【完結】サトリな僕とTSな君   作:虫野律

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8話と9話は連続投稿です。


迷えるメロディ②

 ライブハウス、〈regret(リグレット)〉にて、幽霊さんと空は歌った。

 観客もそれなりに聴き入っていたし、ライブ自体は成功と言ってもいいはずだ。

 しかし、彼女たちの顔は冴えない。幽霊さんの彼氏は見つからないし、源もここにはいないからだ。

 源はまだ少し掛かるらしい。いったい何をしているのか。一応、三つ編みの軽薄そうな男との写真を送ってきたから、嘘はついていないと思われるが、詳細は話してくれないみたいだ。

 

 現在の時刻は24時過ぎ。〈regret〉の営業終了時間は24時だ。後片付けを手伝おうと申し出たのだが、〈子どもは寝る時間だぜ〉と静は私たちを追い出した。礼は述べておいた。

 外はまだ蒸し暑い。東京の夏は、私たちの町のそれよりもずっと湿っている。郷土愛なんて1ミリも持ち合わせていないけれど、慣れ親しんだ夏のほうが私は好きだ。

 

 最寄りの駐車場を目指して街を歩きながら、姉さんは空とその隣の空間に一瞬だけ視線をやった。「すごく良かったよ」

 

 初めて憑依して歌った時に比べ、のびのびと声を出せていた。硬さは歌の天敵だ。慣れたことでそれがなくなったというのは、やはり大きかったのだろう。

 

「ありがと」「うん」幽霊さんと空がそれぞれ応えた。

 

「それにしても」と咲良は言う。「幽霊って本当にいるんだねぇ」

 

「本当にね」幽霊さんが真っ先に同意した。「私もまさか実在するとは思ってなかったよ」しかし、この声は咲良には届いていない。なので、私が代わりに、「自分でも驚いてるって」と伝える。

 

 そういうもんなのかぁ、という呟きは風に乗り、どこかに消える。

 

「ん」空はダメージジーンズのポケットに手を入れ、スマホを取り出した。

 

「どうしたの?」姉さんが訊ねる。

 

 答えるより先に空は嬉しそうに、そして、安心したように相好(そうごう)を崩した。「水季が、『吉祥寺に着いた』って!」

 

 同性でもドキリとする、心の柔らかい所を(くすぐ)る笑顔だ。

 

 うひゃー、と誰かが洩らした。もしかしたら私かもしれない。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 僕のような音楽に興味のない妖怪が、ライブハウスなる空間に足を踏み入れる日が来るとはまったく思っていなかった。なんだか陰気くさいな、というのが、陰気くさい僕が最初に抱いた感想だった。もっとたくさん人がいれば印象は違ったかもしれないが、いないのだから仕方ない。

 

 僕を〈可愛い〉と言った静という男性に、バンドマンなる如何にも如何わしいカテゴリーの人間が騒ぎ立てる場所へと案内された──案内といっても、迷路ではないから僕らだけでも迷う可能性はない。したがって、今のところ僕の中で静さんの存在意義はない。

 

「あ」という声が誰から発せられたのかを突き止める前に、僕はステージで歌う女性を発見した。

 

「水季」と空にTシャツの裾を掴まれた。

 

「分かってる」そう答えると、「どんな感じだ?」と空は質問した。

 

「普通の幽霊だね。危ない感じはしないよ」

 

「そうか」と安堵を洩らす。安心すればTシャツを解放してくれるだろう、と考えていたのだけれど、そんなことはなく、空は僕の近くに居座るようだ。

 

「え? 本当になんかいるの?」(さかき)さんが驚きと疑いを言葉にした。彼女は見えない人だからこの反応も不思議ではない。

 

 一方、4回くらいは脱色していそうな髪色の椋本(くらもと)さん、ある程度は覚悟していた静さんと文音(あやね)さんには大きな動揺はない。

 

 いつの間にか、歌声は止まり、静寂が地下空間を占有していた。

 

「こんばんは」僕は挨拶した。「どうして歌っているんですか?」

 

「やっぱり見えてるんだね」幽霊さんは言った。

 

 歌声でなくとも彼女の声はスルっと頭に入ってくる。

 だから、僕は(うなぎ)を連想した。彼女の声帯で生まれた声が、口から飛び出して、にゅるり、と耳から脳に侵入するのだ。

 やはりバンドマンは得体が知れないな、と内心、頷いた。

 

 

 

 

 

 

 最近、分かったことがある。

 それは読心の異能と恋愛感情の関連性だ。本当に空が好きなのだと自覚してから、僕の読心能力は雨の日でも問題なく使用できるようになった。

 彼女と過ごし、そういった感情が深くなるにつれ、心もより深く読めるようになっていった。

 

 だから、幽霊さんの中にある、本人が見ないようにしている記憶の欠片も見ることができた──その欠片は数枚の静止画だ。

 

血塗(ちまみ)れで倒れている男性〉〈建物にぶつかった状態で停止した車〉〈交差点と青い空〉〈七条河原町(しちじょうかわはらまち)の案内標識〉

 

 これらは彼女が見た光景のはずだ。視点が低いことから判断するに、彼女自身も道路に──おそらく仰向けに──横たわっているのだろう。

 つまり、彼女と血塗れの男性は自動車の事故に遭ってしまった、と解釈し得る。

 

 彼女は、死因は癌だった、と説明したが、嘘()しくは勘違いである又は辛い現実を受け入れられずに自身の記憶を捻曲げた可能性も否定できない。

 

 そして、もう1つ無視できないのが、〈七条河原町の案内標識〉だ。ネットによると七条河原町は京都にあるそうだ。

 空が泣いているのを見て、幽霊さんは〈ふたかめ〉と口にしたけれど、これは京都などの方言で〈二重瞼(ふたえまぶた)〉という意味らしい。ということはつまり、観光で訪れて事故に遭ったのではなく、京都で暮らしていて不運にもそうなってしまった、と考えるのが妥当な気がする。

 

 でも、そうすると、どうして東京にいるのか、という疑問が生まれる。ない話ではないけれど、どのパターンかを断定するには情報が足りない。

 それに、探している恋人が記憶の男性であるならば、そして、恋人がその事故で亡くなったのならば、東京で探していても見つからない可能性が高い。

 

 だから、僕は京都に行くことにした。

 観光業界は、近所のコンビニに行く気軽さで京都にも行くことができると確信しているみたいだし、その自信がどこから来るのかは一切不明だけれど、突発的に京都への旅行を決定することも何ら非常識ではないと僕も確信することにしたのだ。

 とはいえ、仮に非常識であったしても、空に、〈なんとかしてやってよぅ〉と言われてしまったので、やはり京都を訪れていただろう。これが俗に言う、惚れた弱みというやつなのかもしれない。

 

 というわけで、僕と君丸(きみまる)は京都にいた。

 車を出してほしい、とRINE(ライン)したら、ほないきまひょか、と西の言葉が返ってきた。ので、スムーズに京都まで来ることができたのだ。

 

「早速、清水の舞台から飛び降りてみようぜ!」君丸ははしゃいでいる。

 

「君丸は周りから認識されないようになれるからいいかもしれないけど、僕がやると変な人って思われちゃうよ」

 

「言われてみれば、たしかに……」盲点だった、と眼球が特殊な構造をしていることを言い訳にした。

 

 僕の知識が正しいのならば、清水紐なしバンジーは観音様に願掛けする際のエンターテイメントだったはず。つまり、君丸には叶えたい願いがあるということだ。

 

「何を願うの?」

 

透緒子(とおこ)に変な男が近づかないようにしたい」

 

「……そっかぁ」

 

 

 

 

 

 

 清水の舞台から飛び降りた君丸は、〈あんま気持ち良くなかった。清水さんにはもっと頑張ってもらわねぇとな〉と文句を言っていた。

 

 しかし、その後は文句を言わずに僕の調査に付き合ってくれた。

 初めに〈七条河原町〉で、記憶にあった交差点を探し出したのだが、平和そのもので手掛かりらしきものや地縛霊(じばくれい)は見当たらなかった。

 次に、ライブハウスや楽器店巡りをした。〈事故死〉〈バンド〉〈女〉〈京都〉で検索しても有益な情報が得られなかったので地道にやるしかないのだ。

 そうして刑事気分を満喫し、4軒目のライブハウスでそれらしい情報をゲットできた。

 中年の男性スタッフは、〈もしかして……〉と心当たりを語ってくれた。

 曰く、5年ほど前に七条河原町の交差点で、歩いていた男女2人組が自動車に突っ込まれて死亡するという事故があったそうだ。なんでも、その2人組はアマチュアバンドとして京都で活動していて、2人とも演奏と歌唱をこなしていたらしい。

 おそらくその時に亡くなったのが幽霊さんとその恋人だろうと思い、スタッフさんに彼らのことを詳しく訊いていろいろと教えてもらった。

 

 そして、京都の名所に寄り道したり、悪さをしている霊を退治したりしながら、彼らがライブを行っていたというライブハウスや公園、歩道を回り、1人の浮遊霊を発見した──場所は鴨川に架かる四条(しじょう)大橋。年の頃は25くらいで、ありきたりなショートヘアの男性だ。記憶にあった血塗れの男性はこの人だと思われる。

 

 彼に近づき、自然体で話し掛ける。「鴨川なのにカモいなくないですか? いつもこうなんですか?」

 

 だとすると詐欺もいいところだが、もしかしたら遠回しに、(さぎ)ならいますよ、と伝えようとしているのかもしれない。その場合は詐欺でありながら詐欺ではないということになる。京都にはひねくれ者が多いのだろうか。

 

「今は見えないけど、カモはいるよ」彼は答え、「ん?」と疑問を浮かべた。「あんたら何者だ?」

 

「幽霊が見える一般人ですね」と僕が言い、「カモは見えないけどな」と君丸が補足した。

 

「へー」男性は納得していなそうに相づちを打った。「で、何の用なんだ?」まさか鴨川の名前にいちゃもんをつけたかっただけとか言わないよな? と鳥のいない川面に切れ長の一重瞼の目を向けた。

 

「あなたを探している女性がいるんです」すでにこの男性──辻 俊哉(つじ としや)さんの心は読んだ。吉祥寺のライブハウスで聴いた歌を恋人と作っていた記憶も事故の記憶もあるし、この人で間違いない。「茶川(ちゃがわ) 七海(ななみ)さんっていうんですけど、知ってますよね?」恋人の名前、つまりは空たちといる幽霊さんの名前を口にした。

 

「……っ」息を呑み、「どこにいるんだ?!」と唾を飛ばす。

 

「茶川さんは東京にいます」

 

「やっぱり生きて──」

 

「いいえ。あなたと同じ浮遊霊になっています」

 

「!?」辻さんは朧気な身体を揺らした。「そんなはずは……」と弱々しく洩らす。

 

 辻さんが浮遊霊として目覚めた時、茶川さんは京都からいなくなっていた。どうやら実家は東京にあるらしく、推測するに、両親が遺体を引き取って家族の墓に埋蔵したのだろう。だから、彼女は東京にいた。

 のだが、辻さんは心のどこかでその可能性に気づきながらも、しかし、彼女の死を受け入れられずに目を逸らしていた。死体を見たわけじゃない、自分が眠っている間に引っ越してしまっただけだ、と。

 だから、京都から出なかった。東京に行くと恐ろしい現実を目の当たりにしてしまうかもしれない。そんなのは認められない、と逃げていた。

 しかし一方で、茶川さんに会いたいという気持ちはどんどん強くなっていく──せめて最期にもう1度一緒に歌いたいと願っている。

 これが辻さんを5年もの間、浮世に留まらせた未練。辻さんにとっては、まさに()き世であったんじゃなかいかな。

 しかし、現実から目を逸らしていては願いが叶うことは永遠になくなってしまう。

 

 なので、僕は真実を伝える。「茶川さんは歌っています。あなたに逢いたい、あなたの声を聴きたい、と()いています」空は僕のために歌ってくれるのだろうか、と頭に浮かんだ。けれど、表情は変えずに続ける。「逢いに行きましょう。多分、そのほうがいいと思いますよ」

 

 苦しげに眉間を隆起させた辻さんは、それでも、「本当なのか。本当に七海なのか」と都合のいい夢幻にしがみつく。

 

 気持ちは分からなくもないけれど、それだときっと後悔する。いやでも、消えてしまえば後悔も愛情もなくなるか。そんなことはない、と誰かに言ってほしいようなそこまででもないような不思議な気持ちになり、君丸を見ると、彼は、「ここに1週間前に買い替えたスマートフォンがある」と手帳型ケースに包まれた、手帳の遥か上をいく利便性のアイテムを取り出した。

 

 君丸はささっとスマホを操作し、「あった、あった」と独言(どくげん)した。画面を辻さんに向け、「この動画は、あんたの彼女さんが、こいつの彼女に取り憑いて歌ったやつだ。聴いてみ」とタップし、再生を開始した。

 

 前奏が流れ始めた瞬間、辻さんの表情が歪む。それは、母親に悪戯を見つかってしまった幼児を思わせる、後ろめたさと恐怖を孕んだものだ。

 この歌は辻さんたちの未発表の楽曲で、歌えるのも演奏できるのも彼らだけ。にもかかわらず声も体型も違う人間が歌っている。

 

 Aメロが始まり、Bメロ、そして、サビへと進むと、やがて辻さんから強張りのようなものが抜けてゆく。もう否定仕様がない、と思ってくれたみたいだ。

 

「分かった。もう分かったよ」辻さんは諦めたように言う。「エッジの多用も抑揚やビブラートの癖も、キーボードを触る指使いも全て七海のものだ。こんなの……」認めるしかねぇじゃん、と呟いた。

 

 分かってくれたようで何より、と君丸はスマホを自分に向け、画面をスクロールする。「あ」と声を発した。

 

「どうしたの?」僕は訊ねた。

 

「俺のコメントに低評価つけられてる……」

 

「なんてコメントしたの?」

 

「〈これは痩せ型美乳のDカップ 間違いない〉って書いといた」

 

「……」

 

 そのとおりだけど、あえてコメントする必要はないと思う。

 

 

 

 

 

 

「東京のどこに向かえばいいんだ?」辻さんが訊いてきた。自力で行く必要があると勘違いしているようだ。

 

「目的地は吉祥寺ですが、僕らがちゃんと送り届けますよ」

 

 君丸が自慢のSUVを指差す。「あれでな」

 

「……幽霊って車に乗れるのか?」辻さんは首を捻った。「すり抜けて置いてけぼりを食う羽目(はめ)になるんじゃ──」

 

「ふはっ」君丸が吹き出した。「車に乗るイメージをしっかり持てば大丈夫だって」

 

「実際に座席に座るわけじゃないけど、座ってるのと同じような状態になるんですよ」僕の、分かる人にだけ分かればいい、というスタンスの説明に、辻さんは、「……とりあえずやってみるわ」と納得してくれた。

 

 結果は成功。「すげー、ちゃんと乗れてる」と楽しそうだ。

 

 斯くして、男3人のドライブが始まった。

 

 

 

 

 

 

 出発してから数時間後、吉祥寺に到着した。 

 時刻は深夜の12時を過ぎているが、この街は僕らの地元に比べたらまだまだ人間の気配が濃い。

 

『ウィッチパーキングまで来れる?』『はやく会いたい』と空がRINEしてきたので、それに従い、どうせ魔女のいないであろう駐車場に向かう。

 

 辻さんは緊張している。

 

「大丈夫ですよ」根拠はないけれど、僕はそう口にした。

 

「ああ、分かってる」根拠なく、辻さんはそう答えた。

 

 

 

 

 

 

 深夜の吉祥寺で、彼らは再会した。そして、僕らも。

 

「おせーよ、ばか」言葉とは裏腹に空の表情は柔らかく、心は、(ぎゅってしたい。してほしい。でも、流石に今は我慢したほうがいいよな……。辛い)と可愛らしい。

 

 後でね、と空を(なだ)め、無言で見つめ合う辻さんと茶川さんを見る。

 薄靄(うすもや)のようだった茶川さんの顔が明確なものへと変化するのに伴い、(俊哉、七海、〈告白〉、〈flying apples(フライング アップルズ)〉、事故……)と記憶が(よみがえ)ってゆく。

 彼女は、医者に癌だと診断されていたようだ。それを辻さんに伝える前に事故に遭ってしまったらしい。死因は癌、という言葉が出てきたのは、こういった背景があったから──恋人の死から目を逸らすために自らの病気を無意識に利用したのだろう。

 

「俊哉……」呆然と名を口にした。「俊哉」もう1度、今度は噛み締めるように。

 

「七海。ごめん」辻さんは顔を伏せた。「俺が出かけようって言わなければ──」

 

「関係ないよ。あんなのどうしようもないって」そして、茶川さんは笑った。「ねぇ!」

 

「?」顔を上げる。

 

「歌おうよ。またあなたの歌を聴かせて」それだけで私は大丈夫だから、と。

 

「……」少しの後、分かった、と頷いた。

 

「姉さん」という声が横から聞こえた。椋本(くらもと)さんが文音さんに話し掛けている。「〈regret〉使わせてもらえないかな?」辻さんたちに目をやる。「歌いたいんだってさ」

 

 夜の光に文音さんの笑みが照る。「いけるいける。お姉ちゃんに任せて」

 

 それを見た君丸が、魔女みたいだな、と呟いた。

 

 そうだね、と言う。

 

 

 

 

 

 

 ステージで歌ったほうが気持ちいいっしょ。椋本さんはこう言って、辻さんと茶川さんを〈regret〉に誘導した。

 もう深夜の1時だというのに静さんはピンピンしていたし、他のスタッフさんも4人も残っていた。このノリは何なのだろう、と僕は理解に苦しんだ。

 けれど、ふと浮かんだ。この人たちは音楽に恋をしているのかもしれない。だから、音楽のためならよく分からない連中の非常識なお願いにも寛容さを失わないでいられる。

 

 ステージはそんなに広くない。一方、客のためのスペースはそこそこ広い。僕らの学校の古くさい50メートルプールよりも少し狭い程度だ。しかし、収用人数500人と(うた)うのは無理があると思う。が、今は9人しか観客はいないので無理なことは何もない。

 

 隣の空を見る。彼女が微笑む。これは茶川さんだろう。雰囲気が空のものではない。

 僕と空はステージにいる──僕はギターを、空はキーボードを担当する。

 なぜこんな珍妙なことになっているのかというと、最初は辻さんと茶川さんが2人だけでアカペラを披露したのだけど、霊感のある僕と空、君丸、椋本さん以外には〈黒板をひっかいた音〉にしか聞こえず、何とも言えない微妙な空気になってしまったからだ。

 茶川さんは言った、〈空ちゃん、身体使っちゃ駄目?〉と。

 最初のアカペラにいたく感動していた空は2つ返事で応じ、次いで、僕に、〈辻さんに憑依してもらうことってできないのか?〉と上目遣いに問うた。僕の隣でそれを見ていたスタッフさんが、ごくりと喉を鳴らしていた。

 

 というわけで、辻さんは僕の身体を、茶川さんは空の身体を使い、霊感のない人にもちゃんと聴こえるように歌う運びとなった。

 ちなみに、僕は声帯模写のような能力──心の声を僕が代弁するイメージだ──を使用して歌う予定だ。

 

(なんだかこういうの嬉しいな。水季との共同作業……)と空の心の声。(俊哉と歌った〈告白〉を聴いてもらえるなんて……)これは茶川さん。(なんだろう、この感覚。身体の芯に不思議な熱を感じる)と妖力に戸惑っているのは辻さんだ。

 

「今から歌う曲は〈告白〉と言います」空に憑依した茶川さんがマイクに向かって声を発する。「幼い恋の終わりと、若い愛の始まりの歌です」

 

 わぁー、と沸くことはないけれど、しっとりとした拍手の音が深夜の地下空間に響く。

 

 キーボードの前に座った空が僕に視線をやる。僕らを通して、茶川さんと辻さんの目が合う。どちらからともなく頷き合い、そして、空の美しい指が白と黒の鍵盤の上を舞い始めた。

 

 優しく、切ない旋律が流れ、次いで、僕らもアコースティックギターの弦を(はじ)き、演奏を開始する。

 雪が降り、静かな湖面に不確かな波紋が生まれてゆく。そんな光景が浮かぶメロディ──辻さんの心が誰かの影に思いを馳せ、茶川さんも郷愁に似た情感を奏でる。

 そして、空の歌声が始まった。濡れ雪が降るように深々(しんしん)(ことば)が紡がれてゆく。1番は、すれ違いと別れを後悔混じりに歌う──主役は空と茶川さんだ。

 照れだろうか、若さゆえの意地のようなものだろうか、そういった未熟さを表現した歌詞は、辻さんと茶川さんの中にある古い感情だけでなく空の心とも重なり、やがてそれは雪片(せっぺん)を思わせる美しい歌声に、より強い哀切(あいせつ)(にじ)ませる。

 辻さんが内心、複雑な微笑を浮かべている。彼にも、彼らにもいろいろあったのだろう。2人にしか見えない景色があったのだろう。

 なんてことをのんびり考えていると、僕と辻さんが主役の2番まで来てしまった。ここでは、自分の心を見つめ直し、そうして失ったものの大きさに気づく。

 辻さんは深い感情を歌声に乗せている──僕の声帯模写は対象者の感情が強ければ強いほど精度が増す。だから、今の僕の声は限りなく彼のものに近づいている。

 細く柔らかい息により生まれた声の新芽が、喉、口腔(こうくう)鼻腔(びくう)で共鳴し、しなやかな成木となる。どこか綿菓子を思わせる、甘く優しい歌声は聴く者の心を癒してゆく。

 観客は、衣擦(きぬず)れの音すら(いと)うように動かずに耳を傾けている。

 

 2番が終わり、間奏中に空を見れば、紅葉した山々のように頬が色付いていた。(この歌のラスサビは……)と彼女の心はざわめいている。

 

 落ちサビと呼ばれる、ラスサビ前のテンションを落としたパートに入った。演奏はギターのみ。

 茶川さんが、空が語り掛けるように歌う。恋しい気持ちが溢れ、ただ会いたいと願うシンプルな歌詞だけれど、彼女たちが歌うと陳腐さは感じられない。

 

 そして、楽曲──物語のクライマックスであるラスサビへと進む。ここはもう本当に真っ直ぐに〈告白〉するだけ。

 

(水季……)空の心が僕だけに向く。

 

 仮に空がプロの歌手としてステージに立っているのならば、観客を忘れるのは恥ずべきことだろう。でも、僕たちには関係ない。ただの素人で、ただの彼氏彼女だ。

 だから、この瞬間、僕は空だけを想う。

 

 辻さんと茶川さんの懐かしい告白、僕と空の初めての告白。それぞれが心を込め、最後のフレーズを歌い上げる。 

 

 ──だから、君を。

 

 空の声が。

 

 ──君だけを。

 

 僕たちの声が。

 

 ──愛してる。

 

 交わった。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 みんな、空と源──茶川さんと辻さんの歌に、たったの5分の旋律が創り出す世界に引き込まれていた。

 

「……」

 

 最後のメロディ(アウトロ)が終わったというのに、誰も何も言えない。1秒、2秒と無音の時が過ぎ、やがて静さんが声を上げた。「やるね~! いいじゃん! おっちゃん、年甲斐もなくキュンキュンしちゃったぜ!」

 

 失笑──塞き止められなかった苦笑が観客全員から洩れる。隣を見ると、咲良と目が合った。「これ、発表しないの勿体なくない?」

 

「勿体ない」私ではなく、姉さんが答えた。勿体ない、と私も肯首しておく。

 

「ですよね」と深く頷いた咲良は、ぷっくりとした涙袋の、存在感のある瞳を空たちに向けた。

 

 多分、バカップルに退路はない。

 

 

 

 

 

 

 空と源、茶川さんと辻さんのレコーディングは淀みなく完了し、編集作業も本気を出した静さんと姉さんの手によりあっという間に終わってしまった。

 姉さんは、彼女たちの歌を、〈知り合いのバンドの「告白」って曲ですー。聴いてってね〉という言葉を添えて自分のバンドのアカウントから投稿した。

 空と茶川さんのみで歌った動画とは、いい意味で伸び方が大きく異なっていた。コメント欄も、芸術性すら感じさせる、空のスタイルの美しさと顔出ししていないにもかかわらず溢れ出る圧倒的美少女オーラについてのもの、純粋に歌のクオリティについてのもの、源と辻さんのイケボについてのものなど、混沌とした盛り上がりを見せている。

 

 投稿から2日後の夜、茶川さんと辻さんは完全に消滅した。

 

〈ありがと、楽しかったよ〉〈わざわざ京都まで来てくれて本当にありがとう。次はカモを見られるといいな〉

 

 これらが彼女たちの最期の言葉となった。

 

 なぜカモ? 源は京都でいったい何をしていたんだ?

 

 源に訊いたら、〈京都の人はひねくれてるみたいなんだ。だから、ややこしい〉と訳の分からない答えが返ってきた。君のほうがひねくれてんじゃない? と言っておいた。

 

 車窓の中の景色が凄いスピードで流れゆく。

 

 私たちの時間もすぐに終わってしまうのだろうか。

 

 地元に帰る新幹線の椅子に座りながら、柄にもなくそんなことを考えていた。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 東京から帰った空はまるでたった今思い出したかのように言った。そういえば夏休みの課題いっぱい残ってたんだった、と。

 そうなんだ大変だね、と僕は受け流した。しかし、彼女は僕の手をガッチリと掴み、一緒に勉強しようそのほうが効率的だそうに決まってる、と力説し、そして、最近になって上手くコントロールできるようになったらしい媚びを孕んだ可愛い声で、ね、お願い、と宣った。

 

 なので、仕方なく空の部屋で、屁理屈と正論の狭間をさ迷う評論文の問題を解いている。

 

 肝心の空はというと、苦手な日本史の問題に向かって、「なんて読むんだよ。変な名前付けんな」とか「なんですぐ(けんか)するんだよ。ばかじゃねぇの」などとぶつぶつ言っている。

 

「少し休憩しよう」僕も疲れたので、そう提案した。屁理屈は嫌いじゃないけれど、現代文の問題になると途端に魅力がなくなるのだ。

 

「そうすっか」パッとシャープペンシルを放し、座ったまま、うーん、と上半身を伸ばす。

 

 平和だなぁ、と空を眺めつつ、「愛してるよ」と口にした。他意はない。ただそう思っただけだ。

 

 表情を弛めた空は、猫みたいに柔軟な身のこなしで、クッションに座る僕に接近し、「私も……」と抱きついてきた。「私も愛してる」

 

(恥ずかしい……けど、幸せ……)僕を抱きしめる力を強め、(……まだ時間はあるし、長めの休憩(・・・・・)を取ってもいいよな? でも、勉強手伝ってってお願いした私から誘うのも気が引ける……。ぅぅ、駄目だと思うと余計シたくなってきた……)と楽しそうだ。

 

 なので、僕は優しい声で言う。「課題が終わるまではプラトニックな関係でいよう」

 

「……」

 

(バレてる。エッチしたくなってんの完全にバレてる。……いやでもバレてんならもう開き直っちまうか。よし!)

 

「強引に始めようとしても乗らないからね」

 

「……いじわる」

 

 知ってる。 

 




青春ものと言えばバンドだ、という偏見に従い、このエピソードを作りました。

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