

「〈隣の客はよく柿食う客だ〉〈子どもは3人〉〈最近、料理が好きになってきた〉かな」

 

 うっは、と空は愉快そうに息を吐き出した。「すっげー。完璧じゃん」

 

 軽いなぁ、と眺める。すると、彼女の頬が染まりはじめた。

 

(私のすべてを知って、そのうえで……愛してくれてんだよな)

 

「まぁそうだね」

 

 空が笑う。「ちょっと、いやかなり恥ずかしいけど、会話めちゃくちゃ楽(とりあえずくっつきたい)」

 

「いいよ、おいで」

 

「おおう、すげーなほんと」

 

 いつもどおり。いつもどおり空を抱きしめた。

 

 

 

 

 

 

 読心能力がその性能を最大限に発揮するには、対象者の同意が要る。つまり、心の最奥(さいおう)まで読まれることを空に受け入れてもらうことにより、彼女が忘れている記憶や認識していない感情まで知ることができる。

 だから、わざわざ妖怪であることを打ち明けた。

 

「要するに、水季に対して心を開けばいいんだな?」空は、ベッドの端に座る僕の太ももを枕にして仰向けに寝そべっている。

 

「簡単に言うとそうなるね」

 

「いいぞ」好きなだけ私の中を見てくれ、と事も無げに言った。

 

「分かった。じゃあ、始めるよ」

 

 瞳を閉じて、意識を集中する。僕の妖力が空を包み込み、中に入ってゆく。

 (まぶた)を上げると、澄み渡る空が眼前に広がっていた。僕は青空に浮いている。自由に飛べるようだ。

 ぐるりと見回す。光が(きら)めいた。近づくと、空に浮遊するルビーらしき赤い宝石であった。触れる──次の瞬間、僕らがキャッチボールをした河原に倒れている銀髪の少女の映像が見えた。〈え?〉と驚く少年の声。少女に走り寄る。声や身体から判断するに、これは(たまき)という少年の記憶だろう。

 映像が終わり、振り返る。知らぬ間に幾つもの宝石が出現していた。エメラルド、ダイヤモンド、サファイア、琥珀など──様々な色が青すぎる空を華やかにしている。これらが空の記憶か、と僕は蒼穹(そうきゅう)を駆ける。

 

(しずく)……、と名を告げる銀の少女〉〈淋しがり屋でコミュニケーションが苦手な雫さん〉〈雫さんと仲良くなる環君〉〈妖怪である雫さんを受け入れる環君〉〈遊びに行く約束〉〈友だち〉〈雫さんの父親の命日〉〈雫さんの母親の命日〉〈男に突き飛ばされる空〉〈空に包丁を向ける男〉〈空を助け、刺されてしまう環君〉

 

 宝石に触れるたびに、空の、環君の記憶が僕の脳に刻み込まれ、それを繰り返し、そして、忽然と見慣れた部屋にいた。

 

「はふぅ……」空が艶かしい息を洩らした。(何これヤバい)

 

「終わったよ」

 

「終わらないで」もっとして、と瞳が潤んでいる。

 

 そう言われても妖力の残量が心許ないから、「また今度ね」と猫にするように空の顎を(くすぐ)る。

 

「絶対だぞ」と僕の手を捕まえた。

 

「約束するよ」

 

 空は長い脚をすり合わせた。

 

 

 

 

 

 

 少しばかり頭を働かせて、空に起こったことを推測してみた。

 まず、大前提として神様を名乗る大きな蝿も性別が変わったという事実も存在しないのではないだろうか。思うに、雫さんが、死んでしまった環君の記憶を空の中に入れただけのような気がする。その際に、意図的か否かは分からないけれど、〈空という名前の男子高校生が大きな蝿に性別を変えられ、加えて、周りの人間の認識も改ざんされた〉というふうに記憶──認識の変更が為された、あるいは不可抗力的にそうなってしまった。

 つまり、〈空は元々女の子で、ただ単に環君の記憶の一部を持っているだけ〉ということだ。

 

 この、名推理と言うには論理性の足りない、探偵から怒られそうな憶測を空に説明した。

 

 すると、空は眉間に皺を寄せ、目と口を閉ざした。しばらくして、「全部思い出した!」と閃光のように発した。身を起こし、僕に正面を向けるようにしてベッドの上で胡座をかく。「(おれ)は妖怪の雫と友だちで、(わたし)は野球が好きな普通の高校生だった。紙谷(かみや)って人に刺された記憶もあるし──」そして、目を合わせたまま、「多分、水季の言うとおりだ。やるじゃねぇか」と口角を吊り上げた。

 

「……」

 

 空は強いな、と思う。こんな異常な事実を突きつけられても、目を逸らそうとしていない。不満を抱くことも怒りを覚えることもなく、不器用な少女の心配をしている。だけに留まらず、自分を殺そうとした人間を憐れんでさえいる。

 

「なんだよ」こそばゆそうに言った空が愛おしい。

 

「僕の彼女になってくれてありがとう」

 

「……」僕の言葉は想定外だったらしく、無言になる。しかし、すぐに、「ずっと大切にしろよ」と柔らかい笑みを見せた。

 

 うん、そうするよ、と頷く。

 

「……」なんだか気恥ずかしい。それを誤魔化すために、「ところで、記憶はこのままで大丈夫?」と平静な声音で訊ねた。雫さんに環君の記憶を消してもらいたいか? という意味だ。完全に元どおり──普通の女の子になれるかは分からないけど、それに近い状態でいいならば可能なはず。

 

「記憶はこのままがいい」空は答えた。続けて言う。「でも、雫に会いに行こうとは思ってる。あいつが心配だし、謝らないといけないこともあるし」 

 

 空の心には、晴朗(せいろう)な春を思わせる親愛の情がある。

 空の心が僕から離れてしまうのではないか、と少しだけ不安を覚える。

 

 空がニヤニヤし出した。「心配すんなって。今はもう、雫に対して恋愛感情はねぇから」

 

 たしかに、空には、自覚できるほど明確な恋愛感情はないけれど、その残り香のようなものはある。

 

 こちらだけが不安になるのは不公平なので、僕も情報を開示する。「実は、雫さんとは親戚なんだ」

 

「は? うそ……」目をぱちぱちとさせる。それが、鯉が口をパクパクさせる様と重なり、笑ってしまう。

 

「結構仲良かったんだ」1度しか会ったことないけど。「可愛いよね、雫さん」空のほうが可愛いけど。

 

「同窓会で女漁りをする男みたいなことを考えてるんじゃないよな?」空の脳裏では、〈浮気〉の2文字が赤色に明滅している。

 

「心配しないでよ。今はもう、雫さんに対して恋愛感情はないから」

 

「うぜぇ」

 

「ごめんごめん。雫さんが環君の好きだった人だと思うと不安でさ」

 

 一拍の後、空は表情を弛め、「へー、そうかそうか……」とベッドから床に降り、立ち上がった。「悪かったよ。でも、もう水季以外はあり得ないから」心を読めるなら分かるだろ? と膝に手を当てて前屈みになり、僕の目を覗き込む。

 

「それだけ空を愛してるってことだよ」

 

 空の瞳に僕が映っている。彼女は、「かわいい奴め」と桜色に笑い、「ご飯作る」と腰を伸ばした。

 

「なんか手伝えることってある?」

 

「ないな」即答された。「台所狭いし、水季役に立たないし、普通に邪魔」

 

「じゃあ、おとなしくテレビでも観てるよ」

 

「おう、そうしてくれ」(これは、所謂、半同棲──いや、事実婚? この調子で行けば数年後には……)

 

「楽しそうだね」

 

「ああ、最高に楽しい」

 

 僕も楽しいよ。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 銀の髪が嫌いだ。

 物心ついたころには、そんなふうに思っていた。

 お母さんもお父さんも他の大人もみんな、黒とか茶とかなのに、私だけが生まれつきこの色だったのだ。どうして私だけ仲間外れなのか、と幼心にも理不尽さを感じていた。

 5歳くらいの時だったか、親戚のおじさんの葬式に連れていかれたことがあった。

 行きたくない、と駄々をこねたのをよく憶えている。

 私は他者が苦手だ。怖いとも言い換えられる。理由を訊かれても、生理的に、としか答えられない。誰もが納得できる明快で具体的な原因は一切ないけれど、とにかく苦手なのだ。

 だから、知らない妖怪がたくさん来る葬式には行きたくなかった。

 しかし、お母さんとお父さんは私を(なだ)めすかし、車に乗せ、秋水(しゅうすい)さんの家へ向かった。

 案の定、秋水さんの家は辛い空間だった。何人いただろうか、多くの妖怪と少しの人間がいて、秋水さんは人気者なんだなぁ、と私はぼんやりと考え、すぐに庭に避難した。

 庭は、ある種の異界のようだった──家の中から漂ってくる気配と誰もいない庭のコントラストが不思議な風情を醸し出している。

 いくらか安心できた私は、木の下で蟻を数えることにした。

 83匹を数えたところで事件が起きた。男の子が話しかけてきたのだ。愛着が湧きはじめていた蟻のことは一瞬で頭からなくなり、ほとんど無意識に木の陰に逃げ込む。

 しかし、その男の子──水季君は続けて言葉を寄越してきた。ガクガクと震え、なんで私に構うんだよ、と嘆いていたのだけど、彼も暇だったらしく、どこかに行く素振りは見せない。

 彼の話しぶりは静かで、口数も多くはない。強引に腕を掴まれるということもなく、だからだろう、少しずつ慣れていくことができた。

 そうして、私も声を出した。髪の色やテレビの話をして、川の近くでバッタを捕まえ、ゲームで対戦し、大人たちがもう帰りたいと言うまでの時間を潰した。

 友だちがいたらこういう感じなのかな。そんなことを考えていた。

 

 私は(さとり)と呼ばれる妖怪で、通常ならば遅くとも10代後半には〈他者の心を読む異能〉に目覚めるはずだった。しかし、15歳の私が覚醒したのは〈他者の記憶を操作する異能〉だった。それはつまり、私が突然変異であるということだ。おそらくは銀髪もそれが原因だろう。

 ただ単に記憶を操作できるだけならばそう問題はないのだけれど、この異能には副作用があった。

 それは食性の変化。

 それまでの私は、多くの妖怪や人間と同じような食事で生存に必要な栄養を摂取することができた。

 でも、覚醒後は違った。好きだったハンバーグもグレープフルーツジュースも舌と胃が受け付けなくなっていた。不味いのは当然として、無理矢理飲み込んでも吐いてしまうのだ。

 何を食べるべきかは本能で理解していた──人間の記憶だ。

 人間の記憶を食べると、間違いなく退魔師に追われることになる。彼らは寛容ではあるが、怠惰でも無能でもない。考えなしに食い散らかしていたらすぐに捕まってしまうだろう。

 私は生まれ故郷──両親はすでに亡くなっていた──を出て、人目を避けるようにいろいろな場所を転々とする生活を始めた。

 元々、両親を除き、他者との直接的な交流はなかったので、1人で生きていくことに抵抗は覚えなかった。人々の記憶に残らない状態になれるため、ぬらりひょんに近いこともできるし、不自由は少ない。

 

 ある日、退魔師に見つかってしまった。異能の効きが悪い人間がいたようで、その人間の目撃情報を基に占い系の術を使い、居場所を特定したそうだ。

 仕方ない、とその退魔師の記憶を操作しようとしたら、見たことのない術で防御されてしまった。もう1度試しても、何度やっても結果は同じ──負けるかもしれない、と心にさざ波が立つ。

 けれど、記憶操作なしでも私は弱くはないらしく、妖力をほとんど消耗(しょうこう)し、かつ傷を負ってしまったものの、自分のことを天才陰陽師だと臆面もなく言っていたその女性退魔師から逃れることができた。彼女の気配を感じなくなってからも全力で駆け、気がつけばどことも分からない河原にいた。

 そこで私は意識を失った。体力の限界だったのだ。

 

〈……い! ……ぶか!〉誰かの声が聞こえ、濁った水に沈んでいた自我が水面へと浮上していく。

〈ぅうん〉と喘ぐように息を吐きながら瞼を上げると、同じくらいの年の男の子と目が合った。短髪の、気の強そうな子だ。

 急速に思考がクリアになっていき、それに伴い、恐怖も膨らんでいく。

 逃げよう。そう思い、起き上がろうとして、しかし身体に力が入らない。

〈おい! 動くな。今、救急車を──〉と彼──環君が言うや否や、〈やめて!〉と私は発した。〈救急車はやめて。私に構わないで〉本心からそう続けた。

 赤の他人に触られるのも会話をするのも苦痛でしかない。早く環君から離れたかった。

 けれど、それは叶わなかった。他人とのコミュニケーションによる精神的なストレスと退魔師との戦闘による肉体的な疲労が原因で舌がいつも以上に回らない中、頑張って交渉し、救急車を呼ばれることだけは阻止することができたが、しかし、それだけだった。〈わりぃけど〉と環君は私を背負い、歩き出したのだ。

 熱っぽい背中と汗の匂い。

 もしも身体を動かせたならば取り乱していただろう。逃げ出していただろう。しかし、幸か不幸かそれはできなかった。

 私の世界は再び黒く塗りつぶされる。

 

 次に目覚めた時、私はベッドにいた。顔を横に向けると、野球選手のポスターや金色のトロフィ、茶色のグローブなどがある6畳ほどの洋室だと理解できた。

 この時、私の精神は衰弱を極めていた。

〈ぅ……ぅ……〉意思に反して涙が溢れ、止めることができない。

 元々、私は精神的に強い妖怪ではない。妖力こそ退魔師が顔を引きつらせるくらいはあるらしいが、精神力は人間の子どもと同じか、もしかしたらもっと弱い可能性もある。

 どうしてこんなに辛い目に遭わないといけないの。なんで他者が怖いの。普通の覚に生まれたかった……。

 考えないようにしていた不平不満が心を圧迫していく。

 ドアが開く音がして、環君が現れた。すぐに私の状態に気づき、〈あー、うん。よく分かんねぇけど、とりあえずなんか飲むか?〉と視線をずらす。

 何も言えなかった。

 

 身体が動くようになるまで、私は環君の家──父子家庭であり、かつ父親が出張中で、実質的に1人暮らし状態だったようだ──で過ごすことになった。初めは苦痛でしかなかったけれど、次第にぎこちないながらも会話ができるようになっていった。

 ただし、大きな問題があった。普通の食事を一切摂らないのに回復していく理由を説明しないわけにはいかなかったのだ。

〈ヨウカイ? ヨウカイってあの妖怪?〉と環君は驚いていた。けれど、私の予想よりは落ち着いていた。

〈そう〉と肯定すると、環君はまた質問する。〈なんの妖怪なんだ?〉

〈覚……〉答えると、〈へー、すげぇな〉と彼は他意のない様子で言った。

 ふと、心に切なさを感じた。そして、自然と言葉が溢れてゆく。

 突然変異であること。数週間に1回、人間の記憶を食べる必要があること。退魔師という怖い人間に追われていること。家族がいないこと。他者が怖いこと。

 いろいろなことを話した。ここに至ってようやく自覚した。私は誰かに受け入れてほしかったのだ。

 他者が怖いから1人でいるのが1番いいと思っていたが、間違っていた。孤独も同じくらい怖い。我ながら難儀な性格をしている、と溜め息が出る。

 でも、〈めんどくせぇ奴だな〉と環君が笑ったのを見て、少しだけ自分を好きになれそうな気がした。

 

 元気になったころ、〈週末、遊びに行こうぜ〉と誘われた。

 その翌日の夕間暮(ゆうまぐ)れ、1キロほど離れた位置にいる環君の霊力が凄い速さで減少していくのを感知した。胸騒ぎに従い、環君の家──まだ居候していた──を飛び出し、彼の下へ向かう。

 住宅街の小さなT字路には2人の人間がいた。1人は環君。血溜まりに眠っている。もう1人はスタイルのいい少女。彼女も硬いアスファルトに横たわっている。

 環君に駆け寄り、抱きおこし、〈……っ〉と息を呑んだ。胸部を中心に滅多刺しにされていたのだ。解剖学の知識のない私でも、彼の肉体はもう取り返しのつかないくらい壊されていると分かってしまった。

 環君を異性として意識していたわけではないと自分では思っていたけれど、それを目の当たりにした時、頭が真っ白になり、とにかく彼を生き返らせなければならないという合理性の欠片もない考えに取り憑かれた。

 でもどうやって……、と夕空を見上げる。すると、天啓のようにある考えが脳裏に生まれた。

 ──環君のすべての記憶を他の人間に移せば、蘇生や転生をしたのと同じではないか。

 時間が経って冷静になった今ならばまったくの別物であると分かるが、この時の私には天才的な閃きに思えた。

 すぐに行動に移す。死体に異能を使った経験はなかったけれど、なんとか記憶の一部を取り出すことができた。次いで、近くで気を失っている少女に植え付ける。迷いなんて微塵もなかった。

 その際、少女と環君の記憶と認識に大きな乱れが発生した。焦りつつも、バラバラになり、変質してしまった記憶と認識を繋ぎ合わせ、整合性が取れるように無理矢理に調整。間一髪で人格の崩壊を回避することができた。

 そして、少女──春夏秋冬 空(ひととせ そら)さんの身体を背負い、近くにある総合病院へと駆け出した。

 

 春夏秋冬さんの中に、私に関する記憶は残されていない。つまり、私は赤の他人ということだ。

 また仲良くなりたいという気持ちはあったものの、後から湧いてきた罪悪感が彼女に近づくのを躊躇わせた。そうして数日が経過し、自分のしたことを正しく認識する。都合のいい妄想を続ける強さは、私にはなかったのだ。

 環君の記憶や人格が混ざろうが、春夏秋冬さんは本質的には春夏秋冬さんのままだ──環君は蘇生も転生もしていない。

 私のしたことに意味なんかなかった。

 春夏秋冬さんの中から環君の記憶を消そうとも考えた。しかし、尋常ではない負荷を掛けられた彼女の心は、奇跡的なバランスで正常を保っている。これ以上の記憶の操作は精神崩壊に繋がるリスクがある。結局、何もできなかった。

 私は、少し前の私に戻ることにした。1人で日本全国を旅し、たまに食事をする。会話をせず、退魔師に見つからないようにコソコソと生きる。

 悲しいし、淋しい。けれど、環君に代わる新しい友だちを作ろうという気にはなれない。それに、そう簡単にできるとも思えない。

 だから、仕方ない、と諦めた。孤独を受け入れるしかない。

 そして、私は環君のいた町を後にした。

 

 およそ3ヶ月の後、環君のお墓を訪れた。

 季節外れのお墓参りだったからか墓地には誰もおらず、田舎ということもあって気が緩んでしまい、そのせいで墓地の近くにある遊園地の廃虚──入口には〈ゴーストパラダイス〉とあった──の辺りで鳥型の式神に見つかってしまった。

 直ちに破壊したけれど、情報は術者に伝わったはずだ。失敗した、と溜め息をつき、しばらくは西日本にでもいようか、と移動を開始する。

 

 

 

 

 

 

 8月23日はお母さんの命日だ。この日は、毎年お墓参りをしている。

 お母さんが亡くなってから、もう6年も経つが、私の心にある彼女の記憶は変わらず鮮明なままだ。昔から記憶力はいい。もしかしたら突然変異であること──記憶操作の異能と関係があるのかもしれない。

 

(こと)家之墓〉という字の彫られた黒い墓の前に私はいる。墓地には私、独りだ。

 雨は降っていないが、晴れてもいない。どんよりとした鉛色の雲が暑さを抑えているので過ごしやすい。

 

「……」墓石を這い回る蟻を眺めていると、ふと気づいた。お墓参りでしか故郷に帰っていない。「……別にいいか」それくらいしか帰る理由がないのだから問題もないということにも、すぐに気づいた。

 

 風が吹き、長い銀髪がなびく。お母さんが好きだと言っていたから長いままにしているけれど、やっぱり切ってしまおうか、と最近は思いはじめている。

 

「ん……?」遠くに3つの気配を感じ、声を洩らした。

 

 知っている妖力と霊力──水季君と春夏秋冬さんに、知らない霊力が1つ。それなりのスピードで近づいてきているから、車だろう。つまり、知らない霊力は運転している人間のものだと思われる。

 彼らの移動が墓地の入口の辺りで止まる。少しして知らない霊力の人間は、水季君と春夏秋冬さんを残し、来た道を引き返す。一方、2人はこちらに向かって進みはじめた。

 心臓が一層うるさくなる。脈打つ度に身体が波打つ。しかし、逃げてはいけない。と思う。怖いけれど。

 

 お墓に視線を固定して蝋人形のようになっていると、足音が大きくなり、そして、立ち止まった。

 

「久しぶりだね」「よっ、元気だったか?」水季君は(たい)らかに、春夏秋冬さんは軽やかに言った。

 

 身体の正面を2人へ向ける。

 

「水季君……だよね」

 

「うん、そうだよ」声変わりはしているけれど、その奥にある響きは昔と変わらない。「雫さんに会いに来たんだ。少し話がしたいんだけど、いいかな?」

 

 頷く。

 

 記憶を読めば、話を聞かなくても用件は把握できる。でも、それをするつもりはない。彼女たちの言葉を大切にしたいから。

 

 春夏秋冬さんが半歩前に出る。「約束、守れなくてごめん」

 

 約束? 何のことだろうか、と自分の記憶を調べる。ほとんど間を置かずに思い当たった。きっと〈遊びに行く約束〉のことだろう。

 そんなことを気にしていたのか、と驚く。殺されてしまったのだから、本当にどうしようもない。春夏秋冬さん──環君が謝る必要はない。

 

 謝らなければならないのは私だ。「ごめ、ごめんなさい」噛んでしまった。「勝手に記憶を入れ……て……」言っている途中で、春夏秋冬さんはどこまで知っているのだろうか、という疑問が頭を過り、言葉が尻すぼみになった。

 

「大丈夫、全部理解してるよ」水季君が赤ん坊をあやすように答えた。私の心を読んでいたらしい。

 

「そう……なんだ」と絞り出し、「怒ってないの……」と春夏秋冬さんに訊ねた。

 

「怒ってねぇよ」

 

 どうして、と思う。「私はあなたの記憶と精神を勝手に弄ったんだよ? 本来のあなたを歪めたんだよ? それなのにどうして──」

 

 彼女は、はは、と小さな笑いを零した。「だってよ、冷静に考えてみろよ。(わたし)は殺されかけて、(おれ)に助けられて、結果、(おれ)は死んじまった。(わたし)からすれば、(おれ)は命の恩人なわけ。(おれ)の記憶を受け入れて、ずっと憶えててやるのは、多分、(わたし)の義務だ。(わたし)が悪いとは思わないけど、(わたし)(おれ)の死の一因ではある。違うか?」

 

 違うような、違わないような、よく分からない。返答に困っていると、「今も記憶は食べてんだよな?」と彼女が質問してきた。

 

 頷く。

 

「そうか」と囁き声に近い声量で言ってから、「じゃあ、これからは空と環(わたしたち)の記憶を食べてくれよ」と続けた。

 

 そういえば、と環君の言葉を思い出す。〈俺の中にある雫と過ごした記憶を少し食べて、また一緒にいて記憶を作って、また記憶を食べてってのを繰り返せば、実質的に被害者ゼロだから退魔師から怒られないんじゃねぇか?〉記憶を自炊するんだ、と訳の分からないことを言って、自分の発言に自分で吹き出していた。

 

「ありがとう」でも、それはできない。「これ以上、春夏秋冬さんの記憶を操作すると、精神がバラバラになってしまう可能性が高いの。だから、できない。ごめんなさい」

 

「マジかよ」春夏秋冬さんは、綺麗に整えられた眉を少しだけひそめた。そして、後ろを振り返り、水季君に言う。「どうしよう、当てが外れた。水季ならなんとかできないか?」

 

 飾らない声音で甘える彼女の姿とそれを見る水季君の優しい目を見て、私は察した。この2人は頼り頼られるのが当たり前の関係なんだ、と。

 羨ましく思う。そういう相手が私にもいてくれたらな、と心が(きし)む。

 

「雫さんはさ、食べる記憶を指定されるのは大丈夫なんだよね?」水季君に問われた。

 

「大丈夫だけど……」

 

「僕の知り合いの退魔師に、雫さんの食事についてお願いしてみてもいいかな?」

 

「どういうこと」

 

「退魔師ってさ、僕ら妖怪と敵対してるわけじゃなくて、人間と妖怪が共存するための調整役なんだよね。だから、雫さんが無関係の人間から記憶を奪わなくても済む方法があるんなら、多分、協力してくれると思うんだ」

 

「そうなの……?」本当だろうか。

 

「本当だよ。あの人たちのトップだって半妖だしね」

 

「……」数秒、考えて、「分かった」と──。

 

「よし、決まりだな」春夏秋冬さんが、夏の晴天を思わせる爽やかな声を発した。そして、すたすたと移動し、私の横、つまりは琴家のお墓の前に立った。手を合わせ、その大きな瞳を閉じる。

 

 墓地が静けさに包まれた。夏の日射しに耀く彼女の肌は汗が滲んでいる。つー、と汗がこめかみから顎に流れた。

 

 束の間が過ぎ、彼女は瞼を上げた。こちらに向き直り、口を開く。「じゃあ、遊びに行こうぜ」

 

「?」が頭に生まれ、ほとんど無意識に、「私に言ってるの?」と訊いていた。

 

「他に誰がいるんだよ」春夏秋冬さんは呆れ顔だ。

 

「……」何と答えればいいか分からず、黙してしまう。

 

 そんな私を見かねたのか、水季君が春夏秋冬さんの言葉を補う。「空は、雫さんを友だちだと思ってるみたいなんだ。嫌じゃなければ付き合ってあげてよ」

 

「え……あ、うん」意味がよく理解できず、曖昧に肯首した。

 

「ほら、ぼさっとしてないで行こうぜ」と彼女は私の手を取る。「それとも、またおんぶしてやろうか?」

 

「やめて!」恥ずかしさを思い出して存外に鋭い語調になった。

 

 ふふ、と笑った春夏秋冬さんは、「冗談だよ」と続けた。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 早速、水季は雫のことを退魔師に相談した。退魔師から記憶の一部を貰えないだろうか、と単刀直入に言ったらしい。

 いきなりどうしたんですか……、と困惑する退魔師に事情を説明したところ、非常に驚かれたらしいが、最終的には条件付きで了承してもらったそうだ。

 その条件とは、〈雫が退魔師の手伝いをすること〉。基本的には退魔師の助手のような立ち位置で働き、その退魔師から、なくなっても困らない記憶を報酬として貰うという形になったようだ。

 

 9月に入り、暑い日と涼しい日が入り乱れるようになった。朝晩の寒暖差もある。水季には体調を崩してほしくないので、最近は栄養バランスを考えて料理を作っている。妖怪が風邪をひくかは知らないけど。

 

 金曜日は学校帰りに水季と買い物をして、そのままアパートに泊まるのが私たちの勝利の方程式だ。シルバーフェニックスの中継ぎ陣にも、私たちを見習って1日も早く必勝パターンを見つけてほしいものだ。

 

 水樹と肩を並べていつもの道を進んでいると、アパートの近くの十字路で、右目の目尻にある泣きぼくろが儚げな印象を与える美人──雫に出くわした。紙袋を手に提げている。

 

「あ、こんにちは」とひかえめな声量で挨拶をする雫の表情は、以前よりも明るくなっているように見える。

 

「よう」「こんにちは」私と水季が応じると、雫は、「お土産買ってきたよ」と紙袋を持ち上げた。

 

 彼女は昨日まで退魔師の仕事で県外に行っていた。出発前に、お土産頼むぜ、とお願いしていたことを今、思い出した。

 

 もちろん、馬鹿正直にそれを白状するつもりはない。「さんきゅー」何食わぬ顔で感謝を伝え、「せっかくだから上がっていけよ」と提案する。

 

「頼んだくせに忘れるってどうなの」水季が余計なことを口走ったので、尻を叩く。痛い、と聞こえた。

 

 雫が笑う。「夫婦みたいだね」

 

「おう」顔に熱が集まってゆく。

 

 最近は水季との結婚生活をよく想像する。〈家事の分担はどうしよう〉〈仕事は何をしてるんだろう〉〈子どもの名前はどんなのがいいかな〉といったことを自然と考えてしまうのだ。

 水季には全部バレているはずだけど、具体的なことは何も言われない。何を考えているのだろう、と不安になることはある。でも、水季も同じ気持ちだと信じてる。

 

 水季が、ふふ、と息を吐き、「結婚式でさ」と話し出した──私の心が跳ねる。「新郎新婦の馴れ初めを紹介することがよくあるみたいなんだ」

 

 話の先を察したのだろう、雫は柳眉(りゅうび)をハの字にし、「ごめんなさい」と躊躇うように口にした。

 

 感謝してるんだよ、だから謝らないで、と水季は静かな声音で言い、「僕らの場合、特殊すぎるからどう切り抜けようかって悩んでるんだ。無難に嘘で固めるのは面白みに欠けるしね」と一瞬だけ私に目をやった。そして、「なんかいい案ない?」と雫に問う。

 

「ぇ……、うーん……」雫は思案し、しかし、「ごめんなさい。すぐには思いつかない」と結論付けた。

 

「そっか。じゃあ、思いついたら教えて」

 

「うん。考えとく」

 

 根性のひん曲がった水季のことだから、私の心を(くすぐ)って、からかっているだけかもしれない。でも、水季への愛が不安と疑いを塗りつぶしてゆく。

 心の芯が温かい。水季にそのつもりがあるのなら、心置きなく尽くせる。私のすべてをあげられる。愛おしい気持ちがどんどん湧いてきて心を満たし、それでも止まらず、溢れ、口元が弛んでしまう。抱きつきたくてムズムズする。

 

「私、本当にお邪魔してもいいの……?」雫が愉快そうに訊ねた。

 

「いいよ」「いいに決まってんだろ」水季と私の声が重なる。

 

 私たちにきっかけをくれた大きな蝿の正体は、女神のように綺麗な女の子だった。

 

 秋の夕日が私たちを、空を、世界をオレンジ色に染めている。悪くないな、悪くない。心からそう思えた。

 

 

 

(了)




これで本当に完結です。なんだかよく分からない話でしたが、ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました!

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